小長谷清実「ベッドから転げ落ち」(「交野が原」74、2013年04月01日発行)
小長谷清実「ベッドから転げ落ち」はタイトルどおり、ベッドから落ちるときのことを書いている。
思い出すと、たしかにこんな感じだねえ。自分でことばにするのはむずかしいけれど、読むと、「うん、うん」と納得する。ことばは、そんなふうに自分の「肉体が覚えていること」、覚えているけれど自分では言えないことを言ってくれていると、とてもうれしくなる。
で、そのいちばん「言えないこと」は何かというと……。
になるかも。言えそうで、言えないね。
こう「意識」を分析したようなことばは、言いはじめると理屈っぽくなるのだけれど、小長谷は、さらりとことばにする。ことばが苦しんでいない。音楽のようにも聞こえる。それは、たぶん「言えないけれど」と「いるわけじゃない」のなかにある「い」と「ない」の呼応の関係があるからだと思う。「けれど」「じゃない」の「ど」と「じ」の濁音の響きなんかもね。音が生きている。「意識」が「意味」を追っているという感じではなく、音が自由に動いていってたまたま「意味」とも重なるという感じ。「意味」ではなく「音」がエネルギー。小長谷にとって「意識」とは「音」なのかもしれない。
小長谷は、その「意識=音」をさらに動かしていく。ベッドから落ちるなんていうのは瞬間的なことなのに、その「瞬間」のなかを、意識は(音は、ことばは)どこまでも動いていける。これは、不思議で、おもしろい。
ことば(音)の繰り返しがあって、その繰り返しが「意識」を分析しているような気持ちにさせない。何も言っていない。かわりに音楽を追い求める快楽がある。そうか、「分析」というのは、しょせんは、あることを別のことばで言いなおすふりをすることか、そのとき音で遊べば音楽が生まれるのか、という「哲学」まで思い浮かべるのだけれど、
ああ、いいなあ。「無意味」。ほんとうに「無意味」だね。ベッドから落ちるなんてことを、その瞬間に思い浮かんだことを、「熟慮に熟慮を重ねて」ことばにしたって、それで次から落ちないというわけではないし。だったら、思いっきり遊ぼう。
でも、「遊び=無意味」だとしたら、それは何になる?
まあ、詩になる、と言っておこうね。
「無意味」、あるいは「無益」と承知して、それでもことばを動かす。ことばを楽しむ。音が呼び掛け合って和音になるその楽しみ。--それは「無意味」。「無意味/無益」だから楽しい。
このあとも、不思議に愉快だ。
小長谷は、小長谷のことばが、結局何処へもたどりつかない、「無意味」にしかたどりつかないことを知っている。知っていて--なおかつ、今回の運動が「捩じれて」、「知の果て」ではなく「痴の果て」なんていうだじゃれになったことも知っていて、これじゃあつまらない、「正しい運動じゃない」ということを結論(?)にしている。
自己批判?
そうなんだろうなあ。そうでもなくてもいいけれど。
だからね。(というのは、いつもの私の「飛躍」。)
だからね、詩に「結論」なんかはいらない。ただ、ことばが動いて、動く瞬間に、「意味」ではなく、「意味」を超えるものにふれればそれでいい。「意味」を超えるものが、「いま/ここ」のことばを縛っている「意味」を切り離し、自由にする。それでいい。それを楽しめばいい。
で、「意味」から解放されたことばは--ちょっと脱線してしまったのでもとに戻ると--音楽になる。音になって、響きあう。
この詩でおもしろいのはどこか、それは、「眠りの中にも夢の中にも」「寝ぼけているのかぼけているのか」「分類すべきか表現すべきか」「熟慮に熟慮を無意味に重ね」のというような繰り返しにある。しかもその繰り返しは「ぴったり重なる繰り返し」ではなく、何かずれを含んでいる。「熟慮に熟慮」のようなまったく同じことばの場合は「無意味」ということばによって、そこに強引な「ずれ」のようなものが、強引ではなく軽く滑り込む。
「知の果て」「痴の果て」を私はさっき「だじゃれ」と呼んだけれど、つまり、それはとっても「軽い」。
「軽くて」あるいは軽快で、スムーズに動いていく「音楽」がある。
丁寧に分析すれば、その「音楽」の秘密は浮かび上がるかもしれないけれど、そんなことはしなくても、あ、小長谷のことばは読みやすい。軽くて、楽しくて--そのくせ、どこかで意地悪(?)なところがあって、意識を刺戟してくる。そう思えば、それでいいのかも。
声に出して読んだとき、同じような音楽が感じられるかどうかわからないけれど、黙読している限り、私には小長谷の詩は、とても音楽的に響いてくる。その音楽にのせられて、酔ってしまうところがある。
小長谷清実「ベッドから転げ落ち」はタイトルどおり、ベッドから落ちるときのことを書いている。
ただいま落下中!
目覚めているとは言えないけれど
眠りの中にも夢の中にも
いるわけじゃない
シーツの端っこをつかんだままなのは
安全をおもんばかっての
とっさの機転か
はて パラシュート代わりの
思い出すと、たしかにこんな感じだねえ。自分でことばにするのはむずかしいけれど、読むと、「うん、うん」と納得する。ことばは、そんなふうに自分の「肉体が覚えていること」、覚えているけれど自分では言えないことを言ってくれていると、とてもうれしくなる。
で、そのいちばん「言えないこと」は何かというと……。
目覚めているとは言えないけれど
眠りの中にも夢の中にも
いるわけじゃない
になるかも。言えそうで、言えないね。
こう「意識」を分析したようなことばは、言いはじめると理屈っぽくなるのだけれど、小長谷は、さらりとことばにする。ことばが苦しんでいない。音楽のようにも聞こえる。それは、たぶん「言えないけれど」と「いるわけじゃない」のなかにある「い」と「ない」の呼応の関係があるからだと思う。「けれど」「じゃない」の「ど」と「じ」の濁音の響きなんかもね。音が生きている。「意識」が「意味」を追っているという感じではなく、音が自由に動いていってたまたま「意味」とも重なるという感じ。「意味」ではなく「音」がエネルギー。小長谷にとって「意識」とは「音」なのかもしれない。
小長谷は、その「意識=音」をさらに動かしていく。ベッドから落ちるなんていうのは瞬間的なことなのに、その「瞬間」のなかを、意識は(音は、ことばは)どこまでも動いていける。これは、不思議で、おもしろい。
寝ぼけているのかぼけているのか
この曖昧な状態を
どう分類すべきか表現すべきか
熟慮に熟慮を無意味に重ね
どんな結論にたどりつこうか
うぬ 無益なシーツが
身体にからまる
まといつく むやみに
ことば(音)の繰り返しがあって、その繰り返しが「意識」を分析しているような気持ちにさせない。何も言っていない。かわりに音楽を追い求める快楽がある。そうか、「分析」というのは、しょせんは、あることを別のことばで言いなおすふりをすることか、そのとき音で遊べば音楽が生まれるのか、という「哲学」まで思い浮かべるのだけれど、
熟慮に熟慮を無意味に重ね
ああ、いいなあ。「無意味」。ほんとうに「無意味」だね。ベッドから落ちるなんてことを、その瞬間に思い浮かんだことを、「熟慮に熟慮を重ねて」ことばにしたって、それで次から落ちないというわけではないし。だったら、思いっきり遊ぼう。
でも、「遊び=無意味」だとしたら、それは何になる?
まあ、詩になる、と言っておこうね。
「無意味」、あるいは「無益」と承知して、それでもことばを動かす。ことばを楽しむ。音が呼び掛け合って和音になるその楽しみ。--それは「無意味」。「無意味/無益」だから楽しい。
このあとも、不思議に愉快だ。
ベッドから転げ落ち
ひとは何処に到達するか?
夢あるものは夢の底へか
少し捩れて無の底へか
智慧ある者は知の果てへか
少し捩じれて
痴の果てへか
どうやら 詩行に
捩じれがみえてきた
小長谷は、小長谷のことばが、結局何処へもたどりつかない、「無意味」にしかたどりつかないことを知っている。知っていて--なおかつ、今回の運動が「捩じれて」、「知の果て」ではなく「痴の果て」なんていうだじゃれになったことも知っていて、これじゃあつまらない、「正しい運動じゃない」ということを結論(?)にしている。
自己批判?
そうなんだろうなあ。そうでもなくてもいいけれど。
だからね。(というのは、いつもの私の「飛躍」。)
だからね、詩に「結論」なんかはいらない。ただ、ことばが動いて、動く瞬間に、「意味」ではなく、「意味」を超えるものにふれればそれでいい。「意味」を超えるものが、「いま/ここ」のことばを縛っている「意味」を切り離し、自由にする。それでいい。それを楽しめばいい。
で、「意味」から解放されたことばは--ちょっと脱線してしまったのでもとに戻ると--音楽になる。音になって、響きあう。
この詩でおもしろいのはどこか、それは、「眠りの中にも夢の中にも」「寝ぼけているのかぼけているのか」「分類すべきか表現すべきか」「熟慮に熟慮を無意味に重ね」のというような繰り返しにある。しかもその繰り返しは「ぴったり重なる繰り返し」ではなく、何かずれを含んでいる。「熟慮に熟慮」のようなまったく同じことばの場合は「無意味」ということばによって、そこに強引な「ずれ」のようなものが、強引ではなく軽く滑り込む。
「知の果て」「痴の果て」を私はさっき「だじゃれ」と呼んだけれど、つまり、それはとっても「軽い」。
「軽くて」あるいは軽快で、スムーズに動いていく「音楽」がある。
丁寧に分析すれば、その「音楽」の秘密は浮かび上がるかもしれないけれど、そんなことはしなくても、あ、小長谷のことばは読みやすい。軽くて、楽しくて--そのくせ、どこかで意地悪(?)なところがあって、意識を刺戟してくる。そう思えば、それでいいのかも。
声に出して読んだとき、同じような音楽が感じられるかどうかわからないけれど、黙読している限り、私には小長谷の詩は、とても音楽的に響いてくる。その音楽にのせられて、酔ってしまうところがある。
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