詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小野寺南圃『名前のない朝』

2013-03-24 23:59:59 | 詩集
小野寺南圃『名前のない朝』(沖積舎、2013年04月01日発行)

 ことばを読んでいて、ときどき不思議なことが起きる。どうにもわからないことばに出会う。私は17歳まで富山にいた。その後、九州で生活している。九州へやってきたとき、ことばにつまずいた。「方言」ではなく、いわゆる標準語、書きことば(文章)につまずいた。九州のひとの書いている詩を読むと、どことは言えないけれど、どうもわからないのである。音が聞こえてこない。「方言」の方は音が聞こえるから、正確に意味がわからなくてもなんとなく安心するが、書きことばから音(声)が聞こえてこないというのは、私にはかなり苦痛だった。私は音痴のくせして、音が聞こえないと、どうにもものごとが理解できない。それは、まあ、昔のことなので、いまは大分なれたけれど。音が聞こえなくても、読むことができるようになったけれど。
 なぜこんなことを書いたかというと。
 小野寺南圃『名前のない朝』の作品群は、音が明瞭に聞こえるからである。なんだか、とてもなつかしい響きである。
 「出発」という作品。

わたしは遅刻する
どこまでも続く夜のなかで
わたしの死は
目覚めることができない
やってこないわたしを待ちながら
澱んだ日常の寝室で
死は
何度も深い寝返りを打つ

 「意味」は関係がない、というと小野寺に申し訳ない気もするのだが、まあ、意味は関係がない。「わたしは遅刻する」という書き出しも、抽象的なのだけれど、音がすーっと肉体の中にはいってくるので、わかった気持ちになる。
 死は「何度も深い寝返りを打つ」というのは、とってもいいなあ。そのまま盗んでつかってしまいたいくらい。
 この音のつらなり、純粋な九州のひとにはどんな具合に響くのだろう。
 また、こういうことば(音)を書く小野寺にとって、九州の詩人たちのことば(音)はどんなふうに響くのだろう。聞いてみたい気持ちにかられる。

 「結婚」という詩の全行。

おれは
おまえのちいさな掌を喰べる
牛が草を喰べるように
何度も何度も噛み直す
おまえは痛いとは云わず
やさしくほほえみながら
おれの両目を抉り取る
今晩のおかずの野菜サラダに入れるの
そうおまえは云って
たんねんに たんねんに
おれの目玉を潰している
おまえとおれは
砂漠のような夜の食卓に着いて
じっと向かい合いながら
おまえはおれの
おれはおまえの
氷のように冷たくなった野菜サラダを
いつまでも
喰べ続けている

 夫婦の関係がブラックな笑いの中に描かれている。こういうことに対して、感想というものは……ない。まあ、そういうものである。で、この詩をいい詩か悪い詩か、というようなこと、言い換えると好きか嫌いかというときの判断の基準なのだが。
 私の場合、それは「音」なのだ。
 読んで、その「音」がすっきりと響いてくるときは、それは「いい詩」「好きな詩」。小野寺の詩は、私は好きである。理由は「音」が私にはとても自然に聞こえるということ。やわらかく、すっきりと聞こえるということ。
 とても、読みやすい。
 もう一篇「朝は泣く」。その前半。

遠い場所から
年老いた影がやってきて
道を尋ねている
自分の行き先を忘れてしまったので
思い出すまでの間
くたびれた心臓が
きのうの方角へ引き返した
まだ歩く距離はあるが
時間が泥濘るんでいて足をとられる
 
 「くたびれた心臓が/きのうの方角へ引き返した」というのは、抽象的すぎて、どういう意味かと問われたら、私は答えることができない。ところが、その意味のわからない「音」が肉体の中へすーっと入ってきてしまう。入ってきて、いまは意味がわからなくても、それでいいというのである。私の肉体が。
 ことばというのは、どういうことばでも、最初はわからない。わからないまま聞き、それを肉体がおぼえてしまう。そして、つかっている内に、徐々に肉体のなかで修正されて、「通じる意味」になる。この「通じる」は、とてもいいかげんなもので、たぶんに「誤解」を含んでいるものなのだが、それでも平気。
 「くたびれた」も「心臓」も「きのう」も「方角」も「引き返した」も知っていることばだから、違和感がない。ただ、わからないだけ。わからなくても、くたびれたら引き返すだろうなあなんて、いいかげんに納得している。

歩くことをやめて
あしたのことを考えていると
泥濘るんだ時間の先で
近寄ってきた夜が耳打ちしている
夜はどこか遠くへ行きたがっていたが

 この「近寄ってきた夜が耳打ちしている/夜はどこか遠くへ行きたがっていたが」という2行は、「意味」を特定しようとすればそれなりにできることかもしれないけれど、私は「意味」なんか追わない。ただ、「近寄って」きて「耳打ち」するという行為--そういうものを「音」とともに「肉体」のなかへ入れて、その「こと」を「肉体」がただ受け止めているのを感じる。そしてそのとき「夜」の「肉体」を強く感じる。「近寄る」「耳打ちする」という動詞がかかえこむ「肉体」、動詞がかかえこむ「こと」が、「肉体」になってあらわれる。動詞をとおして、夜と私の「肉体」が一体になっている。ふれあっていると実感する。そして、夜がそれでは「何を」耳打ちしたのかわからないのに、夜が「どこかへ行きたがっている」ということだけはわかる。私の「肉体」が、だれかが私に耳打ちして「……したい」とそっと言ったことを「おぼえている」。あるいは、私の「肉体」はだれかにそっと「……したい」といったことを「おぼえている」。「肉体」の動き(動詞)として「おぼえている」。
 こういう現象が起きるとき、私の場合は、「音」がとても大切。「音」が嫌いだと、そういうことは起きない。ことばはばらばらに散らばって、虚無しか残らない。

 で。突然、飛躍してしまうのだけれど。

 先日読んだ南原充士の詩。音遊びをしている詩なのだけれど、そこに私はまったく「音」を感じることができなかった。たしかに同じ音が繰り返され、そこに「遊び」はあるのかもしれないけれど、その「遊び」は頭で考えないとわからない「遊び」。言い換えると、「肉体」がかってにまねして、声に出すのがうれしいという「遊び」ではなかったか。「肉体」が動かない。
 それに比べると、小野寺のことばには「音」がある。だから「肉体」が動く。
 この「音」は、小長谷清実の「音」とも違う。小長谷の場合、そこにははっきりした発音器官、のどや舌や口蓋が音をつくりだすとのの快感が作用している。(あ、これは「感覚の意見」です。)
 小野寺の場合は、小長谷の「音」と違って、そうだなあ、耳の快感なのだ。
 少なくとも、私の「耳」には、とてもよく響いてくる。これはたとえば、松任谷由実や中島みゆきの声は私の耳には気に食わないけれど、岩崎宏美の声は気持ちがいい、というのに似ているかなあ。
 声の好み--というのは、説明がむずかしいけれど、重要かなあ。

 詩の感想になったかどうかわからないけれど、こういうことも、私の書いている「肉体」の問題には絡んでくる。どんなふうに接近していけば、それが明確になるのかわからないのだけれど……。


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ポール・トーマス・アンダーソン監督「ザ・マスター」(★★★★★)

2013-03-24 20:34:51 | 映画

監督 ポール・トーマス・アンダーソン 出演 ホアキン・フェニックス、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムス、ローラ・ダーン

 第二次大戦で精神に変調を来した男とカルト(?)の「マスター」の、不思議な依存関係を描いている。--というようなことは、まあ、関係ないなあ。
 この映画でおもしろいのは「音」(音楽)である。
 冒頭、ホアキン・フェニックスがココナツをつかってあやしげな飲み物(アルコールらしい)をつくっている。ココナツの実を鉈で割っている。そのときの「音」。現実の音と、それとは違う効果音(音楽)が重なる。その「効果音」が不思議なのである。打楽器。というか、よくわからないが、弦楽器、管楽器ではない。つまりメロディーはない。それが奇妙に印象に残る。現実の音とはずれているので、耳が聞く音ではない。しかし、聞こえる音である。ホアキン・フェニックスの「肉体」が聞いている音、「肉体」の内部でなっている音という印象がする。耳ではなく、「肉体」の内部で聞いている音、内臓が聞いている音。あるいは内臓が出している音か。
 ホアキン・フェニックスがフィリップ・シーモア・ホフマンと出会うきっかけの船。そこではダンスパーティーが開かれている。運河(川?)を行く船の明かりのまぶしさ。音楽のきらびやかさ。それは「外」にある音であって、ホアキン・フェニックスの「肉体」の内部から聞こえる音楽ではない。けれども、その音楽にひかれるようにホアキン・フェニックスはその船に潜り込む。何か、よくわからないものに動かされているのである。「肉体」の内部から聞こえる音(音楽)とホアキン・フェニックスが錯覚したのかもしれない。その音とホアキン・フェニックスの「肉体」の内部の音が、和音のように結びついたのである。
 二人の関係はとても奇妙である。ホアキン・フェニックスには他人を殺したので逃げなければならないという「理由」のようなものがあって、フィリップ・シーモア・ホフマンの船に乗り込んだということがいえる。ところがフィリップ・シーモア・ホフマンには、ホアキン・フェニックスを引き留めておく「理由」は、明確にはない。ホアキン・フェニックスのつくる奇妙な酒が気に入ったということはあるかもしれないが、それだけの「理由」で未知の人をかかえこむ必然性とはならないだろう。またホアキン・フェニックスはフィリップ・シーモア・ホフマンの「カルト」を信じているわけではないようなのだが、フィリップ・シーモア・ホフマンが批判されると、どうしようもなく凶暴に反応してしまう。その反応の必然性も、「ストーリー」としてはわからない。
 わからないのだけれど。私は納得してしまった。なぜ納得したかというと、そこに「音(音楽)」が常に存在したからである。
 この映画の音楽は、最後の「パートナーを替えて」(というような意味のタイトル)のように何かけだるく、ある意味でロマンチック(センチメンタル)な響きのあるものもあるが、全体的に、何か「ずれている」。一種の気持ち悪さを持っている。「パートナーを替えて」も、なぜ、ここでこの曲?という「ストーリー」とは無縁のような印象がある。で、ストーリーとは無縁なのだけれど、「無縁」であることを超えて、何か「肉体の内部」に直接響いてくる。その直接性が気持ちを逆撫でする。「意味」ではなく、「無意味」として、「肉体」に響いてくる。
 この「無意味」としての「音(音楽)」が、映画と、そこに登場する役者の「肉体」を貫いて生きている。
 「意味」を「社会的正義」というようなものでとらえると。たとえば、ホアキン・フェニックスが第二次世界大戦に兵士として参加し、そこで戦う、日本兵を殺すということについては「社会的正義(意味)」をつけくわえることができる。実際、社会はそういう「正義」を主張することで成り立っているのだが、個人的な「肉体」の感覚には、そういう「正義」は意味がない。「肉体」は「正義」というようなものを判断しない。「頭」が「正義」を捏造するだけである。「正義」を主張するとき「頭」と「肉体」は分離することがある。
 「分離」された「肉体」は、「意味」から切り離されて「無意味」になる。その「無意味」のなかにも「いのち」はあり、それが何かを聞き取る。「無意味」としての「肉体」が聞き取った「無意味」の「音楽」--それが、この映画全体を貫き動かしている。「意味」を超える「音楽」がホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンを結びつけて離さない。
 これは、いつもの、私の「感覚の意見」であって、論理的には説明できないのだが、その不思議な「重さ」に私は圧倒された。「効果音」としての「音楽」が映像を動かすたびに、「肉体」のなかの音楽の暗闇に引き込まれる、その「無意味」に飲みこまれるような感じがするのだ。「無意味」が直にふれてくる感じがする。
 これに、映像(カメラ)が追い打ちをかける。
 映画は、ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンのアップは当然なのだが、他の登場人物のアップも非常に多い。「肉体」全体の描写が少ない。広々とした空間はキャベツ農場からホアキン・フェニックスが逃げるときの畑くらいである。冒頭の海のシーン(船のスクリューがつくりだす波のシーン)さえ、波のアップであって、広い海ではない。全体から切り離された「肉体」のアップ。そのアップが「肉体」全体とつながっていることを、私たちは常識として知っているが、その常識を逆手にとってアップ、アップ、アップで迫ってくる。顔、顔、顔で迫ってくる。そして、そのアップから「音楽(音)」があふれてくる。アップによって切断された「肉体」を「音楽(音)」が連続させているという感じ。「音楽(音)」があるから肉体がつながっている、という感じ。
 そして、その「肉体」をつなぐ「音楽」は、ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンの、それぞれに、「個人のもの」としてあるのではなく、ふたりのもの(あるいは映画のもの)として「ひとつ」である。曲はいろいろつかわれているのだが、二人の「肉体」を区別せず、共通のものとしてつなぐ「ひとつ」の音楽。
 「意味」ではない「本能」としての「音楽」。それが映画を、そこにあるストーリーを、役者をつないでいる。そういう印象が非常に強い。

 映画は、映画が誕生したときから、映像と音楽とでつくられているが、この映画はその原点にかえる作品かもしれない。台詞があり、ストーリーもあるけれど、あまり「意味」がない。台詞を追ってストーリーを紡ぎ、そこからホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンのの関係を理解するというめんどうなことはしないでも、ただ「音楽」が二人の肉体をつないで、また切り離したという感じで、映画の一瞬一瞬にどっぷりとしたればいいのだと思う。「意味」をさがすなら「音楽」にこそ答えを求めるべきだ。「音楽」を聞くとき「意味」など考えず、音に酔うように、ストーリーを無視して、映像と音に酔えばいいのだ。
 ホアキン・フェニックスもフィリップ・シーモア・ホフマンも社会と適応している(意味のある人間として位置づけられている)とは言えない。けれど、そういう人間でも、個人と個人として、互いに必要としている。「必要」の「意味」はわからないけれど、離れられない。音と音が出会って「和音」をつくり、そこから音楽が生まれるように。二人は「意味」ではなく「音楽」でつながっているのだ。
 私はたいへんな音痴なので、音楽について語っていることも、間違いだらけかもしれないのだが--しかし、この映画は「音楽」としての映画だと、私の「本能」は主張している。音楽について無知なので、説明はできないけれど、この映画は「音楽」がなかったら存在することのできない映画である。脚本を読んで、それをカメラで撮るだけでは成立しない映画である。音(音楽)によって、その全体を突き動かすことで映画になる。そういう種類の作品である。
 映画のなかほどでフィリップ・シーモア・ホフマンが、わいざつな歌を歌うが、その歌の「声」がフィリップ・シーモア・ホフマンの「肉体」である。ことばの「意味」ではなく、「音」としての「声」そのものがあって、それがフィリップ・シーモア・ホフマンを動かしている。ホアキン・フェニックスは歌こそ歌わないが、やはり同じである。二人は「台詞」をいっているのではない。「声」を生きている。「声」になっている。「音」としての「肉体」を生き、「音(声)」という「肉体」を存在させている。
 こんな演技を要求するポール・トーマス・アンダーソンの哲学もすごいが、それにこたえるホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンも強烈である。「声」になる、「肉体の音」になる、というのはつくりあげていくというよりは、自分自身を裸にしていく仕事だ。それが強烈なので……映画を見終わったあと、それが役であるということを忘れて、ホアキン・フェニックスってこんな人間? フィリップ・シーモア・ホフマンってこういう人間?と錯覚してしまう。「声(音楽)」の魔力にふれた気がする。



 先日見た若松孝二の「千年の愉楽」。あれはポール・トーマス・アンダーソンにつくりなおしてもらいたい。ポール・トーマス・アンダーソンの「音楽」映画なら、「千年の愉楽」は大傑作になる。
                       (2013年03月24日、東宝シネマ5)







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