石毛拓郎「ゆめつぶしうた」(「飛脚」創刊号、2013年03月01日発行)
石毛拓郎「ゆめつぶしうた」はイチゴをつぶす詩である。
「いまにも くさりそうな」ものなんかに触りたくないなあ。なんで、「ゆびの はらに」なんて指定されなくてはいけない? スプーンじゃだめ? だいたい、なんのためにつぶすの? 私は果物が大好きだけれど、イチゴのように歯応えのないのは嫌い。食べている感じがしない。捨てちゃいたい。
でも、石毛は、さらに言うんです。イチゴをつぶしなさい、と。私に恨みでもある?
でも、こんなふうに言われると、ちょっと気持ちが変わる。
石毛は、イチゴに同情して(?)、「いちごの/いきる ほこり/いきを ふさがれた のぞみ」と書くのだけれど、これを読んだ瞬間、石毛の「私に対する恨み(これは、誤読--ゆえに絶対正しい)」に反抗するように、私の肉体のなかで、イチゴをぎゅうとつぶしたい欲望が湧いてくる。「ゆびの はらを のがれ/もえたぎる みちを うむ/うまれかわる よろこび」なんて、許さないぞ。「ゆびのはら」でイチゴの「はらわた」が出てくるのを確かめてやる。生きているものが、ぐにゅりと変形し苦しむのを見て、にやっと笑ってやるぞ。イチゴが「うまれかわる」なら、私だって生まれ変わる。イチゴを殺したって、だれも文句は言わない。「くさりかけた」イチゴじゃないか。殺さないと死んでしまうイチゴじゃないか。
さあ、正義の味方じゃなくて、イチゴの味方の石毛、どうする?
うーん、しつこい。「のこらねば ならぬ」というのなら、種くらい残してやるさ。勝手に残っていろ。私は、手を洗って、はい、さよなら……。
というのは、まあ、一種の誇張した私の感想だけれど。
読みながら、奇妙な気持ちになる。なんだか「汚い」気持ち。汚さを感じる。「くさりかけた」というイチゴのもっている性質が汚い。それに反抗するように、そんなものに負けないさ、つぶせというならつぶしてやるさ、と動く私のこころが汚い。さらに、そのつぶされたイチゴを「血と肉」ということば「いのち」ということばで、あたかも大事そうに言いなおす石毛の根性が汚い。だって、さっき「くさりそうな」と平然と言っていたのに、突然、イチゴの味方をするなんて、変じゃないか。--という具合に、揚げ足取りみたいなことをふっかける私の根性も汚い。さらに、「くさりそう」だったのに、突然、石毛のことばにあわせて「いきる ほこり」とか「うまれかわる よろこび」とかになってしまうイチゴもずるいし、汚い。もう、手はべたべた。イチゴに汚れているふりをして、もっと別なものに汚れている。入り組んだ欲望に汚れている。
めちゃくちゃにつぶしてしまいたい。つぶされながらも、生きているのがわかるかい、と反抗するイチゴになってみたい。そういうことを書くこと、ことばにすることで、ふたつの対立する欲望が、つまり矛盾が「ゆび」という肉体を媒体に、イチゴと人間の肉体を行き来するという世界を明るみに出したいという「理想」にも、たぶん、汚れている。
なんだか、とても危ない。
でも、そこが魅力。つまり、汚いはずなのに、そこが美しい。汚いは美しい。危ない。--矛盾している。矛盾ほど危ないものはない。でも、だからこそ、それをもっと見てみたい。
三つの連でくりかえされる「それ」という一行。
「いま/ここ」にあるものを、そして直接触れているものを「これ」ではなく、「それ」といったん切り離して(客観化して)、そこからことばが反転する。ことばの動きが矛盾というとおおげさかもしれないけれど、何かかわる。
どんなものでも「見方」をかえれば、だれの「味方」であるかもかわる。
「肉体」は、同じ位置にありながら、その内部で動くものが別な方向にかわる。変なことが「肉体」のなかで起きて、そういうことが起きても「肉体」は「肉体」のまま、同じでいられる。
ほんとうは「同じ」ではないのかもしれないけれど。
このあたりの、非論理を、石毛は、ことばで「ぐい」と進む。状況に対して「ぐい」と身を捩じり込ませる。(そういうことは、同じ号に載っているエッセイを読むとわかりやすく伝わるかもしれない。)
で。
だから(?)。
と、私はいつものように「飛躍」するのだけれど、こういう詩に対しては、私が書いたように、こんなものを読ませて、石毛、私に恨みでもあるのか、と怒るのが絶対的に正しい反応である。たとえ、あ、おもしろい、いいじゃないか、気に入ったと思っても、そんなことは言ってはいけない。そんなことを言って、石毛を喜ばせてはいけない。図に乗らせてはいけない。そんなことをすれば、「おれはこんな危ないことも知ってるんだぜ」とさらに汚くて危ない詩を書いて自慢するに違いない。
危ない遊びは、誰か(友人)と共有するものではなく、私はそんなことはしないとそっぽを向いて、友人がいなくなったのを確認してから、隠れてひとりでするものである。こっそりと、友人の教えてくれた「汚い」危険を上回るスリルを味わって、友人を出し抜くことが正しいつきあい方である。
石毛拓郎「ゆめつぶしうた」はイチゴをつぶす詩である。
さあ
つぶして ごらん
ときを かけて
いまにも くさりそうな
うれすぎた いちご
それ
それの ひとつひとつを
おまえの ゆびの はらに
のせて
「いまにも くさりそうな」ものなんかに触りたくないなあ。なんで、「ゆびの はらに」なんて指定されなくてはいけない? スプーンじゃだめ? だいたい、なんのためにつぶすの? 私は果物が大好きだけれど、イチゴのように歯応えのないのは嫌い。食べている感じがしない。捨てちゃいたい。
でも、石毛は、さらに言うんです。イチゴをつぶしなさい、と。私に恨みでもある?
さあ
つぶして ごらん
すりつぶす ときの
ゆびに ひろがる
うつろな いのち
血と肉
すりつぶされた いちごの
いきる ほこり
いきを ふさがれた のぞみ
それ
それでも おまえの
ゆびの はらを のがれ
もえたぎる みちを うむ
うまれかわる よろこび
でも、こんなふうに言われると、ちょっと気持ちが変わる。
石毛は、イチゴに同情して(?)、「いちごの/いきる ほこり/いきを ふさがれた のぞみ」と書くのだけれど、これを読んだ瞬間、石毛の「私に対する恨み(これは、誤読--ゆえに絶対正しい)」に反抗するように、私の肉体のなかで、イチゴをぎゅうとつぶしたい欲望が湧いてくる。「ゆびの はらを のがれ/もえたぎる みちを うむ/うまれかわる よろこび」なんて、許さないぞ。「ゆびのはら」でイチゴの「はらわた」が出てくるのを確かめてやる。生きているものが、ぐにゅりと変形し苦しむのを見て、にやっと笑ってやるぞ。イチゴが「うまれかわる」なら、私だって生まれ変わる。イチゴを殺したって、だれも文句は言わない。「くさりかけた」イチゴじゃないか。殺さないと死んでしまうイチゴじゃないか。
さあ、正義の味方じゃなくて、イチゴの味方の石毛、どうする?
さあ
つぶして ごらん
ゆびに ふるえて のこる
まっかな 血と肉の
つぶつぶ
つぶされても つぶされても
なお のこる
のこらねば ならぬ
それ
つぶつぶ
たねの ゆめ
ちまみれに のこる
つぶつぶ
うーん、しつこい。「のこらねば ならぬ」というのなら、種くらい残してやるさ。勝手に残っていろ。私は、手を洗って、はい、さよなら……。
というのは、まあ、一種の誇張した私の感想だけれど。
読みながら、奇妙な気持ちになる。なんだか「汚い」気持ち。汚さを感じる。「くさりかけた」というイチゴのもっている性質が汚い。それに反抗するように、そんなものに負けないさ、つぶせというならつぶしてやるさ、と動く私のこころが汚い。さらに、そのつぶされたイチゴを「血と肉」ということば「いのち」ということばで、あたかも大事そうに言いなおす石毛の根性が汚い。だって、さっき「くさりそうな」と平然と言っていたのに、突然、イチゴの味方をするなんて、変じゃないか。--という具合に、揚げ足取りみたいなことをふっかける私の根性も汚い。さらに、「くさりそう」だったのに、突然、石毛のことばにあわせて「いきる ほこり」とか「うまれかわる よろこび」とかになってしまうイチゴもずるいし、汚い。もう、手はべたべた。イチゴに汚れているふりをして、もっと別なものに汚れている。入り組んだ欲望に汚れている。
めちゃくちゃにつぶしてしまいたい。つぶされながらも、生きているのがわかるかい、と反抗するイチゴになってみたい。そういうことを書くこと、ことばにすることで、ふたつの対立する欲望が、つまり矛盾が「ゆび」という肉体を媒体に、イチゴと人間の肉体を行き来するという世界を明るみに出したいという「理想」にも、たぶん、汚れている。
なんだか、とても危ない。
でも、そこが魅力。つまり、汚いはずなのに、そこが美しい。汚いは美しい。危ない。--矛盾している。矛盾ほど危ないものはない。でも、だからこそ、それをもっと見てみたい。
それ
三つの連でくりかえされる「それ」という一行。
「いま/ここ」にあるものを、そして直接触れているものを「これ」ではなく、「それ」といったん切り離して(客観化して)、そこからことばが反転する。ことばの動きが矛盾というとおおげさかもしれないけれど、何かかわる。
どんなものでも「見方」をかえれば、だれの「味方」であるかもかわる。
「肉体」は、同じ位置にありながら、その内部で動くものが別な方向にかわる。変なことが「肉体」のなかで起きて、そういうことが起きても「肉体」は「肉体」のまま、同じでいられる。
ほんとうは「同じ」ではないのかもしれないけれど。
このあたりの、非論理を、石毛は、ことばで「ぐい」と進む。状況に対して「ぐい」と身を捩じり込ませる。(そういうことは、同じ号に載っているエッセイを読むとわかりやすく伝わるかもしれない。)
で。
だから(?)。
と、私はいつものように「飛躍」するのだけれど、こういう詩に対しては、私が書いたように、こんなものを読ませて、石毛、私に恨みでもあるのか、と怒るのが絶対的に正しい反応である。たとえ、あ、おもしろい、いいじゃないか、気に入ったと思っても、そんなことは言ってはいけない。そんなことを言って、石毛を喜ばせてはいけない。図に乗らせてはいけない。そんなことをすれば、「おれはこんな危ないことも知ってるんだぜ」とさらに汚くて危ない詩を書いて自慢するに違いない。
危ない遊びは、誰か(友人)と共有するものではなく、私はそんなことはしないとそっぽを向いて、友人がいなくなったのを確認してから、隠れてひとりでするものである。こっそりと、友人の教えてくれた「汚い」危険を上回るスリルを味わって、友人を出し抜くことが正しいつきあい方である。
詩をつくろう (さ・え・ら図書館) | |
石毛 拓郎 | |
さ・え・ら書房 |