尾山景子「雪の人」、吉浦豊久「内小座にある町」(「ネット21」25、2013年03月01日発行)
尾山景子「雪の人」は美しい詩である。
「なんと豊かな」「このうえもなく美しい」「なんと見栄えのする」と詩人が書いてしまっては詩にならないのかもしれないけれど、その前にある「影があるなんて」「放置されるなんて」という口語の響きが、「なんと豊かな」「このうえもなく美しい」を文章ではなく口語にかえてしまう。口語なら「豊かな」「美しい」「見栄え」も許される。口語は、他人に「意味」を考えさせてはいけないのだ。ただ過ぎ去っていくものなのだ。スピードを落とすためには「なんと」という余分なことばも必要とする。「なんて」「なんと」という音の変化もうれしい。
白い画用紙に向き合っている人(病気をしているのだろうか)には、ある種の軽さが必要なのである。その軽さを口語が引き出している。
白い画用紙に、訪ねてきたひとの影がうつる。その影は訪ねてきた人が帰ってしまえば画用紙の上からは消える。それを消さずに残すためには、その画用紙を「記憶」のままに、別のものと取り替える。「この画用紙には、訪ねてきたひとの影が残っている」と思いつづけるために。
こんな契約(?)は、まったくの個人的なものである。だが、完全に個人的なものになることによって、そこに抒情が生きる。「取り引き」「覚書」という冷たいことばが、その個人的なものが情に溺れてしまうのを防いでいるのもいいなあ。
そして。
「かるくつついてくる」の「つついている」が、不思議である。「わからない」。「流通言語」に言いなおして「意味」を明確なものにしようとすると、どうしていいかわからない。「流通言語」に翻訳できない。「つついてくる」は「ついてくる(ついている)」とも、読み違えてしまう。「誤読」してしまう。何かが、軽く、つまり深刻にならずに、重くならずに、ついてくる。背中をつんつんと軽くつつきながら、ついてくる。ここいるよ、という感じで「ついている」……。
「流通言語」への翻訳という点では、「悲しいに影がある」というのも翻訳できないけれど、そのことばには「なんと豊かなことか」という文が向き合い、一種の飛躍というか「論理」をつくりだすので、その「論理」のなかで何かわかったような気持ちになる。(これは、頭の錯覚なのだが……。)
「かるくつついてくる」にはそういうことができない。「頭」が「飛躍」し、その「飛躍」のなかに「論理」を見出すという錯覚ができない。そのかわりに、奇妙な「肉体感覚」がしのびこんでくる。「肉体」の「おぼえていること」を刺戟する。
「そのあとからかるくつついている/このうえもないかすかな覚書」には、飛躍を上回る粘着力がある。「つついている」は「このうえもないかすかな」ということばを強引におしのけながら(あるいは、そのことばのなかを通り抜けて)「覚書」に接続してしまう。それは変な動きなのだが「つついている」が、「つつかれている」肉体(具体的には書いてはいないのだけれど)と結びついて、それまで書かれていたことを、意識できないうちに接続してしまう。
悲しいが豊かであること、淋しいが見栄えがするということ、--感情が「肉体」をつついて、肉体に入ってくる感じがする。
どこかで論理(?)がずれて動いているのだが、「つつく」という動詞のなかにある「肉体」がその「ずれ」を不思議な形で敷くしている。
ほう、と思う。
この「転調」も印象に残る。
*
吉浦豊久「内小座にある町」。
旅行の際の簡単な報告だが、不思議な美しさがある。余分なことを言わない。「かつて」が「いま」によって、いくつかの姿を見せる。「木蝋商人で栄えた/かつて」「大江健三郎が下宿した/かつて」は「同時」ではない(かもしれない)。そしてそれは「いま」の吉浦とは明らかに時間が違うのだけれど煎餅屋のなかでいっしょに噴出してくる。
ひとは「同時に」、違った時間を生きることができる。その不思議が2行(原文では2行表示)にすっきりとおさまっている。体験がととのえる「時間」というものがあり、それが美しい形で結晶している。
尾山景子「雪の人」は美しい詩である。
ただ悲しいというだけで
影があるなんて
なんと豊かなことか
晩秋を訪ねてきた人は
白い画用紙の上に挨拶を置いて帰って行った
このうえもない美しい取り引き
ただ淋しい、というだけで
放置されるなんて
なんと見栄えのすることか
死者を訪ねて来た人は
風知草に紛れて
白いが用紙を取り替えた
そのあとからかるくつついている
このうえもないかすかな覚書
「なんと豊かな」「このうえもなく美しい」「なんと見栄えのする」と詩人が書いてしまっては詩にならないのかもしれないけれど、その前にある「影があるなんて」「放置されるなんて」という口語の響きが、「なんと豊かな」「このうえもなく美しい」を文章ではなく口語にかえてしまう。口語なら「豊かな」「美しい」「見栄え」も許される。口語は、他人に「意味」を考えさせてはいけないのだ。ただ過ぎ去っていくものなのだ。スピードを落とすためには「なんと」という余分なことばも必要とする。「なんて」「なんと」という音の変化もうれしい。
白い画用紙に向き合っている人(病気をしているのだろうか)には、ある種の軽さが必要なのである。その軽さを口語が引き出している。
白い画用紙に、訪ねてきたひとの影がうつる。その影は訪ねてきた人が帰ってしまえば画用紙の上からは消える。それを消さずに残すためには、その画用紙を「記憶」のままに、別のものと取り替える。「この画用紙には、訪ねてきたひとの影が残っている」と思いつづけるために。
こんな契約(?)は、まったくの個人的なものである。だが、完全に個人的なものになることによって、そこに抒情が生きる。「取り引き」「覚書」という冷たいことばが、その個人的なものが情に溺れてしまうのを防いでいるのもいいなあ。
そして。
「かるくつついてくる」の「つついている」が、不思議である。「わからない」。「流通言語」に言いなおして「意味」を明確なものにしようとすると、どうしていいかわからない。「流通言語」に翻訳できない。「つついてくる」は「ついてくる(ついている)」とも、読み違えてしまう。「誤読」してしまう。何かが、軽く、つまり深刻にならずに、重くならずに、ついてくる。背中をつんつんと軽くつつきながら、ついてくる。ここいるよ、という感じで「ついている」……。
「流通言語」への翻訳という点では、「悲しいに影がある」というのも翻訳できないけれど、そのことばには「なんと豊かなことか」という文が向き合い、一種の飛躍というか「論理」をつくりだすので、その「論理」のなかで何かわかったような気持ちになる。(これは、頭の錯覚なのだが……。)
「かるくつついてくる」にはそういうことができない。「頭」が「飛躍」し、その「飛躍」のなかに「論理」を見出すという錯覚ができない。そのかわりに、奇妙な「肉体感覚」がしのびこんでくる。「肉体」の「おぼえていること」を刺戟する。
「そのあとからかるくつついている/このうえもないかすかな覚書」には、飛躍を上回る粘着力がある。「つついている」は「このうえもないかすかな」ということばを強引におしのけながら(あるいは、そのことばのなかを通り抜けて)「覚書」に接続してしまう。それは変な動きなのだが「つついている」が、「つつかれている」肉体(具体的には書いてはいないのだけれど)と結びついて、それまで書かれていたことを、意識できないうちに接続してしまう。
悲しいが豊かであること、淋しいが見栄えがするということ、--感情が「肉体」をつついて、肉体に入ってくる感じがする。
どこかで論理(?)がずれて動いているのだが、「つつく」という動詞のなかにある「肉体」がその「ずれ」を不思議な形で敷くしている。
ほう、と思う。
ゆるやかにつたう
木造の微熱…
その角を
老人と犬は泥水を跨いで曲がっていく
この「転調」も印象に残る。
*
吉浦豊久「内小座にある町」。
四国の参観の小さな町内子は、かつては木蝋商人で栄えた町。漆喰壁の豪家が連なって、今も面影を残す。たまたま入った煎餅屋が、大江健三郎が一年間通った内子高校時代の下宿だった。
旅行の際の簡単な報告だが、不思議な美しさがある。余分なことを言わない。「かつて」が「いま」によって、いくつかの姿を見せる。「木蝋商人で栄えた/かつて」「大江健三郎が下宿した/かつて」は「同時」ではない(かもしれない)。そしてそれは「いま」の吉浦とは明らかに時間が違うのだけれど煎餅屋のなかでいっしょに噴出してくる。
ひとは「同時に」、違った時間を生きることができる。その不思議が2行(原文では2行表示)にすっきりとおさまっている。体験がととのえる「時間」というものがあり、それが美しい形で結晶している。
或る男―吉浦豊久詩集 (1984年) | |
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