小野寺南圃『名前のない朝』(沖積舎、2013年04月01日発行)
ことばを読んでいて、ときどき不思議なことが起きる。どうにもわからないことばに出会う。私は17歳まで富山にいた。その後、九州で生活している。九州へやってきたとき、ことばにつまずいた。「方言」ではなく、いわゆる標準語、書きことば(文章)につまずいた。九州のひとの書いている詩を読むと、どことは言えないけれど、どうもわからないのである。音が聞こえてこない。「方言」の方は音が聞こえるから、正確に意味がわからなくてもなんとなく安心するが、書きことばから音(声)が聞こえてこないというのは、私にはかなり苦痛だった。私は音痴のくせして、音が聞こえないと、どうにもものごとが理解できない。それは、まあ、昔のことなので、いまは大分なれたけれど。音が聞こえなくても、読むことができるようになったけれど。
なぜこんなことを書いたかというと。
小野寺南圃『名前のない朝』の作品群は、音が明瞭に聞こえるからである。なんだか、とてもなつかしい響きである。
「出発」という作品。
「意味」は関係がない、というと小野寺に申し訳ない気もするのだが、まあ、意味は関係がない。「わたしは遅刻する」という書き出しも、抽象的なのだけれど、音がすーっと肉体の中にはいってくるので、わかった気持ちになる。
死は「何度も深い寝返りを打つ」というのは、とってもいいなあ。そのまま盗んでつかってしまいたいくらい。
この音のつらなり、純粋な九州のひとにはどんな具合に響くのだろう。
また、こういうことば(音)を書く小野寺にとって、九州の詩人たちのことば(音)はどんなふうに響くのだろう。聞いてみたい気持ちにかられる。
「結婚」という詩の全行。
夫婦の関係がブラックな笑いの中に描かれている。こういうことに対して、感想というものは……ない。まあ、そういうものである。で、この詩をいい詩か悪い詩か、というようなこと、言い換えると好きか嫌いかというときの判断の基準なのだが。
私の場合、それは「音」なのだ。
読んで、その「音」がすっきりと響いてくるときは、それは「いい詩」「好きな詩」。小野寺の詩は、私は好きである。理由は「音」が私にはとても自然に聞こえるということ。やわらかく、すっきりと聞こえるということ。
とても、読みやすい。
もう一篇「朝は泣く」。その前半。
「くたびれた心臓が/きのうの方角へ引き返した」というのは、抽象的すぎて、どういう意味かと問われたら、私は答えることができない。ところが、その意味のわからない「音」が肉体の中へすーっと入ってきてしまう。入ってきて、いまは意味がわからなくても、それでいいというのである。私の肉体が。
ことばというのは、どういうことばでも、最初はわからない。わからないまま聞き、それを肉体がおぼえてしまう。そして、つかっている内に、徐々に肉体のなかで修正されて、「通じる意味」になる。この「通じる」は、とてもいいかげんなもので、たぶんに「誤解」を含んでいるものなのだが、それでも平気。
「くたびれた」も「心臓」も「きのう」も「方角」も「引き返した」も知っていることばだから、違和感がない。ただ、わからないだけ。わからなくても、くたびれたら引き返すだろうなあなんて、いいかげんに納得している。
この「近寄ってきた夜が耳打ちしている/夜はどこか遠くへ行きたがっていたが」という2行は、「意味」を特定しようとすればそれなりにできることかもしれないけれど、私は「意味」なんか追わない。ただ、「近寄って」きて「耳打ち」するという行為--そういうものを「音」とともに「肉体」のなかへ入れて、その「こと」を「肉体」がただ受け止めているのを感じる。そしてそのとき「夜」の「肉体」を強く感じる。「近寄る」「耳打ちする」という動詞がかかえこむ「肉体」、動詞がかかえこむ「こと」が、「肉体」になってあらわれる。動詞をとおして、夜と私の「肉体」が一体になっている。ふれあっていると実感する。そして、夜がそれでは「何を」耳打ちしたのかわからないのに、夜が「どこかへ行きたがっている」ということだけはわかる。私の「肉体」が、だれかが私に耳打ちして「……したい」とそっと言ったことを「おぼえている」。あるいは、私の「肉体」はだれかにそっと「……したい」といったことを「おぼえている」。「肉体」の動き(動詞)として「おぼえている」。
こういう現象が起きるとき、私の場合は、「音」がとても大切。「音」が嫌いだと、そういうことは起きない。ことばはばらばらに散らばって、虚無しか残らない。
で。突然、飛躍してしまうのだけれど。
先日読んだ南原充士の詩。音遊びをしている詩なのだけれど、そこに私はまったく「音」を感じることができなかった。たしかに同じ音が繰り返され、そこに「遊び」はあるのかもしれないけれど、その「遊び」は頭で考えないとわからない「遊び」。言い換えると、「肉体」がかってにまねして、声に出すのがうれしいという「遊び」ではなかったか。「肉体」が動かない。
それに比べると、小野寺のことばには「音」がある。だから「肉体」が動く。
この「音」は、小長谷清実の「音」とも違う。小長谷の場合、そこにははっきりした発音器官、のどや舌や口蓋が音をつくりだすとのの快感が作用している。(あ、これは「感覚の意見」です。)
小野寺の場合は、小長谷の「音」と違って、そうだなあ、耳の快感なのだ。
少なくとも、私の「耳」には、とてもよく響いてくる。これはたとえば、松任谷由実や中島みゆきの声は私の耳には気に食わないけれど、岩崎宏美の声は気持ちがいい、というのに似ているかなあ。
声の好み--というのは、説明がむずかしいけれど、重要かなあ。
詩の感想になったかどうかわからないけれど、こういうことも、私の書いている「肉体」の問題には絡んでくる。どんなふうに接近していけば、それが明確になるのかわからないのだけれど……。
ことばを読んでいて、ときどき不思議なことが起きる。どうにもわからないことばに出会う。私は17歳まで富山にいた。その後、九州で生活している。九州へやってきたとき、ことばにつまずいた。「方言」ではなく、いわゆる標準語、書きことば(文章)につまずいた。九州のひとの書いている詩を読むと、どことは言えないけれど、どうもわからないのである。音が聞こえてこない。「方言」の方は音が聞こえるから、正確に意味がわからなくてもなんとなく安心するが、書きことばから音(声)が聞こえてこないというのは、私にはかなり苦痛だった。私は音痴のくせして、音が聞こえないと、どうにもものごとが理解できない。それは、まあ、昔のことなので、いまは大分なれたけれど。音が聞こえなくても、読むことができるようになったけれど。
なぜこんなことを書いたかというと。
小野寺南圃『名前のない朝』の作品群は、音が明瞭に聞こえるからである。なんだか、とてもなつかしい響きである。
「出発」という作品。
わたしは遅刻する
どこまでも続く夜のなかで
わたしの死は
目覚めることができない
やってこないわたしを待ちながら
澱んだ日常の寝室で
死は
何度も深い寝返りを打つ
「意味」は関係がない、というと小野寺に申し訳ない気もするのだが、まあ、意味は関係がない。「わたしは遅刻する」という書き出しも、抽象的なのだけれど、音がすーっと肉体の中にはいってくるので、わかった気持ちになる。
死は「何度も深い寝返りを打つ」というのは、とってもいいなあ。そのまま盗んでつかってしまいたいくらい。
この音のつらなり、純粋な九州のひとにはどんな具合に響くのだろう。
また、こういうことば(音)を書く小野寺にとって、九州の詩人たちのことば(音)はどんなふうに響くのだろう。聞いてみたい気持ちにかられる。
「結婚」という詩の全行。
おれは
おまえのちいさな掌を喰べる
牛が草を喰べるように
何度も何度も噛み直す
おまえは痛いとは云わず
やさしくほほえみながら
おれの両目を抉り取る
今晩のおかずの野菜サラダに入れるの
そうおまえは云って
たんねんに たんねんに
おれの目玉を潰している
おまえとおれは
砂漠のような夜の食卓に着いて
じっと向かい合いながら
おまえはおれの
おれはおまえの
氷のように冷たくなった野菜サラダを
いつまでも
喰べ続けている
夫婦の関係がブラックな笑いの中に描かれている。こういうことに対して、感想というものは……ない。まあ、そういうものである。で、この詩をいい詩か悪い詩か、というようなこと、言い換えると好きか嫌いかというときの判断の基準なのだが。
私の場合、それは「音」なのだ。
読んで、その「音」がすっきりと響いてくるときは、それは「いい詩」「好きな詩」。小野寺の詩は、私は好きである。理由は「音」が私にはとても自然に聞こえるということ。やわらかく、すっきりと聞こえるということ。
とても、読みやすい。
もう一篇「朝は泣く」。その前半。
遠い場所から
年老いた影がやってきて
道を尋ねている
自分の行き先を忘れてしまったので
思い出すまでの間
くたびれた心臓が
きのうの方角へ引き返した
まだ歩く距離はあるが
時間が泥濘るんでいて足をとられる
「くたびれた心臓が/きのうの方角へ引き返した」というのは、抽象的すぎて、どういう意味かと問われたら、私は答えることができない。ところが、その意味のわからない「音」が肉体の中へすーっと入ってきてしまう。入ってきて、いまは意味がわからなくても、それでいいというのである。私の肉体が。
ことばというのは、どういうことばでも、最初はわからない。わからないまま聞き、それを肉体がおぼえてしまう。そして、つかっている内に、徐々に肉体のなかで修正されて、「通じる意味」になる。この「通じる」は、とてもいいかげんなもので、たぶんに「誤解」を含んでいるものなのだが、それでも平気。
「くたびれた」も「心臓」も「きのう」も「方角」も「引き返した」も知っていることばだから、違和感がない。ただ、わからないだけ。わからなくても、くたびれたら引き返すだろうなあなんて、いいかげんに納得している。
歩くことをやめて
あしたのことを考えていると
泥濘るんだ時間の先で
近寄ってきた夜が耳打ちしている
夜はどこか遠くへ行きたがっていたが
この「近寄ってきた夜が耳打ちしている/夜はどこか遠くへ行きたがっていたが」という2行は、「意味」を特定しようとすればそれなりにできることかもしれないけれど、私は「意味」なんか追わない。ただ、「近寄って」きて「耳打ち」するという行為--そういうものを「音」とともに「肉体」のなかへ入れて、その「こと」を「肉体」がただ受け止めているのを感じる。そしてそのとき「夜」の「肉体」を強く感じる。「近寄る」「耳打ちする」という動詞がかかえこむ「肉体」、動詞がかかえこむ「こと」が、「肉体」になってあらわれる。動詞をとおして、夜と私の「肉体」が一体になっている。ふれあっていると実感する。そして、夜がそれでは「何を」耳打ちしたのかわからないのに、夜が「どこかへ行きたがっている」ということだけはわかる。私の「肉体」が、だれかが私に耳打ちして「……したい」とそっと言ったことを「おぼえている」。あるいは、私の「肉体」はだれかにそっと「……したい」といったことを「おぼえている」。「肉体」の動き(動詞)として「おぼえている」。
こういう現象が起きるとき、私の場合は、「音」がとても大切。「音」が嫌いだと、そういうことは起きない。ことばはばらばらに散らばって、虚無しか残らない。
で。突然、飛躍してしまうのだけれど。
先日読んだ南原充士の詩。音遊びをしている詩なのだけれど、そこに私はまったく「音」を感じることができなかった。たしかに同じ音が繰り返され、そこに「遊び」はあるのかもしれないけれど、その「遊び」は頭で考えないとわからない「遊び」。言い換えると、「肉体」がかってにまねして、声に出すのがうれしいという「遊び」ではなかったか。「肉体」が動かない。
それに比べると、小野寺のことばには「音」がある。だから「肉体」が動く。
この「音」は、小長谷清実の「音」とも違う。小長谷の場合、そこにははっきりした発音器官、のどや舌や口蓋が音をつくりだすとのの快感が作用している。(あ、これは「感覚の意見」です。)
小野寺の場合は、小長谷の「音」と違って、そうだなあ、耳の快感なのだ。
少なくとも、私の「耳」には、とてもよく響いてくる。これはたとえば、松任谷由実や中島みゆきの声は私の耳には気に食わないけれど、岩崎宏美の声は気持ちがいい、というのに似ているかなあ。
声の好み--というのは、説明がむずかしいけれど、重要かなあ。
詩の感想になったかどうかわからないけれど、こういうことも、私の書いている「肉体」の問題には絡んでくる。どんなふうに接近していけば、それが明確になるのかわからないのだけれど……。
季刊 ココア共和国vol.7 | |
秋 亜綺羅,恋藤 葵,谷内 修三,野木 京子,高取 英,藤川 みちる | |
あきは書館 |