森山恵「Fall」(「hotel 第2章」2013年03月01日発行)
森山恵「Fall」について何が語れるだろうか。わからない。わからないまま、気になっている。
いくつもの「もの」がバラバラに存在している。「落葉(枯葉)」「乾くパン」「茶色の紙に包まれた箱」「古切手」「帆船(空舟)」。そして、それをつないでいるものはといえば、3行目に出てくる「----」という長い線なのである。この線は3連目では1字分ずつ長くなっている。最初は4字分、次が5字分、6字分という具合。
この「-----」は何?
ことばではない。ことばではないものに、何かを託している。そしてそれがことばではないから、「意味」ではないから、接続が切断にも思える。
ふたつを比べてみるとわかる。「小皿のパンが乾く」では「意味」がそのまま「わかる」。「小皿----のパンが乾く」には、「----」の不可解な「間」がある。ことばは、ほんとうにこのとおりに動きたかったのだろうか。森山は、ほんとうに「小皿のパンが乾く」ということを言いたかったのだろうか。ほかに言いたいことがあるのだけれど、そこにたどりつけないので、どうしようもなくなって「----」のあとに「のパンが乾く」とつないだような感じが残る。
そしてこの瞬間、「間」こそが森山の「肉体」になる。
そのどうしようもない「間」の前には、落葉(枯葉)から「小皿」への飛躍がある。なぜ、落葉から皿へと「主題(?)」が動いたのか。その間には、まあ、「テーブル」というものがある。テーブルの上に皿があるから、小皿。
まあ、そうだね。そして、そういう視点で見ていくと、「落葉(室外)」があり、「窓」があり、同時に「窓の外」があり、室内にはテーブルがあり、テーブルの上には小皿があるという具合に世界は「接続」している。テーブルの下に「枯葉」があり、反対にテーブルの上」には「小皿」があり、さらに「小皿の上」にはパン--と視点はどこまでもつながっている。
つながっているように見える。
でも、ほんとうはつながっていない。外に落葉の風景があるとしても、それに向き合う形で「室内」がなければならない理由はない。室内にテーブルがあり、その下には枯葉があり、その上には小皿がある必要はない。特にテーブルの下の枯葉は異様だ。ほかのものだってありうる。たとえば、本棚があるとか、壁に絵が掛かれているとか。あるいは枯葉の向こうに公園があり、そこにはブランコがある、誰もすべっていない滑り台もある、とか。
世界を「つないでゆく」のは、人間なのである。森山なのである。つなぐ「もの」と「もの」の「間」なのである。つなぐときにできる「間」が「つなぐ」のである。--あ、これでは同義反復か……。
詩にもどる。
小皿まで世界をつないできたとき、そこから何をさらにつなぐか。その「つなぐ」における「間」の特徴とは何か。何を「接着剤」にして、「間」を埋める、「間」を埋めて「つなぐ」か。
「パン」だけではつなげなかった。そこに「乾く」という動詞を持ち込む必要があった。そうであるなら、その「乾く」が森山にとっての、この瞬間のキーワードである。「乾く」という動詞が「接着剤」となっている。
この「乾く」は「落葉(枯葉)」の乾燥(乾き)とも重なっているのだが、だからこそ予兆のようにしてテーブルの下に枯葉があり、潜在意識としての、本能としての枯葉があり、「かわき」が「渇き」に変化するとき、そこには森山の「肉体」が直接的に、直に、ことばのなかに入ってくる。森山が「渇いている」。だから「落葉(枯葉)」の乾きをひきよせ、パンの乾きをひきよせ、いっそう「渇いてしまう」。
パンの「乾き」がとめられないのではなく、森山自身の「肉体」の「渇き」がとめられないのである。「渇き」はすでにあって、それが出会った「もの」によって増幅される。そだからこそ、落葉ということばから詩ははじまっている。そして、その自分の「渇き」をパンの「乾き」とどこかで混同する。その混同した「接続」までの、不思議な「飛躍」が「----」という接続なのである。この「----」という沈黙の中に、「肉体」の動き、「動詞」がことばにならないまま動いているのである。ことばにならない動き、それが「間」であり、そこにすべてがある。
「乾き」は「水分がない」こと、「渇き」も水分がないこと、そして「ない」ということは「空」ということ。「空舟」の「空」。舟もまた、何かに「渇いている」。舟は何に「渇く」か、何を切望するか。海である。海はどこにあるか、包みに貼られた古い切手のなかにある。
こんなふうに、すべての存在が、ばらばらでありながら接続していく。ことばにならない動詞でつながっていく。つまり、その瞬間に、必ず「肉体」が介在してくる。「間」のなかで肉体の動きがことばにならないまま存在している。
3連目。「-----乾いたパンのカケラを飲みくだす」。そうすることで、森山の肉体はパンの乾きそのものとなり、さらに渇く。その渇きのなかで森山の視線は古い切手、古い切手のなかの帆船と海(大量の水)に出会う。パンを飲み下そうが飲み下さまいが、古い切手の図柄にかわりはないけれど、パンを飲み下すとき、森山はその模様に「-----」という「間」を超えて接続する。「肉体」を「いま/ここ」にあるもののあいだに強引にわりこませると、「もの」が接続して「世界」ができあがる。
「肉体」をどう割り込ませていいからわからないから、「薬指を喰いちぎる」というようなこともしないといけない。もちろんこれは、「ことば」だけのこと。「ことば」だけだけれど、「肉体」なのだと、「-----」は言うのである。「切断」をことばではない「-----」によって接続するのである。
だから、そこでは、「現実」とは違った何かがはじまる。
この行の渡り、そして「喜望峰」を撫でるというとき、その「喜望峰」は切手に描かれた「海」の向こうにある。ほんとうは存在しない。そこにない「喜望峰」、つまり現実の、アフリカの喜望峰を「肉体の意識」としてなでるのである。肉体の運動(動詞)はそこまで飛躍することができる。
「肉体」がそのように動くとき、「意識」は「心」になる。「心を籠めて」の「心」に。この「精神としての意識」ではなく、「肉体の意識」から「心」への移行(というか、接続?、すりかわりといえばいいのか……)には、また「乾き」「渇き」に似たことばの交錯が働いている。
「秋箱」。「空(から)舟」「空箱(からばこ/あきばこ)」「秋(あき)箱」。一種の「誤読」が「固い結び目」となって働いている。それは「空想」ではなく、何かもっと「肉体」に密着しているものとして感じられる。それは「パンの乾き」を自分自身(森山自身)の「渇き」と結びつけたときからはじまっているのだ。一度そういう「結び目」をつくると、それはどんどん「固く」なっていく。その固さが「-----」という「ことば」にならないことばのなかにある。
そう感じる。
*
森山の詩とは直接関係はないのだけれど。03月05日「朝日新聞」夕刊に、とても奇妙な記事を見つけた。「人魚構文」に関する記事である。「上半身が人で下半身が魚の人魚のように、種類のことなるものがくっついて一つの文になる」ものを「人魚構文」というそうである。
私は、申し訳ないが、笑ってしまった。
変な構造の文といえば、まず私たち日本人がふつうに習う外国語・英語でいえば「関係代名詞」を含んだ文がある。「太郎は明日、大阪に行く予定です」はふつうに訳せば「Tarou will go to Osaka tomorow. 」だろうけれど、「It is tomorrow's schedule that Tarou will go to Osaka.」は、どうなのさ。あるいは「It is rain today. 」の形式主語のitは変じゃないの? 変な構文は日本語にあるのではなくて、外国語には変な構文があると角田がなぜ思わなかったか。それに笑ってしまったのである。日本語を奇妙と見る前に、外国語を奇妙とみればいいじゃないか。なぜ、外国語(ヨーロッパの言語)に「基準」をおかないといけないのだ。
なんでも「人魚構文」というのは日本だけではなく東アジアに多数みられるらしい。そうならなおのこと、奇妙なのは東アジアのことばではなく、ほかの外国語じゃない? だいたい、外国語が母国語と同じ構文を持っているという「前提」が奇妙じゃない?
日本語には不定冠詞も定冠詞もない。それって、奇妙? 複数の意識、単数の意識もあいまい。それは奇妙? そんなことはない。ほんとうに奇妙なら「肉体」がそれを拒絶しているだろう。
だれかがドアをたたく。「誰?」そう聞くとき、英語では「Who is it?」と聞くと思う。人間がドアをたたいているのに、「it」は奇妙じゃない? なぜ「he」「she 」じゃない?
どんなことばも、それが日常的に話される場以外では奇妙なものを持っている。「頭」の「論理」では納得できないものをもっている。そして、それが日常的に話される場では何一つ奇妙なものはない。そのことばが話されている「場」を離れて、「頭」で考えるから、奇妙になる。それは「ことば」の問題ではなく「場」の問題--「場違い」の論理の立て方である。そこにいるひとが、そういうことばを使い、それで納得しているなら、それでいいのである。納得できないなら、納得できるまで、そこに「肉体」そのものをなじませるしかない。肉体が自然に(輪意識に/本能的に)「Who is it?」と言ってしまえるまで、自分の「本能」を鍛えるしかない。そういう「本能」と交わる(セックスする)しかない。
詩を読むとき。
私は、その詩の「構文」が自分とはまったく違うということに気がつく。そのとき私は「私の構文が奇妙である」という前提では読み進むことができない。ここに書かれていることばは私のことばとはまったく違っている、それはそれを書いた人が私ではないから当たり前であるということを前提にして、その「まったく奇妙なことば」と私がどう向き合ったか、そのことばに対して私が自分自身のことばをどんなふうに変えることができたか、自分のことばをどこまで掘り下げていけば今読んでいることばと向き合えるのか、を語る。肉体に出会えるかを語る。肉体はひとりひとり独立して存在し別々なものであるけれど、どこか同じところを基盤にしていると感じるまで交わる。ことばでセックスをする。それは「誤読」というものなのだが、「誤読」すること、自分のことばの可能性を切り開くこと、見つめなおすことで、私は「一方的」に豊かになる。それが楽しい。
自分のことばは他人のことばと比べて奇妙である--と思っていたら、とても読むということはできない。他人のことばは奇妙だけれど、その奇妙なところを追いかけていると、自分の知らなかったものに出会えて楽しい、奇妙でなくなる、というのが「文学」だけにかぎらず、外国語を話すおもしろさだけれどなあ。
まあ、私は「学者」じゃないからね。
森山恵「Fall」について何が語れるだろうか。わからない。わからないまま、気になっている。
落葉色に一日がはじまる
窓の外にもテーブルのしたにも枯葉が積み重なって
小皿----のパンが乾く
バタを塗り紅茶に浸して渇きをとめようとしても渇きはとまらない
見知らぬ人から茶色紙の包みが届く
きっちりと紐で括られた古風な包みが怖くて開けられない
かたかたと軽い空舟
のような箱
テーブルの下の落葉を素足でかき混ぜ
-----乾いたパンのカケラを飲み下す
なん枚も貼られた古切手は二色刷り
帆船の図柄で------どこかの荒海を渡っている
いくつもの「もの」がバラバラに存在している。「落葉(枯葉)」「乾くパン」「茶色の紙に包まれた箱」「古切手」「帆船(空舟)」。そして、それをつないでいるものはといえば、3行目に出てくる「----」という長い線なのである。この線は3連目では1字分ずつ長くなっている。最初は4字分、次が5字分、6字分という具合。
この「-----」は何?
ことばではない。ことばではないものに、何かを託している。そしてそれがことばではないから、「意味」ではないから、接続が切断にも思える。
小皿----のパンが乾く
小皿のパンが乾く
ふたつを比べてみるとわかる。「小皿のパンが乾く」では「意味」がそのまま「わかる」。「小皿----のパンが乾く」には、「----」の不可解な「間」がある。ことばは、ほんとうにこのとおりに動きたかったのだろうか。森山は、ほんとうに「小皿のパンが乾く」ということを言いたかったのだろうか。ほかに言いたいことがあるのだけれど、そこにたどりつけないので、どうしようもなくなって「----」のあとに「のパンが乾く」とつないだような感じが残る。
そしてこの瞬間、「間」こそが森山の「肉体」になる。
そのどうしようもない「間」の前には、落葉(枯葉)から「小皿」への飛躍がある。なぜ、落葉から皿へと「主題(?)」が動いたのか。その間には、まあ、「テーブル」というものがある。テーブルの上に皿があるから、小皿。
まあ、そうだね。そして、そういう視点で見ていくと、「落葉(室外)」があり、「窓」があり、同時に「窓の外」があり、室内にはテーブルがあり、テーブルの上には小皿があるという具合に世界は「接続」している。テーブルの下に「枯葉」があり、反対にテーブルの上」には「小皿」があり、さらに「小皿の上」にはパン--と視点はどこまでもつながっている。
つながっているように見える。
でも、ほんとうはつながっていない。外に落葉の風景があるとしても、それに向き合う形で「室内」がなければならない理由はない。室内にテーブルがあり、その下には枯葉があり、その上には小皿がある必要はない。特にテーブルの下の枯葉は異様だ。ほかのものだってありうる。たとえば、本棚があるとか、壁に絵が掛かれているとか。あるいは枯葉の向こうに公園があり、そこにはブランコがある、誰もすべっていない滑り台もある、とか。
世界を「つないでゆく」のは、人間なのである。森山なのである。つなぐ「もの」と「もの」の「間」なのである。つなぐときにできる「間」が「つなぐ」のである。--あ、これでは同義反復か……。
詩にもどる。
小皿まで世界をつないできたとき、そこから何をさらにつなぐか。その「つなぐ」における「間」の特徴とは何か。何を「接着剤」にして、「間」を埋める、「間」を埋めて「つなぐ」か。
「パン」だけではつなげなかった。そこに「乾く」という動詞を持ち込む必要があった。そうであるなら、その「乾く」が森山にとっての、この瞬間のキーワードである。「乾く」という動詞が「接着剤」となっている。
この「乾く」は「落葉(枯葉)」の乾燥(乾き)とも重なっているのだが、だからこそ予兆のようにしてテーブルの下に枯葉があり、潜在意識としての、本能としての枯葉があり、「かわき」が「渇き」に変化するとき、そこには森山の「肉体」が直接的に、直に、ことばのなかに入ってくる。森山が「渇いている」。だから「落葉(枯葉)」の乾きをひきよせ、パンの乾きをひきよせ、いっそう「渇いてしまう」。
パンの「乾き」がとめられないのではなく、森山自身の「肉体」の「渇き」がとめられないのである。「渇き」はすでにあって、それが出会った「もの」によって増幅される。そだからこそ、落葉ということばから詩ははじまっている。そして、その自分の「渇き」をパンの「乾き」とどこかで混同する。その混同した「接続」までの、不思議な「飛躍」が「----」という接続なのである。この「----」という沈黙の中に、「肉体」の動き、「動詞」がことばにならないまま動いているのである。ことばにならない動き、それが「間」であり、そこにすべてがある。
「乾き」は「水分がない」こと、「渇き」も水分がないこと、そして「ない」ということは「空」ということ。「空舟」の「空」。舟もまた、何かに「渇いている」。舟は何に「渇く」か、何を切望するか。海である。海はどこにあるか、包みに貼られた古い切手のなかにある。
こんなふうに、すべての存在が、ばらばらでありながら接続していく。ことばにならない動詞でつながっていく。つまり、その瞬間に、必ず「肉体」が介在してくる。「間」のなかで肉体の動きがことばにならないまま存在している。
3連目。「-----乾いたパンのカケラを飲みくだす」。そうすることで、森山の肉体はパンの乾きそのものとなり、さらに渇く。その渇きのなかで森山の視線は古い切手、古い切手のなかの帆船と海(大量の水)に出会う。パンを飲み下そうが飲み下さまいが、古い切手の図柄にかわりはないけれど、パンを飲み下すとき、森山はその模様に「-----」という「間」を超えて接続する。「肉体」を「いま/ここ」にあるもののあいだに強引にわりこませると、「もの」が接続して「世界」ができあがる。
王室御用達の醗酵バタはなんの助けにもならない
パンの耳と一緒に薬指を喰いちぎる
のこりの指
は喜望峰をやさしく撫でているから
紐の固い結び目
が責めるように凝視するのが恐ろしくて
開けられない
それでも差出人は秋箱だからこの箱を愛してみる 心を籠めて
「肉体」をどう割り込ませていいからわからないから、「薬指を喰いちぎる」というようなこともしないといけない。もちろんこれは、「ことば」だけのこと。「ことば」だけだけれど、「肉体」なのだと、「-----」は言うのである。「切断」をことばではない「-----」によって接続するのである。
だから、そこでは、「現実」とは違った何かがはじまる。
のこりの指
は喜望峰をやさしく撫でているから
この行の渡り、そして「喜望峰」を撫でるというとき、その「喜望峰」は切手に描かれた「海」の向こうにある。ほんとうは存在しない。そこにない「喜望峰」、つまり現実の、アフリカの喜望峰を「肉体の意識」としてなでるのである。肉体の運動(動詞)はそこまで飛躍することができる。
「肉体」がそのように動くとき、「意識」は「心」になる。「心を籠めて」の「心」に。この「精神としての意識」ではなく、「肉体の意識」から「心」への移行(というか、接続?、すりかわりといえばいいのか……)には、また「乾き」「渇き」に似たことばの交錯が働いている。
「秋箱」。「空(から)舟」「空箱(からばこ/あきばこ)」「秋(あき)箱」。一種の「誤読」が「固い結び目」となって働いている。それは「空想」ではなく、何かもっと「肉体」に密着しているものとして感じられる。それは「パンの乾き」を自分自身(森山自身)の「渇き」と結びつけたときからはじまっているのだ。一度そういう「結び目」をつくると、それはどんどん「固く」なっていく。その固さが「-----」という「ことば」にならないことばのなかにある。
そう感じる。
*
森山の詩とは直接関係はないのだけれど。03月05日「朝日新聞」夕刊に、とても奇妙な記事を見つけた。「人魚構文」に関する記事である。「上半身が人で下半身が魚の人魚のように、種類のことなるものがくっついて一つの文になる」ものを「人魚構文」というそうである。
たとえば「太郎は明日、大阪に行く予定です」という表現がある。言語学者の角田太作(つのだ・たさく)は20年ほど前に「奇妙な文だな」と思った。世界の諸言語を比べて相違点を調べる言語類型論の専門家だ。
「太郎は人間なのに『太郎は予定です』と表現するのは意味の点でおかしい。文構造もかわっている。前半は『太郎は行く』という、動詞が述語の動詞述語文で、後半は『予定です』の名詞述語文。こんな人魚のような構造の文は、たとえば英語では成り立たない。しかし従来の日本語研究には、これを奇妙な文ととらえる見方がなかった」
私は、申し訳ないが、笑ってしまった。
変な構造の文といえば、まず私たち日本人がふつうに習う外国語・英語でいえば「関係代名詞」を含んだ文がある。「太郎は明日、大阪に行く予定です」はふつうに訳せば「Tarou will go to Osaka tomorow. 」だろうけれど、「It is tomorrow's schedule that Tarou will go to Osaka.」は、どうなのさ。あるいは「It is rain today. 」の形式主語のitは変じゃないの? 変な構文は日本語にあるのではなくて、外国語には変な構文があると角田がなぜ思わなかったか。それに笑ってしまったのである。日本語を奇妙と見る前に、外国語を奇妙とみればいいじゃないか。なぜ、外国語(ヨーロッパの言語)に「基準」をおかないといけないのだ。
なんでも「人魚構文」というのは日本だけではなく東アジアに多数みられるらしい。そうならなおのこと、奇妙なのは東アジアのことばではなく、ほかの外国語じゃない? だいたい、外国語が母国語と同じ構文を持っているという「前提」が奇妙じゃない?
日本語には不定冠詞も定冠詞もない。それって、奇妙? 複数の意識、単数の意識もあいまい。それは奇妙? そんなことはない。ほんとうに奇妙なら「肉体」がそれを拒絶しているだろう。
だれかがドアをたたく。「誰?」そう聞くとき、英語では「Who is it?」と聞くと思う。人間がドアをたたいているのに、「it」は奇妙じゃない? なぜ「he」「she 」じゃない?
どんなことばも、それが日常的に話される場以外では奇妙なものを持っている。「頭」の「論理」では納得できないものをもっている。そして、それが日常的に話される場では何一つ奇妙なものはない。そのことばが話されている「場」を離れて、「頭」で考えるから、奇妙になる。それは「ことば」の問題ではなく「場」の問題--「場違い」の論理の立て方である。そこにいるひとが、そういうことばを使い、それで納得しているなら、それでいいのである。納得できないなら、納得できるまで、そこに「肉体」そのものをなじませるしかない。肉体が自然に(輪意識に/本能的に)「Who is it?」と言ってしまえるまで、自分の「本能」を鍛えるしかない。そういう「本能」と交わる(セックスする)しかない。
詩を読むとき。
私は、その詩の「構文」が自分とはまったく違うということに気がつく。そのとき私は「私の構文が奇妙である」という前提では読み進むことができない。ここに書かれていることばは私のことばとはまったく違っている、それはそれを書いた人が私ではないから当たり前であるということを前提にして、その「まったく奇妙なことば」と私がどう向き合ったか、そのことばに対して私が自分自身のことばをどんなふうに変えることができたか、自分のことばをどこまで掘り下げていけば今読んでいることばと向き合えるのか、を語る。肉体に出会えるかを語る。肉体はひとりひとり独立して存在し別々なものであるけれど、どこか同じところを基盤にしていると感じるまで交わる。ことばでセックスをする。それは「誤読」というものなのだが、「誤読」すること、自分のことばの可能性を切り開くこと、見つめなおすことで、私は「一方的」に豊かになる。それが楽しい。
自分のことばは他人のことばと比べて奇妙である--と思っていたら、とても読むということはできない。他人のことばは奇妙だけれど、その奇妙なところを追いかけていると、自分の知らなかったものに出会えて楽しい、奇妙でなくなる、というのが「文学」だけにかぎらず、外国語を話すおもしろさだけれどなあ。
まあ、私は「学者」じゃないからね。
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