豊原清明「夜の人工の木 MAN-MADE TREES」(「白黒目」40、2013年03月発行)
「夜の人工の木 MAN-MADE TREES」はKIEOAKI FILMの筆名で書かれた映画シナリオ。私は最近、豊原の作品は詩よりもシナリオの方が好きである。映画を見ているわけではないのだが、映画を見ている気持ちになる。
映画の始まりだが、「歌」が途中で激変する。かわいい女の子の歌だと思っていたら、突然おできのある女の子、からかわれている女の子になる。その間に何の説明もない。「過去」が突然噴出してくる。この突然さが、豊原のことばの「正直」である。
かわいい女の子とおできの女の子の「間」には、説明しようとすると「長い物語」があるはずなのだけれど、それを豊原は説明しない。「長い物語」は「おでき」「からかわれ」だけで十分に想像できるからである。だれもが「おでき」「からかわれる」「女の子」の物語を「肉体」のなかにもっている。「覚えている」。その「覚えている/こと」を豊原は、「肉体」にぴったりと引きつける。「いま/ここ」に接続してしまう。「長い物語」は「接続」の「接着剤」である。その接着剤はあまりに協力で、ふたつをつないだあと、その接着面には「間」というものがなくなる。(03月13日に感想を書いた 森山恵「Fall」のことばの動きとはまったく別種の動きである。)そしてそれは、「いま/ここ」の裏と表のように、くっつくことで「一つ」になって、存在している。
「過去」と「いま」の一瞬の結合。その遠心・求心の姿--とでもいうべきものが、豊原のことば、映画の一こまに、存在する。フィルムに直に張り付いている感じがする。
そしてそこには「肉体」がしっかりと存在している。不透明な確かさが存在している。左手にボールペンで書かれたタイトルも同じである。「肉体」が覚えていることが記憶なのである。そこに映し出されているのは手のひらと文字だけではない。「書いた」という「こと」が含まれている。それを「タトウー」と思ったという「こと」が含まれている。手のひらの側からの「覚えていること」が含まれている。「書く-書かれる」という相互の関係が「肉体」として「覚えていること」に含まれる。
「おでき」も同じなのである。「おできができたほっぺ」「からかわれたほっぺ」「からかわれたときの肉体の記憶」「からかった肉体の記憶」が一瞬のうちに、くっついたまま噴出する。
このあと、映画は熱帯魚(マユコ)の死骸を埋め、それから家へ帰っていくキヨアキを描くのだが、
「間」が一瞬一瞬、世界そのものとして解放される。そして、その解放された瞬間に、「過去」がフラッシュバックとして甦ってくるのだが、どんな「過去」も甦った瞬間には「いま」である。「いま」と「甦った過去」のあいだに「時間」を差し挟むことはできない。その「あいだ(間)」を計測することはできない。ただ「落葉の階段」のような「世界」があり、そこに「階段を上がり切る」という動き--動きという「いま」があるだけである。「いま」でありながら「いま」ではなくなる何か。「いま」ではなくなり、では「過去」になるかというと、そうではなく、たぶん「未来(これから起きること)」になるのだが、それが起きそうになると、その「起きる」という「こと」のなかに「過去」が、「過去の/こと」が甦ってくる。
死んだはずの熱帯魚は、思い出すたび「生きている」。そして、熱帯魚が生きている限り、熱帯魚を飼わずにいられなかったKIYOAKIの「過去(友だちがいない)」も「いま」として甦り、「いきる」。
これは、まあ、説明しようとするとわけがわからなくなるようなことだが、こういう理不尽な「過去」と「いま」の密着感は、だれもが「肉体」で「覚えている」ことである。--と、私は思う。豊原は、その「肉体が覚えていること」を「肉体」の感覚そのままにことばにする。
そして。
そのことばが、いつでも「遠いところ」にあるものを、ぐいと引き寄せ、くっつける。何もかもが「くっついてしまう」。
卵の殻が指にくっつくようなものである。
なぜくっつくか。卵の白身の粘着力。卵の殻に白身がこびりついていて、それが指にくっつく--というような説明は邪魔である。説明すると、それは卵の殻に限定されてしまう。「意味」が狭くなる。ただ、くっくくのである。ひとが「いま/ここ」にいるとき、「いま/ここ」にあるものが無意味にくっつく。それを「意味」にするか、「意味」にしないまま、ナンセンス(無意味)のまま、自分を「解放する力」として受け入れるかの違いがあるだけだ。豊原は「無意味」のままに、「現実」を、いや「事実」をつかみとる。「事実」を「無意味」という裸の状態にして、「肉体」で直接、がっしりとつかみ取る。受け入れる。
豊原はすべてを彼を「解放する力」として受け入れる。「いま/ここ」にあるもの、「起きている/こと」をことばにするとき、豊原は解放される。
「ぱっと」解放される。そこには「空」がある。「そら」でもあるし「くう」でもある。「くう」を肉体のなかに取り入れ、過去といまの強烈な接着剤を爆発させるのである。その瞬間の自由--そういうものを、私は豊原のことばに感じる。
「夜の人工の木 MAN-MADE TREES」はKIEOAKI FILMの筆名で書かれた映画シナリオ。私は最近、豊原の作品は詩よりもシナリオの方が好きである。映画を見ているわけではないのだが、映画を見ている気持ちになる。
○ 闇
○ KIEOAKI FILM
○ 左手のひらにタイトル(ボールペンタトウー)
「夜の人工の木 MAN-MADE TREES」
○ スケッチブック
軽い歌声を鳴らしながら、円い女の子を書く。
歌声「まあるい まあるい 女の子
可愛い口に 可愛いオメメ
やさしいおはな まあるい ほっぺは朱」
おできの粒粒を書く。
歌声「おでき 皆に からかわれ
友達独りいなかった
小雀山に餌あげて
いつも公園、松が丘、
公園。」
映画の始まりだが、「歌」が途中で激変する。かわいい女の子の歌だと思っていたら、突然おできのある女の子、からかわれている女の子になる。その間に何の説明もない。「過去」が突然噴出してくる。この突然さが、豊原のことばの「正直」である。
かわいい女の子とおできの女の子の「間」には、説明しようとすると「長い物語」があるはずなのだけれど、それを豊原は説明しない。「長い物語」は「おでき」「からかわれ」だけで十分に想像できるからである。だれもが「おでき」「からかわれる」「女の子」の物語を「肉体」のなかにもっている。「覚えている」。その「覚えている/こと」を豊原は、「肉体」にぴったりと引きつける。「いま/ここ」に接続してしまう。「長い物語」は「接続」の「接着剤」である。その接着剤はあまりに協力で、ふたつをつないだあと、その接着面には「間」というものがなくなる。(03月13日に感想を書いた 森山恵「Fall」のことばの動きとはまったく別種の動きである。)そしてそれは、「いま/ここ」の裏と表のように、くっつくことで「一つ」になって、存在している。
「過去」と「いま」の一瞬の結合。その遠心・求心の姿--とでもいうべきものが、豊原のことば、映画の一こまに、存在する。フィルムに直に張り付いている感じがする。
そしてそこには「肉体」がしっかりと存在している。不透明な確かさが存在している。左手にボールペンで書かれたタイトルも同じである。「肉体」が覚えていることが記憶なのである。そこに映し出されているのは手のひらと文字だけではない。「書いた」という「こと」が含まれている。それを「タトウー」と思ったという「こと」が含まれている。手のひらの側からの「覚えていること」が含まれている。「書く-書かれる」という相互の関係が「肉体」として「覚えていること」に含まれる。
「おでき」も同じなのである。「おできができたほっぺ」「からかわれたほっぺ」「からかわれたときの肉体の記憶」「からかった肉体の記憶」が一瞬のうちに、くっついたまま噴出する。
このあと、映画は熱帯魚(マユコ)の死骸を埋め、それから家へ帰っていくキヨアキを描くのだが、
○ 空
○ 落葉の階段を上がり切る、映像。
○ マユコが元気に動いている映像。
○ 文字「僕にはマユコ以外、友だちがいないので、
昔の友達を想うけど、今はいないから。」
○ 寒卵を割る、乳の指先。卵の殻を天に上げる、手。
声「これはいったいどういうことだ。ぼくの指に卵の殻がくっついた…。
これはいったい、なんでやの?」
「間」が一瞬一瞬、世界そのものとして解放される。そして、その解放された瞬間に、「過去」がフラッシュバックとして甦ってくるのだが、どんな「過去」も甦った瞬間には「いま」である。「いま」と「甦った過去」のあいだに「時間」を差し挟むことはできない。その「あいだ(間)」を計測することはできない。ただ「落葉の階段」のような「世界」があり、そこに「階段を上がり切る」という動き--動きという「いま」があるだけである。「いま」でありながら「いま」ではなくなる何か。「いま」ではなくなり、では「過去」になるかというと、そうではなく、たぶん「未来(これから起きること)」になるのだが、それが起きそうになると、その「起きる」という「こと」のなかに「過去」が、「過去の/こと」が甦ってくる。
死んだはずの熱帯魚は、思い出すたび「生きている」。そして、熱帯魚が生きている限り、熱帯魚を飼わずにいられなかったKIYOAKIの「過去(友だちがいない)」も「いま」として甦り、「いきる」。
これは、まあ、説明しようとするとわけがわからなくなるようなことだが、こういう理不尽な「過去」と「いま」の密着感は、だれもが「肉体」で「覚えている」ことである。--と、私は思う。豊原は、その「肉体が覚えていること」を「肉体」の感覚そのままにことばにする。
そして。
そのことばが、いつでも「遠いところ」にあるものを、ぐいと引き寄せ、くっつける。何もかもが「くっついてしまう」。
卵の殻が指にくっつくようなものである。
なぜくっつくか。卵の白身の粘着力。卵の殻に白身がこびりついていて、それが指にくっつく--というような説明は邪魔である。説明すると、それは卵の殻に限定されてしまう。「意味」が狭くなる。ただ、くっくくのである。ひとが「いま/ここ」にいるとき、「いま/ここ」にあるものが無意味にくっつく。それを「意味」にするか、「意味」にしないまま、ナンセンス(無意味)のまま、自分を「解放する力」として受け入れるかの違いがあるだけだ。豊原は「無意味」のままに、「現実」を、いや「事実」をつかみとる。「事実」を「無意味」という裸の状態にして、「肉体」で直接、がっしりとつかみ取る。受け入れる。
豊原はすべてを彼を「解放する力」として受け入れる。「いま/ここ」にあるもの、「起きている/こと」をことばにするとき、豊原は解放される。
○ 歩いている父を撮りながら、撮影している、僕。
カメラを交互に持ちながら、荒れた映像を流す。
ぱっと、空を映す。
「ぱっと」解放される。そこには「空」がある。「そら」でもあるし「くう」でもある。「くう」を肉体のなかに取り入れ、過去といまの強烈な接着剤を爆発させるのである。その瞬間の自由--そういうものを、私は豊原のことばに感じる。
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