蜂飼耳「貝塚さがし」、近藤久也「借景」(「ぶーわー」30、2013年03月10日発行)
蜂飼耳「貝塚さがし」は不思議なことばで始まる。
「てのひらの道」ということばは、手のひらにある生命線とか感情線とか頭脳線とかのことを想像させる。それは「道」かもしれない。でも、それが「貝塚」にたどりつく? 蜂飼のことばには何か飛躍があって、その飛躍がわからない。
貝塚にはたくさんの貝殻がある。断片がある。そのことを蜂飼は「あらゆる主語」が「迷子のかけら」になった結果と見ている。
主語って、貝? それとも、それを捨てたひと?
たぶん、ひとだろうなあ。
詩のつづきを読んでいくとわかる。感じられる。
貝塚には、貝殻だけでは見えないけれど、実は「暮らし」がある。生きているひとがいる。煮て、食べて、貝殻を捨てる。きまった場所へ捨てる。そこにも「暮らし」がある。ただ食べるだけではない「暮らし」。
で、そのとき。
蜂飼は、「棄てる」ということばをつかっている。私は「捨てる」ということばをめったにつかわないが……。めったにというか、たぶん、つかったことがない。「廃棄」ということばならつかったことがあると思うが。
で、そういうことばに、私は私とは違う何か、強い「こころ」が動いているのを感じる。
そういうことを思うと、最初の「手のひらの道」がだんだん違ったものに見えてくる。
「暮らし」をささえる手、食べ物をつくる手。そして、食べられないもの、余分なものを「きまった場所」に捨てる手。
うーん。貝殻を捨てることが、「自分の断片」を捨てることになるのか。どうしてだろう。わからないが、蜂飼はそう感じている。
あ、最後になって、突然あらわれる「手」。「手をふって呼び戻す/再会」。蜂飼は、貝塚に手を見ていたのか。手が見えたのか。最後になって、突然、そのことがわかる。再会したとき「こっちこっち」と手をふって呼びあう。そのときの手は「自己」の存在を知らせる。貝塚に、いまはそこにいないひとが手をふって呼んでいるように感じたのか。その手は、ごはんができたよ、こっちだよ、と昔は振られたかもしれない。
そのあと貝を捨てにいく。貝殻を捨てる。それは「自己を棄てる」というのとは、私の感覚では直接つながらないけれど、蜂飼はそこに「自分の断片を棄てる」という具合に動くものを見たのだ。それが具体的にどういうことかわからないのだけれど。
わからないからこそ。
最後の「手をふって呼び戻す」が不思議に、ぐいと迫ってくる。「手のひらに道があり」という書き出しとつながっているのだと感じる。
何か「流通言語」ではとらえられない「こと」を書こうとしている、そしてその書こうとしているという「こと」が伝わってきて、私は立ち止まってしまう。感想にならないのだけれど、立ち止まったということを書いておきたい。
*
近藤久也「借景」。
「首を伸ばして覗いて」、亀のように、隣をのぞいてみれば、亀がいる。その亀になって「異境」をちょっと見てみる。知らない「宇宙」、はじめてみる「宇宙」の、潮が満ちてくる。
あ、いいなあ。
何かにであって、その何かになる。自分が自分でなくなる。そのとき、新しい「宇宙」が見える。
蜂飼は、「貝塚」というものに出会って、そこにやはり「宇宙」を見たのだろう。遠い時間を見たのだろう。いつの時間の中にもある「手をつかう」「手をふる」という人間の動きを見て、その見えたものを向かって「手のひらの満ち」を歩いていったということだろう。だれかが用意してくれた「教科書=頭脳の道」ではなく、蜂飼自身の「手」をどんなふうにつかっているかという「肉体がおぼえていること」をとおって近づいていったのだろう。
こういう「個人的な」道、「肉体に密着した」道は、なかなか読者にはとおりにくいかもしれない。私には、とおりにくい。(とおりにくいけれど、あ、ここに「道」がたしかにあると感じることができた。)けれど、それが「肉体の道」であるかぎり、蜂飼の道でないと通れないというひともいると思う。
そこが、詩の不思議なところだ。
蜂飼耳「貝塚さがし」は不思議なことばで始まる。
てのひらに道があり
いつか貝塚にたどり着く
かけらと断片のにぎやかさに
祝われるほどの現在もなく
あらゆる主語がこれほどに
迷子のかけらに なる ならば
「てのひらの道」ということばは、手のひらにある生命線とか感情線とか頭脳線とかのことを想像させる。それは「道」かもしれない。でも、それが「貝塚」にたどりつく? 蜂飼のことばには何か飛躍があって、その飛躍がわからない。
貝塚にはたくさんの貝殻がある。断片がある。そのことを蜂飼は「あらゆる主語」が「迷子のかけら」になった結果と見ている。
主語って、貝? それとも、それを捨てたひと?
たぶん、ひとだろうなあ。
詩のつづきを読んでいくとわかる。感じられる。
浅蜊 蛤 これらを煮れば
日持ちのする食物となったのです
ぐらぐらと煮立てる 沸騰して泡
そうして貝の殻 きまった場所へと
棄てるのです
おいしそうで ぐらぐらと
土の器 のぞきこんでいたのです
貝塚には、貝殻だけでは見えないけれど、実は「暮らし」がある。生きているひとがいる。煮て、食べて、貝殻を捨てる。きまった場所へ捨てる。そこにも「暮らし」がある。ただ食べるだけではない「暮らし」。
で、そのとき。
蜂飼は、「棄てる」ということばをつかっている。私は「捨てる」ということばをめったにつかわないが……。めったにというか、たぶん、つかったことがない。「廃棄」ということばならつかったことがあると思うが。
で、そういうことばに、私は私とは違う何か、強い「こころ」が動いているのを感じる。
そういうことを思うと、最初の「手のひらの道」がだんだん違ったものに見えてくる。
「暮らし」をささえる手、食べ物をつくる手。そして、食べられないもの、余分なものを「きまった場所」に捨てる手。
棄てたのです そのたびに
自分の断片がぱさり ぱさりと
薄く剥がれて落ちてゆき
穴の上から見ていました
うーん。貝殻を捨てることが、「自分の断片」を捨てることになるのか。どうしてだろう。わからないが、蜂飼はそう感じている。
やがて いつか いつしか
掘りあてられた貝塚に
朽ちない声を発見し
手をふって呼び戻す
再会に似ています
あ、最後になって、突然あらわれる「手」。「手をふって呼び戻す/再会」。蜂飼は、貝塚に手を見ていたのか。手が見えたのか。最後になって、突然、そのことがわかる。再会したとき「こっちこっち」と手をふって呼びあう。そのときの手は「自己」の存在を知らせる。貝塚に、いまはそこにいないひとが手をふって呼んでいるように感じたのか。その手は、ごはんができたよ、こっちだよ、と昔は振られたかもしれない。
そのあと貝を捨てにいく。貝殻を捨てる。それは「自己を棄てる」というのとは、私の感覚では直接つながらないけれど、蜂飼はそこに「自分の断片を棄てる」という具合に動くものを見たのだ。それが具体的にどういうことかわからないのだけれど。
わからないからこそ。
最後の「手をふって呼び戻す」が不思議に、ぐいと迫ってくる。「手のひらに道があり」という書き出しとつながっているのだと感じる。
何か「流通言語」ではとらえられない「こと」を書こうとしている、そしてその書こうとしているという「こと」が伝わってきて、私は立ち止まってしまう。感想にならないのだけれど、立ち止まったということを書いておきたい。
*
近藤久也「借景」。
リビングルームで息子のパートナーが
隣家ではよからぬ亀を二匹飼っているという
仕切りの外に首を伸ばして覗いてみれば
ベビーバスに濁った水が少し
背中の斑な大きな亀が確かに二匹
遠い異境で
じっと重なっていた
みたこともない派手な甲羅はあやしく
秘密めいて
そうして帰り
目をとじて
抱き抱えられ
寝静まった宇宙
潮満ち
波は寡黙に盛り上がってくる
「首を伸ばして覗いて」、亀のように、隣をのぞいてみれば、亀がいる。その亀になって「異境」をちょっと見てみる。知らない「宇宙」、はじめてみる「宇宙」の、潮が満ちてくる。
あ、いいなあ。
何かにであって、その何かになる。自分が自分でなくなる。そのとき、新しい「宇宙」が見える。
蜂飼は、「貝塚」というものに出会って、そこにやはり「宇宙」を見たのだろう。遠い時間を見たのだろう。いつの時間の中にもある「手をつかう」「手をふる」という人間の動きを見て、その見えたものを向かって「手のひらの満ち」を歩いていったということだろう。だれかが用意してくれた「教科書=頭脳の道」ではなく、蜂飼自身の「手」をどんなふうにつかっているかという「肉体がおぼえていること」をとおって近づいていったのだろう。
こういう「個人的な」道、「肉体に密着した」道は、なかなか読者にはとおりにくいかもしれない。私には、とおりにくい。(とおりにくいけれど、あ、ここに「道」がたしかにあると感じることができた。)けれど、それが「肉体の道」であるかぎり、蜂飼の道でないと通れないというひともいると思う。
そこが、詩の不思議なところだ。
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