詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

横山宏子「この秋もなにごともなかったように」ほか

2013-03-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
横山宏子「この秋もなにごともなかったように」ほか(「回游」46、2013年01月05日発行)

 横山宏子「この秋もなにごともなかったように」の1連目。

まちなかであなたを見かけた
歳をとってからのあなたに会ったことはない
たしかめようもない
まとまりのないそのとしつき
あなたに似たひとだっただけかもしれない
きっとそうにちがいない それでもいいのだ

 この連の「まとまりのないそのとしつき」、この1行に私はとても引きつけられた。どこに? と問われると、かなり答えるのがむずかしい。というか、答えるのは簡単なのだが、そのあとの説明がむずかしい。
 音が私の肉体にぴったりくるのである。
 詩を読むとき、何に引きつけられるかというと、私は「音」の場合が多い。「音」があわないと、読み進むことができない。私は黙読しかしないので、この「音」の説明がややこしいのだが、黙読しながら肉体が感じる音があわないと、どうもつらいのである。

 これは感覚的なことなので、私の感じていることの説明になるかどうかわからないが……。
 私がふっと引きつけられた行までの音の動きを見ていくと、1行目は「あ」の母音が明るく響く。2行目は「歳をとってからの」のなかに「お」が多いのだけれど、後半は再び「あ」。3行目も「あ」。4行目は「あ」と「お」がからみあって、ふっと肉体の深いところを刺戟する。「そ・の・と」と「お」がつづき、そのあとにふっと「あ」でも「お」でもない音がつづくところが、瞬間的に、「いま/ここ」を離れる感じがする。
 その「音」の変化と、そこで展開する「意味」の変化が重なり合う。その感じが、意味の「変化」と「音」の変化の一致が、「意味」を「頭」ではなく、「肉体」へ運んでくる。「意味」にならない何か、いや「意味」以前の、何らかの動き(変化)を「肉体」に感じさせる。--その感じ。「きっとそうにちがいない それでもいいのだ」という追いかけるリズムを肉体にしっかり迫ってくる。
 こういう「感覚の意見」めいたことをどれだけ書いてもしようがないのかもしれないけれど。さらにしつこく補足すると。
 「まとまりがたいそのとしつき」の「その」。「その」とは何かを指し示すことばだけれど、何かを意識的に指し示すことによって、その何かが少し「肉体」から離れる。「離れる」というのは変かもしれないけれど、一種の「客観化」のようなものが起きる。
 「いま/ここ」に起きている「こと」から、その「こと」が「いま/ここではない」ものへと離れてゆき、「いま/ここ」と「いま/ここでない」が二重になる。そのあいだで「肉体」がゆらぐ。どっちへいこうか。その両方にひっぱられて、「いま/ここ」が「いまここ」でありながら「いま/ここではない」になる。
 その「肉体」の感じが、ふと昔知っている「あなた」に会った瞬間に、肉体が感じることと重なる。「意味」だけではなく、「音」の印象が、それにぴったり重なる。

 どのことばにも、「意味」だけではなく、「音」の印象がある。耳を刺戟し、喉を刺戟する響きがある。

またたくまに新しい茎をのばした
この秋もなにごともなかったかのように
はや紅葉の花がひとつづきしだれ咲く
すこしの風にもゆらめきもだえ
おさえがたく戦きうねる萩の花
崩れては波立ちもりあがり崩れて

 この、「意味」の繰り返しと「音」のうねるような重複感。

いつもなにかの予兆のなかにあるのだろうか
そうでなかったとしたら
ちぎれていくきのうきょうあした
なおもたち騒いでくる風の
最大瞬間風速五〇メートルの台風が迫ってくる

 「ちぎれていくきのうきょうあした」というひらがなの「音」の連続、ほんとうは違う「もの」なのに連続させることで「ひとつ」にしてしまう粘着力、あるいは凹凸を磨いてならしていくなめらかな力に対して、それをさっぱり吹き払う「最大瞬間風速五〇メートルの台風が迫ってくる」の漢字(漢語?)の音の気持ちよさ。ただなめらかにつながるのではなく、つながりながらもどこか独立(孤立)した清潔感。

 何が書かれているか、ではなく、そこにある「音」が私には気持ちがいい。描かれていることがら・対象と横山の肉体の距離が「音」になっているような感じがする。
 と書いてしまうと、ほんとうに、単なる印象を書いているだけのような気もするが。でも、それは私のほんとうに感じていることなのだ。
 さらに直感だけでつけくわえると。
 横山のこの「音」は単に日本語の音だけを聞いてつかみ取ったものではないような感じがする。たとえば英語の先生とか--日常的に非日常の音に触れ合いながら自分の「音」を確かめた人のような気がする。何かしら日常の音をいったん洗い落として組み立てたような清潔な距離感がある。



 江田重信「無窮変転」。この人も独自の音を持っている。

旧縁ありふれの
回想しみみみゆさぶられ
詩歌ひしひしの昔つながりにんげんから
草木虫魚ひきくらべの
かたすみ思い知らされ

 「の」多用。これは西脇順三郎もやっているが、西脇の「の」の「音」とはかなり違って聞こえる。西脇の「の」はもっと肉体的(私には)。「もの(具体)」が「肉体」にぶつかってくる感じがする。「もの」を「肉体」にしてしまう「の」といえばいいのだろうか。「の」によって、「いま/ここ」にある「もの」が人間の肉体と対等になる。
 江田の場合は、「もの」ではなく「抽象」を「肉体」でつかまえに行く感じ。対等ではない。主体として「肉体」があり、それが「もの」を接続させる、「もの」のなかに「肉体」を持ち込む感じ。西脇とは動きが逆、という印象。
 きっと、私の書いていることは、私以外の人には何のことかわからないと思う。実は、私もわからないのだが。何か、ことばにできないもの、ことばになる前のことを、「音」に感じて、そのことをいいたいのだが……。

 (あす、吉増剛造に触れながらつづきを書くつもり。あくまで、「つもり」なので気が変わるかもしれない。)



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