山口洋子『魔法の液体』(2)(思潮社、2013年02月28日発行)
山口洋子の不思議な「素直」は「鴉」という作品にも感じられる。
畑仕事をしていたらカラスが鳴く。「カア」ではな「アッアッア」と聞こえる。変だと思う。山口の肉体はカラスは「カア」と鳴くと「覚えている」。それは「鋳型」になってしまっている。まあ、これは、たいていのひとの「鋳型」であるのだけれど。金属のように光る黒い嘴と羽も。
で、たとえそれが「アッアッア」と聞こえたとしても、たかがカラスの鳴き声。「カアカアカア」と「鋳型」にはめ込んで描写してしまったって誰も困らないのだけれど、山口はそうしない。
そこに、山口のもうひとつの「素直」がある。
「他人」をありのままに受け入れるだけではなく、自分の肉体が感じていることも「ありのまま」に受け入れる。そういう「素直」がある。「アッアッアッ」と聞こえるから「アッアッア」と「ありのまま」ことばにする。
でもね、そういうふうに「ありのまま」を受け入れることは……。
「アッアッア」を「ありのまま」受け入れれば、それは、山口が「新しいカラス(アッアッアと鳴くカラス)」になってしまうことだ。いや、人間がカラスになるということはないから、それは「方便(比喩)」なのだが、方便であっても、言ってしまうとそれが「事実」にすりかわってしまうことがある。ことばは方便を「事実」にしてしまうことがある。「さっきそういったじゃないか」と批判の「言質」を取られるようなものだ。それはいやだな、と山口は言う。
素直になると、それはときどき、自分が自分でなくなるということを引き起こしてしまう。それは、困る。いやだなあ。カラスになるより人間でいたい。詩人でいたい。
で、このときの「身体の内側に」ある「鋳型」、それからその鋳型(つまり身体の内側)に飛び込んでくる--という具合に、山口は「ことば(比喩)」を「身体」の問題としてとらえているところが、私にはとてもおもしろく感じられる。
ことばを意識の問題ではなく「身体」の問題と考えているから、「アッアッア」という声を「ありのまま」受け入れると、つまり「カア」ではなく「アッアッア」という変化を受け入れると、「身体」そのものがカラスになってしまうという感じになる。だから、いや、という。それは単なる「音の認識」ではないのである。
「カア」と聞こえるか「アッアッア」と聞こえるかを「身体」の問題と考えるのは、山口の「身体」が「素直」だからである。
この「素直」は、ちょっとうろたえる。反抗する。その最終連も、とてもおもしろい。
カラスが「ニャア」と鳴くことはない。ここにはナンセンス(無意味)がある。牛がウグイスの声で鳴いたというのは「ほんとかなあ」に似ている。ほんともなにも、そんなことはありえない。で、そのナンセンスを利用して、つまり、「アッアッア」というのは単なる表記の問題だから、どうということはないのだ、無意味なことなのだとふりきろうとするのだが。
もしかして「アッアッア」というのはカラスのつくりだした「うそ(ほんとうではない/方便)」であり、「方便」であるなら、カラスがニャアという鳴き声つくりだしても問題ではないのだし。
カラスでさえ、そういうもの、山口が知らなかったものをつくりだせるのに、山口は人間のことばとしての「うそ(きみは体に川を飼っている、とういようなことば/うそ/方便)」つくりだせないでいる。造語能力として、カラスに負けている。
それはまるでカラスに、ほら詩をつくってみろ、しゃれたことばを書いてみろとせっつかれているようなものである。それがいやならカラスになって「アッアッア」と鳴け。
ああ、いやだ。カラスが「カア」ときまりきったことばで鳴きさえすれば山口は詩人にもどれるのに--と書いているわけではないが、そういうようなことを思っている、と言えば言い過ぎになるのだろうか。
まあ、そうかもしれないが。
あるいはカラスが「ニャア」と鳴けば、また違ったふうに動いていけるのに。そう思っているのかもしれない。
ここにナンセンス(無意味)と素直(正直)のぶつかりあいのようなものがあって、それがとてもおもしろい。
これはきのう書いた日記の書き出しにもどってしまうけれど、私が「わかっている」(と思い込んでいること)を書こうとすると、どんどん複雑になり、何も説明できないことになってしまうということろへはまり込んでしまう。
たぶん。
あ、ここがおかしい。ナンセンスだ、と笑ってしまえばよかったのだろうなあ。
山口洋子の不思議な「素直」は「鴉」という作品にも感じられる。
アッアッア
きみの木の下
背中の耳でカ行のない鳴き声をききながら
なぜかきみをオスだときめ
草を抜き小石をひろい畝をつくる
鴉はカアではないか
逃げない鴉
わたしの身体の内側には
いつのまにか出来てしまって消えない
金属光りした黒色の
きみの嘴や羽がぴったりはまりこめる鋳型がある
アッアッア
畑仕事をしていたらカラスが鳴く。「カア」ではな「アッアッア」と聞こえる。変だと思う。山口の肉体はカラスは「カア」と鳴くと「覚えている」。それは「鋳型」になってしまっている。まあ、これは、たいていのひとの「鋳型」であるのだけれど。金属のように光る黒い嘴と羽も。
で、たとえそれが「アッアッア」と聞こえたとしても、たかがカラスの鳴き声。「カアカアカア」と「鋳型」にはめ込んで描写してしまったって誰も困らないのだけれど、山口はそうしない。
そこに、山口のもうひとつの「素直」がある。
「他人」をありのままに受け入れるだけではなく、自分の肉体が感じていることも「ありのまま」に受け入れる。そういう「素直」がある。「アッアッアッ」と聞こえるから「アッアッア」と「ありのまま」ことばにする。
でもね、そういうふうに「ありのまま」を受け入れることは……。
アッアッア
気を引かせる
わたしは振りむかない
曖昧ないい顔はみせない
見上げればまっすぐに飛び込んでくるだろう
ぬるり濡れ羽色の
芯のみえない
わたしは 鴉になる
------
のは
いやだ
「アッアッア」を「ありのまま」受け入れれば、それは、山口が「新しいカラス(アッアッアと鳴くカラス)」になってしまうことだ。いや、人間がカラスになるということはないから、それは「方便(比喩)」なのだが、方便であっても、言ってしまうとそれが「事実」にすりかわってしまうことがある。ことばは方便を「事実」にしてしまうことがある。「さっきそういったじゃないか」と批判の「言質」を取られるようなものだ。それはいやだな、と山口は言う。
素直になると、それはときどき、自分が自分でなくなるということを引き起こしてしまう。それは、困る。いやだなあ。カラスになるより人間でいたい。詩人でいたい。
で、このときの「身体の内側に」ある「鋳型」、それからその鋳型(つまり身体の内側)に飛び込んでくる--という具合に、山口は「ことば(比喩)」を「身体」の問題としてとらえているところが、私にはとてもおもしろく感じられる。
ことばを意識の問題ではなく「身体」の問題と考えているから、「アッアッア」という声を「ありのまま」受け入れると、つまり「カア」ではなく「アッアッア」という変化を受け入れると、「身体」そのものがカラスになってしまうという感じになる。だから、いや、という。それは単なる「音の認識」ではないのである。
「カア」と聞こえるか「アッアッア」と聞こえるかを「身体」の問題と考えるのは、山口の「身体」が「素直」だからである。
この「素直」は、ちょっとうろたえる。反抗する。その最終連も、とてもおもしろい。
唖唖 烏乎 嗚呼
文字が鳴く
ア行でいきているきみがひどく偉く思え
カアだと思っているのはわたしだけなのか
きみはそのうちニャアと話しかけてきたりして
人語(ひとご)のひとつも創れない
越すに越せない
鴉よ
アッアッア
せっつくのはやめろ
やっぱり
脇目も振らず カアッと
カアッと
カラスが「ニャア」と鳴くことはない。ここにはナンセンス(無意味)がある。牛がウグイスの声で鳴いたというのは「ほんとかなあ」に似ている。ほんともなにも、そんなことはありえない。で、そのナンセンスを利用して、つまり、「アッアッア」というのは単なる表記の問題だから、どうということはないのだ、無意味なことなのだとふりきろうとするのだが。
もしかして「アッアッア」というのはカラスのつくりだした「うそ(ほんとうではない/方便)」であり、「方便」であるなら、カラスがニャアという鳴き声つくりだしても問題ではないのだし。
カラスでさえ、そういうもの、山口が知らなかったものをつくりだせるのに、山口は人間のことばとしての「うそ(きみは体に川を飼っている、とういようなことば/うそ/方便)」つくりだせないでいる。造語能力として、カラスに負けている。
それはまるでカラスに、ほら詩をつくってみろ、しゃれたことばを書いてみろとせっつかれているようなものである。それがいやならカラスになって「アッアッア」と鳴け。
ああ、いやだ。カラスが「カア」ときまりきったことばで鳴きさえすれば山口は詩人にもどれるのに--と書いているわけではないが、そういうようなことを思っている、と言えば言い過ぎになるのだろうか。
まあ、そうかもしれないが。
あるいはカラスが「ニャア」と鳴けば、また違ったふうに動いていけるのに。そう思っているのかもしれない。
ここにナンセンス(無意味)と素直(正直)のぶつかりあいのようなものがあって、それがとてもおもしろい。
これはきのう書いた日記の書き出しにもどってしまうけれど、私が「わかっている」(と思い込んでいること)を書こうとすると、どんどん複雑になり、何も説明できないことになってしまうということろへはまり込んでしまう。
たぶん。
あ、ここがおかしい。ナンセンスだ、と笑ってしまえばよかったのだろうなあ。
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