くりはらすなを『月夜の晩』(西田書店、2013年02月25日発行)
くりはらすなを『月夜の晩』にはいくつかの種類の詩が混在している。「最期」という「童話」のような作品が私にはいちばんおもしろかった。
最後の4行が美しい。思わず、我を忘れてしまう。
それまでは、くりはらが猪と森を描写していた。ところが、ここではくりはらは描写していない。--というと、まあ、奇妙な言い方になるが。
くりはらは、ここでは猪になっている。さらに言えば、猪の腹、猪の乳(乳房、乳首)になっている。
小さな猪、猪の子供が母親の乳房をさがしもとめるということはあっても、あるいは母親の猪が子供に乳をのませるために子供をさがしもとめるということはあっても、「腹」や「乳(乳房)」そのものが猪の子供をさがすということはありえない。「乳房」は何かを想像したりしない。「意思」をもって動くのは「頭」である。あるいは「こころ」である。
というのは、「屁理屈」。
このとき母親の「いのち」のすべては「乳」にある。子供に乳をのませたいと思っているのは、乳房であり、そのなかにある乳そのものでもある。
そういうことを、私たちは(私は)直感的に知る。納得してしまう。
「乳」が「子供の声をさがす」というのは、論理的に「奇妙」である。朝日新聞が紹介していた言語学者の角田太作(きのうの「日記」参照)は、こういう「奇妙」とどう向き合うだろうか。
--しかし、こういうことを「奇妙」と読んでしまうことの方が「奇妙」である。
くりはらが書いていることを読んで、それが「奇妙」だと感じるとしたら、その方が「奇妙」だと思う。
猪ではないけれど、こういう「母性」を私たちは日常的に知っている。私は「母」の肉体になったことはないが、それを自分の肉体のように覚えている。たぶん、乳房に吸いついたとき、そこからほとばしる乳を肉体が覚えていて、それが私に私の小さいときだけではなく、そのときの「母」を思い出させるのだ。乳房に吸いついていたとき、そして夢中で乳を飲んでいたとき、私は「母」と「一体」だった。乳を飲んでいるのだけれど、乳を飲ませている母がそのとき「肉体」として、私の「肉体」とつながり「ひとつ」になった。ふたつは切り離せない。子どもが母親の乳をさがすように、母親の乳は子どもをさがすのだ。ふたりは出会って「ひとつ」になる。「ひとつ」になろうとして、乳が赤ん坊をさがしている、赤ん坊に吸いつかれることをもとめている。
こんなことは、いちいちことばにするとうるさい。だんだん、嘘っぽくなる。というか、理屈っぽくて、聞くのがめんどうになる。肉体(思想)は、そういう「理屈」を必要としていない。
つまり。(というのは、私の「飛躍」であるのだが。)
この「乳が」「子供の声をさがしている」というのは、肉体の思想が、直に、ことばになっているのである。直に発せられた思想は、そのまま肉体にぶつかってくる。こんなことばに対して、いちいち「理屈」をこねまわしても、それは詩のことば(絶対的な思想/本能)から遠ざかるだけである。
余分なことばかり書いたが。
ここには、ともかく、くりはらの肉体(絶対的思想/本能)が直に出ている。それが剥き出しであるから、強い。それが、すばらしい。
「翅」という作品は、「最期」とはまったく逆のものかもしれない。
起きたことをすべて「頭」で整理しなおして、ことばにしている。そうして、ことばで描いたものは「永遠」のいう形で存在する。
この「永遠」は猪の乳房が子供をさがしているという「いま/ここ」とはまったく逆である。猪には「いま/ここ」しかない。「肉体」しかない。猪は、年老いて、罠にかかってとらえられたことを思い出したりはしない。思い出の中に「永遠」があるとも思わない。
「翅」に書かれていることは、直には、私の肉体に迫って来ない。「頭」のなかで、蛾を枯葉と勘違いし、それに触れようとしたことがあった。その、何かを別のもの(夢のようなもの)と勘違いし、触れようとしたらそれは「現実」になって消えてしまった--という夢と現実の関係の中に「永遠」がかいま見える。ということは「頭」のなかでは「永遠」かもしれない。
でも、こういう「永遠」はあまりおもしろくない。どきどきしない。「最期」の猪の乳の方がどきどきする。死んでしまうのに「永遠」を感じる。
「寄り道」は、「最期」と「翅」が不思議なバランスでまじりあった作品かもしれない。
最後の「爪の中に泥が入り込んできて取ることができない。」がいい。「肉体」が覚えていることが、そのまま「肉体」に直にぶつかってくる。爪のなかの泥が、私の爪でも、私がさわった泥でもないのに、ぐいと目に食い込んでくる。
この「肉体」がぶつかってくるとき、私たちは(私は)、その「肉体」を正確につかみとっていないかもしれない。けれど、「肉体」がぶつかってきたという「感覚」は私の「肉体」のなかに残り、ぶつかった瞬間、そこに「同じ肉体」を感じる。「思想」の深いつながりを感じる。本能としての思想を感じる。
それは「人魚構文」というような「頭」でつかみとった「真理」とはまったく違う「事実」である。「事実」が直接そこにあれば、それが「真理」かどうか(「頭」で整理したとき、奇妙ではなく、正しいかどうか)ということは問題にならない。というよりも、私は「頭」は間違えるが、本能は絶対に間違えないと感じている。肉体の思想は間違えないと信じている。
それは、次のようなことを考えればいいのかもしれない。
詩の前の方に書かれている「くねくねと曲がった」の「くねくね」の「体感」、「少しずつ知らない風景の中に入り込んでいく」の「少しずつ」の「不安」と「知らない」の「不安」--その肉体に深く食い込んでくるもの、「覚えていること」と「何を話したかは覚えていない」の対比。「肉体」は「覚えている」、けれど「頭」は「覚えていない」。話した内容は「覚えていない」が、人と人が出会ったら「話す(ことばをかける)」という「肉体」の行為は間違いなく「覚えている」。
「頭」はときどき消えてしまうが、そのときも「肉体」は残っている。その残っている「肉体」のなかを、ことばは動いている。「肉体」をぬきにして、「頭」のなかだけを調べて「奇妙」というのは、それこそ「奇妙」なことであるように私には思える。
あ、論理がどこかでずれてしまった。私はまだ角田のばかげた「人魚構文」という「見方」にいらだっているのかもしれない。
くりはらすなを『月夜の晩』にはいくつかの種類の詩が混在している。「最期」という「童話」のような作品が私にはいちばんおもしろかった。
森では
捕らえれた
猪が
さっきから
足を
紐で括られ
悲鳴をあげている
森よ
その声は木々のあいだを抜けてゆき
影となって
危険を
伝えるだろう
腹では
桃のような乳が
ざらんざらんとゆれていて
子供の声をさがしている
最後の4行が美しい。思わず、我を忘れてしまう。
それまでは、くりはらが猪と森を描写していた。ところが、ここではくりはらは描写していない。--というと、まあ、奇妙な言い方になるが。
くりはらは、ここでは猪になっている。さらに言えば、猪の腹、猪の乳(乳房、乳首)になっている。
小さな猪、猪の子供が母親の乳房をさがしもとめるということはあっても、あるいは母親の猪が子供に乳をのませるために子供をさがしもとめるということはあっても、「腹」や「乳(乳房)」そのものが猪の子供をさがすということはありえない。「乳房」は何かを想像したりしない。「意思」をもって動くのは「頭」である。あるいは「こころ」である。
というのは、「屁理屈」。
このとき母親の「いのち」のすべては「乳」にある。子供に乳をのませたいと思っているのは、乳房であり、そのなかにある乳そのものでもある。
そういうことを、私たちは(私は)直感的に知る。納得してしまう。
「乳」が「子供の声をさがす」というのは、論理的に「奇妙」である。朝日新聞が紹介していた言語学者の角田太作(きのうの「日記」参照)は、こういう「奇妙」とどう向き合うだろうか。
--しかし、こういうことを「奇妙」と読んでしまうことの方が「奇妙」である。
くりはらが書いていることを読んで、それが「奇妙」だと感じるとしたら、その方が「奇妙」だと思う。
猪ではないけれど、こういう「母性」を私たちは日常的に知っている。私は「母」の肉体になったことはないが、それを自分の肉体のように覚えている。たぶん、乳房に吸いついたとき、そこからほとばしる乳を肉体が覚えていて、それが私に私の小さいときだけではなく、そのときの「母」を思い出させるのだ。乳房に吸いついていたとき、そして夢中で乳を飲んでいたとき、私は「母」と「一体」だった。乳を飲んでいるのだけれど、乳を飲ませている母がそのとき「肉体」として、私の「肉体」とつながり「ひとつ」になった。ふたつは切り離せない。子どもが母親の乳をさがすように、母親の乳は子どもをさがすのだ。ふたりは出会って「ひとつ」になる。「ひとつ」になろうとして、乳が赤ん坊をさがしている、赤ん坊に吸いつかれることをもとめている。
こんなことは、いちいちことばにするとうるさい。だんだん、嘘っぽくなる。というか、理屈っぽくて、聞くのがめんどうになる。肉体(思想)は、そういう「理屈」を必要としていない。
つまり。(というのは、私の「飛躍」であるのだが。)
この「乳が」「子供の声をさがしている」というのは、肉体の思想が、直に、ことばになっているのである。直に発せられた思想は、そのまま肉体にぶつかってくる。こんなことばに対して、いちいち「理屈」をこねまわしても、それは詩のことば(絶対的な思想/本能)から遠ざかるだけである。
余分なことばかり書いたが。
ここには、ともかく、くりはらの肉体(絶対的思想/本能)が直に出ている。それが剥き出しであるから、強い。それが、すばらしい。
「翅」という作品は、「最期」とはまったく逆のものかもしれない。
気が付くと玄関の引き戸のやっと手が届くような所に、奇妙な色をした一枚の枯葉が張り付いていた。まだ木枯らしが辺りで吹き荒れていて、じっとしていると手が冷たくなってくる頃だ。それは何時から張り付いていたものなのか、風の中びくともせずに形を保っている。
少女は奇妙な気分でその場に立ち止まる。つま先立ちのまま、指は枯葉に触るつもりである。触れた瞬間、枯葉はいきなり一対の翅となる。その呆気なさ。
飛び立った翅が再び現れるのは年老いた時。記憶の底がぱっくりと開いて時間が永遠に広がる。
起きたことをすべて「頭」で整理しなおして、ことばにしている。そうして、ことばで描いたものは「永遠」のいう形で存在する。
この「永遠」は猪の乳房が子供をさがしているという「いま/ここ」とはまったく逆である。猪には「いま/ここ」しかない。「肉体」しかない。猪は、年老いて、罠にかかってとらえられたことを思い出したりはしない。思い出の中に「永遠」があるとも思わない。
「翅」に書かれていることは、直には、私の肉体に迫って来ない。「頭」のなかで、蛾を枯葉と勘違いし、それに触れようとしたことがあった。その、何かを別のもの(夢のようなもの)と勘違いし、触れようとしたらそれは「現実」になって消えてしまった--という夢と現実の関係の中に「永遠」がかいま見える。ということは「頭」のなかでは「永遠」かもしれない。
でも、こういう「永遠」はあまりおもしろくない。どきどきしない。「最期」の猪の乳の方がどきどきする。死んでしまうのに「永遠」を感じる。
「寄り道」は、「最期」と「翅」が不思議なバランスでまじりあった作品かもしれない。
その年のクラス替えの後、彼女は私に声を掛けてきたのだった。彼女は自分の家に来ないかと誘い、学校帰りに私たちはくねくねと曲がった住宅街を歩いていった。確かに途中までは知っていた道だったが、少しずつ知らない景色の中に入り込んでいく。私は次第に不安になり、家に帰る道はどれだったろうかと時折振り返る。二人して足早に路地を通り抜けていくと住宅街からはしだいに遠ざかり、広々とした運動場のような処に着く。門を抜けると、古びれたプレハブ小屋があり、その中に案内される。薄暗がりの中で彼女の母親らしき人が話しかけてくる。何を話したのかは覚えていない。月並みな挨拶のようなものだったかもしれない。外に出ると、地面は暑さのせいですっかり干からびてしまっている。それから二人して、パズルのようにひび割れたひとつひとつを剥がしていく。爪の中に泥が入り込んできて取ることができない。
最後の「爪の中に泥が入り込んできて取ることができない。」がいい。「肉体」が覚えていることが、そのまま「肉体」に直にぶつかってくる。爪のなかの泥が、私の爪でも、私がさわった泥でもないのに、ぐいと目に食い込んでくる。
この「肉体」がぶつかってくるとき、私たちは(私は)、その「肉体」を正確につかみとっていないかもしれない。けれど、「肉体」がぶつかってきたという「感覚」は私の「肉体」のなかに残り、ぶつかった瞬間、そこに「同じ肉体」を感じる。「思想」の深いつながりを感じる。本能としての思想を感じる。
それは「人魚構文」というような「頭」でつかみとった「真理」とはまったく違う「事実」である。「事実」が直接そこにあれば、それが「真理」かどうか(「頭」で整理したとき、奇妙ではなく、正しいかどうか)ということは問題にならない。というよりも、私は「頭」は間違えるが、本能は絶対に間違えないと感じている。肉体の思想は間違えないと信じている。
それは、次のようなことを考えればいいのかもしれない。
詩の前の方に書かれている「くねくねと曲がった」の「くねくね」の「体感」、「少しずつ知らない風景の中に入り込んでいく」の「少しずつ」の「不安」と「知らない」の「不安」--その肉体に深く食い込んでくるもの、「覚えていること」と「何を話したかは覚えていない」の対比。「肉体」は「覚えている」、けれど「頭」は「覚えていない」。話した内容は「覚えていない」が、人と人が出会ったら「話す(ことばをかける)」という「肉体」の行為は間違いなく「覚えている」。
「頭」はときどき消えてしまうが、そのときも「肉体」は残っている。その残っている「肉体」のなかを、ことばは動いている。「肉体」をぬきにして、「頭」のなかだけを調べて「奇妙」というのは、それこそ「奇妙」なことであるように私には思える。
あ、論理がどこかでずれてしまった。私はまだ角田のばかげた「人魚構文」という「見方」にいらだっているのかもしれない。
天窓―くりはらすなを詩集 | |
くりはらすなを | |
七月堂 |