野村喜和夫「眩暈原論(9)」、海埜今日子「非時香果」(「hotel 第2章」31、2013年03月01日発行)
吉増剛造のあとに野村喜和夫を読むと、「音」の違いがわかる。野村は「もの」を叩いて音を出さない。「もの」自身が出す音を聞き取る。
「Ⅲ-4」の書き出し。
「愛撫」ということばが出てくるが、強いて言えば、野村の音の出し方は(聞き取り方は)、打撃ではなく「愛撫」なのだ。打撃では「悲鳴」になる。「もの」が叩かれ叩かれ、変形し、神経が剥き出しになり、それが強烈に発光する。その光が音である。というのが吉増だとしたら、野村は、丁寧に丁寧に愛撫する。そうすると、こらえきれずに「もの」がもだえながら声をもらす。あ、ここのことろを愛撫すればもっと声が聞こえるなと思うと、そこをしつこく愛撫する。耳を頼りに声の変化を聞きながら、同時に視線でものの揺らぎも追いつづける。よく言えば、野村の方が欲張りである。悪く言えば、野村の方が散漫である。野村の肉体は音以外のもの、色や形やときにはにおいにも職種をのばす。で、欲張りの視点から見ていくと、一方に「諸要素」「相互浸透」「正確」というような「頭」のなかに響く音があり、他方に「葉むら」「窓辺」「青い青い大気」「浸された花々」というような「目(肉体)」に響く音がある。これはこれで、肉体とことばの交響曲なのである。
愛撫の、しなやかにつづくうねりの声だけを視力で追っていくのもいいのだけれど、きっとそれは「いま」の音楽にはちょっとあわない--というか、野村の耳にはちょっと退屈なのだろう。それで「諸要素の移行についていうなら」(2連目)というようなことばで、愛撫を切断して見せる。
そうすると。
「あ、やめないで、もっとつづけて」と相手が言うのかどうかわからないけれど、そういう「いわれなかった声(発せられなかったため息)」をちらりと横目で見て、
と、甘えて見せたり、というか、突然、地声を聞かせたり、その地声を転化させて、
切断を含みながら、ごちゃまぜに接続していく。「愛撫」はどこをさわっても、結局「肉体」の内部につながっているということを知っている。すけべだね。雄のふりをして雌ってどんな感じ、なってみたいなあ、とも言って女の優越感をくすぐることも知っている。超人的なすけべだね。
というような批判は嫉妬?
まあ、そうかもね。
あ、話が変なところへ迷い込んでしまったけれど、こういう変なところへ迷い込むくらい、吉増の音と野村の音は違うのだ。
吉増の音が「もの」を叩き、破壊し(というと語弊があるけれど)、その「もの」の純粋な単体(元素)のようなものにたどりつこうとする音だとすると、野村の音は「諸要素」などと言いながら、「元素」から出発して、それを愛撫で巨大に育てていく--なんというか、ある意味ではオナニーに没頭する精神がつくりあげる交響曲なのだ。で、「要素」という「ひとつ」ではなく、「諸」である必要もある。
の、かな……。
*
海埜今日子「非時香果(ときじくのかくのこのみ)」は、また、かわった音である。
何のことか、わからない。--と言い切ってしまうことは簡単だけれど、「この世の音色で、マーマレイド(を)飲み干せば」と漢字まじりにすると、何か「肉体が覚えていること」を刺戟してくる。「この世の音色」なんて、ありすぎてどれかわからないけれど、そういう言い方であらわすものはきっと「ひとつ」。で、その正体(?)を海埜は海埜の肉体から外に出さない。海埜の肉体のなかだけにとどめるというのではないけれど、ことばにするということは何らかの声をもらすということなのだけれど、わざと「誰にでもわかる」という具合にはしない。「あの世」じゃなくて「この世」--「あの世とこの世のちがい、わかるでしょ?」。それから、「あの世」はいまの肉体にはわからないけれど、「世」ということばをつかってしまうくらいだから、きっと肉体のどこかで「覚えている」。「覚えているでしょ?」それから、「飲み干し」て、「ほら、飲み干したのよ、わかる? 飲み干したこと、あるでしょ?」という具合。海埜自身の体験を語るのではなく、読者の体験に「覚えているでしょ」と誘いかけ、「肉体の内部」を共有しようとする。
野村が愛撫するとしたら、海埜はあらゆる存在の愛撫を受けながら、海埜自身の肉体の内部へ引き返し、その内部で肉体が覚えていることを確信する。そういう確信は、まあ、海埜にとっては「明確」かもしれないが、外から見ていると、なんだこれは?という感じになってしまう。で、なんだこれは?--なのだけれど、この感じはなかなか奇妙であって、そういう気持ちが起きるとき、私の側には、あ、海埜の肉体のなかで何かが「起きている」、その「起きている」という「こと」がわかる。
まあ、これでいいのだと思う。
道に倒れてだれかが体を折り曲げて呻いている。そういうのを見ると、それが自分の肉体ではないにもかかわらず、あ、この人は腹が痛いのだという「こと」がわかる。その人の肉体のなかで「痛み」がおきているという「とこ」がわかる。「こと」がわかっているだけなのに「痛い」のだとわかる。自分の痛みではないのに。
というのに、似ている。
で、
というようなことばに、はっとする。美しいなあと聞きほれてしまう。もし、痛みで苦しんでいるのだとしたら「美しいね」では場違いの感想になるのだが、そこから「何か」が聞こえるということ。
海埜は音を出さず、自分の肉体に引き返していく。音を出すことで「頭」が理解できるような「諸要素」を提示しない。逆に、音を呑み込むという動きそのものが発する「無音」を、読者の肉体に要求しているように思える。言い換えると、海埜の音を聞き取るためには、私たちは耳を動かすのではなく、「肉体」のすべてを動かし、自分の「肉体」を耳にしないといけないということ。「頭」の無音を生きないといけない。そこまでしてしまうと、きっと、海埜の肉体の内部の音ははっきりと感じられる。
でも、これはなかなかむずかしい。
そういうことがほんとうにできるのは、海埜を好きになり、肉体を重ねるという体験がないと、個人の肉体のなかに起きている「こと」はわからない。セックスというのは同じように見えても、一回一回、まったく違う。個人個人、まったく違う。
あ、またすけべな話題になったが。
そういうむずかしいことを、海埜は「ことば」だけでおこなおうとしている。詩でしているように私には見える。
吉増剛造のあとに野村喜和夫を読むと、「音」の違いがわかる。野村は「もの」を叩いて音を出さない。「もの」自身が出す音を聞き取る。
「Ⅲ-4」の書き出し。
眩暈の実質をつくる諸要素、また諸要素の相互浸透についていうなら、混じりあう樹木と大気、いや、より正確には、則座の飛翔に痙攣したかのような、キンキンした中空の黄金の葉むらであり、あるいはおずおずしたわれわれの愛撫に隣り合う窓辺の、青い青い大気に詩足された花々であり、その輝くプラズマ状態に、ほかならぬわれわれの愛撫からまろびでた未知の子供が漂ってくるのだ。
「愛撫」ということばが出てくるが、強いて言えば、野村の音の出し方は(聞き取り方は)、打撃ではなく「愛撫」なのだ。打撃では「悲鳴」になる。「もの」が叩かれ叩かれ、変形し、神経が剥き出しになり、それが強烈に発光する。その光が音である。というのが吉増だとしたら、野村は、丁寧に丁寧に愛撫する。そうすると、こらえきれずに「もの」がもだえながら声をもらす。あ、ここのことろを愛撫すればもっと声が聞こえるなと思うと、そこをしつこく愛撫する。耳を頼りに声の変化を聞きながら、同時に視線でものの揺らぎも追いつづける。よく言えば、野村の方が欲張りである。悪く言えば、野村の方が散漫である。野村の肉体は音以外のもの、色や形やときにはにおいにも職種をのばす。で、欲張りの視点から見ていくと、一方に「諸要素」「相互浸透」「正確」というような「頭」のなかに響く音があり、他方に「葉むら」「窓辺」「青い青い大気」「浸された花々」というような「目(肉体)」に響く音がある。これはこれで、肉体とことばの交響曲なのである。
愛撫の、しなやかにつづくうねりの声だけを視力で追っていくのもいいのだけれど、きっとそれは「いま」の音楽にはちょっとあわない--というか、野村の耳にはちょっと退屈なのだろう。それで「諸要素の移行についていうなら」(2連目)というようなことばで、愛撫を切断して見せる。
そうすると。
「あ、やめないで、もっとつづけて」と相手が言うのかどうかわからないけれど、そういう「いわれなかった声(発せられなかったため息)」をちらりと横目で見て、
足元の地面も溶けて、たちまち屍衣に包まれたような水、動かぬ水となって、おかあさん、ぼくを呑み込んでください。
と、甘えて見せたり、というか、突然、地声を聞かせたり、その地声を転化させて、
ほらまた、諸要素が雌雄あそびをしているよ。あたりまえだが太陽は雄、その愛を注がれて恍惚と大地は雌、あらゆる胚種がむらがる谷もあり、海と雌、波に薫る肉の花だもの、でも私はその海になりたい、自分の内奥に魚を泳がせたらどんな感じがするだろう。
切断を含みながら、ごちゃまぜに接続していく。「愛撫」はどこをさわっても、結局「肉体」の内部につながっているということを知っている。すけべだね。雄のふりをして雌ってどんな感じ、なってみたいなあ、とも言って女の優越感をくすぐることも知っている。超人的なすけべだね。
というような批判は嫉妬?
まあ、そうかもね。
あ、話が変なところへ迷い込んでしまったけれど、こういう変なところへ迷い込むくらい、吉増の音と野村の音は違うのだ。
吉増の音が「もの」を叩き、破壊し(というと語弊があるけれど)、その「もの」の純粋な単体(元素)のようなものにたどりつこうとする音だとすると、野村の音は「諸要素」などと言いながら、「元素」から出発して、それを愛撫で巨大に育てていく--なんというか、ある意味ではオナニーに没頭する精神がつくりあげる交響曲なのだ。で、「要素」という「ひとつ」ではなく、「諸」である必要もある。
の、かな……。
*
海埜今日子「非時香果(ときじくのかくのこのみ)」は、また、かわった音である。
どこからなのね。このよのねいろで、まあまれいど、のみほせば、たねをいくぶんこわばるから、すずに、きっとたくせばいい。いきをつたえて、と、はれわたり、さびしいれつにふるえます。
何のことか、わからない。--と言い切ってしまうことは簡単だけれど、「この世の音色で、マーマレイド(を)飲み干せば」と漢字まじりにすると、何か「肉体が覚えていること」を刺戟してくる。「この世の音色」なんて、ありすぎてどれかわからないけれど、そういう言い方であらわすものはきっと「ひとつ」。で、その正体(?)を海埜は海埜の肉体から外に出さない。海埜の肉体のなかだけにとどめるというのではないけれど、ことばにするということは何らかの声をもらすということなのだけれど、わざと「誰にでもわかる」という具合にはしない。「あの世」じゃなくて「この世」--「あの世とこの世のちがい、わかるでしょ?」。それから、「あの世」はいまの肉体にはわからないけれど、「世」ということばをつかってしまうくらいだから、きっと肉体のどこかで「覚えている」。「覚えているでしょ?」それから、「飲み干し」て、「ほら、飲み干したのよ、わかる? 飲み干したこと、あるでしょ?」という具合。海埜自身の体験を語るのではなく、読者の体験に「覚えているでしょ」と誘いかけ、「肉体の内部」を共有しようとする。
野村が愛撫するとしたら、海埜はあらゆる存在の愛撫を受けながら、海埜自身の肉体の内部へ引き返し、その内部で肉体が覚えていることを確信する。そういう確信は、まあ、海埜にとっては「明確」かもしれないが、外から見ていると、なんだこれは?という感じになってしまう。で、なんだこれは?--なのだけれど、この感じはなかなか奇妙であって、そういう気持ちが起きるとき、私の側には、あ、海埜の肉体のなかで何かが「起きている」、その「起きている」という「こと」がわかる。
まあ、これでいいのだと思う。
道に倒れてだれかが体を折り曲げて呻いている。そういうのを見ると、それが自分の肉体ではないにもかかわらず、あ、この人は腹が痛いのだという「こと」がわかる。その人の肉体のなかで「痛み」がおきているという「とこ」がわかる。「こと」がわかっているだけなのに「痛い」のだとわかる。自分の痛みではないのに。
というのに、似ている。
で、
いきをつたえて、と、はれわたり、さびしいれつにふるえます。
というようなことばに、はっとする。美しいなあと聞きほれてしまう。もし、痛みで苦しんでいるのだとしたら「美しいね」では場違いの感想になるのだが、そこから「何か」が聞こえるということ。
海埜は音を出さず、自分の肉体に引き返していく。音を出すことで「頭」が理解できるような「諸要素」を提示しない。逆に、音を呑み込むという動きそのものが発する「無音」を、読者の肉体に要求しているように思える。言い換えると、海埜の音を聞き取るためには、私たちは耳を動かすのではなく、「肉体」のすべてを動かし、自分の「肉体」を耳にしないといけないということ。「頭」の無音を生きないといけない。そこまでしてしまうと、きっと、海埜の肉体の内部の音ははっきりと感じられる。
でも、これはなかなかむずかしい。
そういうことがほんとうにできるのは、海埜を好きになり、肉体を重ねるという体験がないと、個人の肉体のなかに起きている「こと」はわからない。セックスというのは同じように見えても、一回一回、まったく違う。個人個人、まったく違う。
あ、またすけべな話題になったが。
そういうむずかしいことを、海埜は「ことば」だけでおこなおうとしている。詩でしているように私には見える。
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