詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安田有「日々成長」

2013-03-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
安田有「日々成長」(「LEIDEN雷電」3、2013年02月05日発行)

 「誤読」の楽しみ--というものに、私はとりつかれている。「誤読」すると、そこに書かれていることがとても楽しくなる。
 安田有「日々成長」は「誤読」しようがないような簡単・明瞭(?)な詩である。

睡蓮のうえに
三年
堂々たるトノサマになった
とびこむ水の音
一匹、二匹、三匹
いつのまに増えたのか
子どもが掬ってきたおたまじゃくしはたしか一匹
小指の爪ほどの蛙となって睡蓮によじ登っていた
「ココハ……ココ…ココ」
都会のちいさい庭池に閉じられて
ずっと生きてきた
独り身のやせ蛙
(心配だった)
いつからこんな賑やかさ

 子どもがとってきたおたまじゃくしが大きくなった。知らないうちに数も増えた。そういう詩である。「子ども」というのは安田の子どもである。--これはだれが読んでもそう思う。そして、私もそう思って読んでいたのだが。
 この詩の最後がちょっとおもしろくて。

このまま元気でいてくれよ
いつか
あたらしいおたまじゃくし……ユラフララ
ふふふふふ
金魚に尻尾(おしり)をつつかれないように、ね

 この最後の部分に対して感想を書こうと思って詩を読み返していたら。
 あら、「誤読」してしまう。
 1連目の「子ども」が安田の子どもではなく、トノサマガエルの子どもになってしまう。なぜだか、トノサマカエルの子ども(?)がおたまじゃくしを掬ってきた--という具合に感じてしまう。そんなことは現実にはありえないのだけれど、そう思ってしまって、それでこの詩がよけいに楽しくなる。
 なぜこんな「誤読」をしてしまうかというと、最後の連に関係している。

あたらしいおたまじゃくし……ユラフララ
ふふふふふ
金魚に尻尾(おしり)をつつかれないように、ね

 というのは、安田の視点なのだが、どうも私はそれが安田の「肉体」ではなく、トノサマカエルの「肉体」、いやトノサマカエルが子どもだったときの、つまりおたまじゃくしだったときの「肉体」をくぐりぬけたことばに思えるからである。
 金魚におしりをつつかれたことを安田の「肉体」は覚えているはずがない。安田は人間なのだから。それを覚えているのはおたまじゃくしだったことがあるトノサマカエルだけである。
 で、私は、無邪気に泳いでいるおたまじゃくしを見ながら、トノサマカエルが「金魚に尻尾をつつかれないように、ね」と言っていると感じたのだ。
 これは「非現実的」なことだから、せいぜいが、安田がトノサマカエルになって、そう言っているというのが、ぎりぎりの「読み方」なのだろうけれど。
 私はなぜか、その「ぎりぎり」を越えてしまう。
 そんなふうに安田が思ったとき、安田の「肉体」は人間の肉体ではなく、おたまじゃくしの「肉体」になっている。おたまじゃくしの「肉体」を共有している。それだけではなく、トノサマカエルの「肉体が覚えていること」も共有している。--人間の「肉体」よりもトノサマカエル、おたまじゃくしとつながる「肉体」の方が多くなって(?)、強くなって(?)安田の人間の肉体を超えてしまう。
 この不思議なトノサマカエルとおたまじゃくしの肉体の感じ、その肉体が覚えていることをくぐりぬけてしまうと、そこにはもう「人間」は必要がない。
 で、読み返したとき1連目の「子ども」を私はトノサマカエルの子どもと思ってしまったのだ。そしてさらに楽しくなったのだ。

 でも、トノサマカエルの子ども(といっても、おたまじゃくしではなく、カエルになって成長したちびカエル)は、なぜ、おたまじゃくしなんか掬ってくる?
 なぜ? それが問題。

独り身のやせカエル
(心配だった)

 そうなんです。子どものカエルはお父さん(たぶん)が「独り身」でやせていることが心配だった。自分を育ててくれるお父さんが、やせていて、独り身であるということが心配だった。子どもはきっとオスだね。
 だから、おたまじゃくしを掬ってきた。おたまじゃくしがおとなになって、お母さんになって、お父さんと結婚して(あ、順序が逆か)、子どもがたくさん生まれて、賑やかになればいいなあ、そう思ったのだ。
 そんな非論理的な、童話みたいなことがあるはずがない--のだけれど、私はどうしてもそう読んでしまう。「誤読」してしまう。
 「独り身のやせ蛙」という感想が安田(人間)のものだとしても、そんなふうに人間以外のものに対して、それが人間であるかのように感想を持ったときから、安田の「肉体」はカエルになっている。カエルの「肉体」を共有している。
 だからこそ、そのカエルの「肉体」が、そのままおたまじゃくしの肉体ともつながり、おたまじゃくしの肉体とつながることで、トノサマカエルの「肉体」が金魚におしりをつつかれたこと(覚えていること)を思い出すのだ。
 それは

ふふふふふ

 としかいいようのない、おかしみである。

 もうすぐ春だ。おたまじゃくしが金魚におしりをつつかれているのを見ながら「ふふふふふ」と笑ってみたいなあ、と思う。そのとき私はトノサマカエル? それとも笑われるおたまじゃくし?



外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
梅田 智江/谷内 修三
書肆侃侃房
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クエンティン・タランティーノ監督「ジャンゴ 繋がれざる者」(★★★)

2013-03-03 20:57:21 | 映画
監督 クエンティン・タランティーノ 出演 クリストフ・ヴァルツ、ジェイミー・フォックス、レオナルド・ディカプリオ、サミュエル・L・ジャクソン

 クリストフ・ヴァルツがとてもいい。こんなものはどうせ映画、という感じで楽に演じている。狂言回しという役どころだから、この感じがとってもいい。
 前にアカデミー賞をとった、なんだっけ、ドイツ人将校のときもそうだったけれど、その人物に没入してしまわない。あくまで演じる。演じながら、「本人」を見せる。
 まあ、その見せている「本人」も演じられているものかもしれないけれど。
 役者というのは、そこで演じられている「人物」そのものであるとき、その演技を名演ということが多いのだけれど(まだ見ていないけれど、「リンカーン」のダニエル・デイ・ルイスがその代表例だね。スクリーンをとおして見るのはあくまで「リンカーン」であってダニエル・デイ・ルイスではない、というときに、「名演」と呼ばれる。だから……「ヒッチコック」では主演がメークでそっくりさんをやるね。うーん、悪趣味)、私はそういうのは好きじゃないなあ。
 その「人物」を演じるふりをして、自分を見せる。そういう役者が好きだなあ。
 役者というのは、そこで演じられている人物の「過去」をもってスクリーンにあらわれないといけない。(舞台では、もっとその要求の度合いが強くなる。)役者がもちこむ「過去」を存在感というのだけれど(私の定義では)、その「存在感」が「役」を突き破って動くとき、なんとも楽しい。「役」にしばられずに、のびのびした感じになる。
 代表的なのが「ローマの休日」のヘップバーン。だれもどこかの国の王女なんて感じでヘップバーンを見ていない。若くて輝きに満ちたおてんば(?)な少女はこんなに美しいのか、とそれだけの感じで見ている。ストーリーは付録だね。ここまでいくと、完璧にスター。役者じゃなくてね。
 クリストフ・ヴァルツにも、何か、そういう匂いがある。ストーリーを突き破っていく「なま」な感じがある。
 賞金稼ぎで、金のためなら子どもの前でも人を殺すということに対して平気なのだけれど、その一方で「奴隷制度」には反対だし、黒人差別にはもちろん反対。そういう奇妙な役を演じていて……。途中、ジャンゴの妻の話を聞き、ジークフリートの神話を思い出し、急に、その神話のなかの「ドイツ精神(?)」に触れて、一気に純粋になる。--まあ、このストーリーはクリストフ・ヴァルツにあわせて作り上げたものなのかもしれないけれど、その部分で、「役」でありながら、「役」を超えて、ドイツ人の「神話」の顔がいきいきと出てくる。遠く離れて座っていたクリストフ・ヴァルツがジェイミー・フォックスに近づいてきて、話をつづける。そのときの表情なんかが、「西部劇」を完全に超越する。「奴隷制度」も超越する。あ、この人は、こういう「物語」を生きているんだ。つまり、こうい「過去」をもっているんだ、ということが、なんというのだろう、ストーリーの「説明」であることを超えて動きだす。
 これがあるから、ディカプリオと会ってからのクライマックスの急展開に説得力がある。ひとりの人間としてディカプリオのようなアメリカ人が嫌い、というのではなく、ドイツ魂としてアメリカ人の根性が嫌い、という感じで感情が爆発する。その爆発が「きれいごと」じゃなくて、ドイツ魂として噴出する。これは、ほかの役者じゃできないねえ。
 目がいいのかもしれないなあ。「目はこころの窓」という言い方があるが、クリストフ・ヴァルツは、演技をしながらも、目だけは「ほんもの」のクリストフ・ヴァルツを出しているのかもしれない。何か、引き込まれる。だから、この映画のように、まるで「マンガ」みたいに誇張した動きをしても、それが美しい。
 レオナルド・ディカプリオは黒人奴隷同士を死ぬまで戦わせて、片一方が死んだとき、つまり自分のもっている奴隷が勝ったときの無邪気なよろこびの爆発などの演技は、「ほんもの」が出てきておもしろいけれど、クリストフ・ヴァルツの「目的」を見抜いてからの、「悪人」の演技がだめだね。「ほんもの」が出てこない。あそこで、クリストフ・ヴァルツみたいに、残酷さを「ほんもの」として出せるといいんだけれどなあ。だれでもがもっているピュアな残酷さ、狡猾さというものが出ると、サミュエル・L・ジャクソンを「右腕」として離せない根拠のようなものが浮かびあがり、映画が濃密になるんだけれどなあ。
 でも、まあ、これは「お遊び」映画だから、そういうことはどうでもいいのか。いや、「お遊び」映画だからこそ、そういうところが大切なんだと思う。クエンティン・タランティーノも馬鹿な奴隷運搬人を演じて遊ぶだけではなく、もうちょっと、役者にも「遊び」の演技の大切さを教えないとね。レオナルド・ディカプリオとクリストフ・ヴァルツの後半の演技にディカプリオ「なま」が出てくると、この映画は傑作になる。いや、それが「なま」でなくてもいいのだけれど、えっ、ディカプリオって「ほんとう」はこうだった?と錯覚させてくれる「なま」が出てくるとうれしいんだけれどなあ。
 サミュエル・L・ジャクソンなんか、「ほんもの」はどうかしらないけれど、そうか、これが「ほんもの」かと思わせるところがあって、やっぱりぐいとひっぱられる一瞬がある。いや、ほんとう、ディカプリオが、この映画の「疵」だね。私はディカプリオが大好きだけれど、そう書かずにはいられない。
                        (2013年03月03日、天神東宝1)




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