詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

広瀬弓「でいがん」

2013-03-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
広瀬弓「でいがん」(「ゆんで」6、2013年03月発行)

 広瀬弓「でいがん」は、きのう読んだヤン・エーリク・ヴォル/谷川俊太郎「階段の階段以前/単なる事実」をひとりで書いているようなところがある。

岩場の影にふたり腰を下ろした
いつの間にか拾った泥岩を
その人はふたつに割って
断面を開いて見せた

むりやり押し開かれた
乾いた灰色の内部は
湿り気のある深い色から
奥のつややかな紅色につづいて
その先の宇宙につづいていた
見られている
わたしは目をそらした

暗いところから現れた
秘め色に指を触れず
関東ロームや
集めた石器のことを話ながら
その人は少し笑った

泥眼という能面は
嫉妬する女や女菩薩の面だ
眼に金泥がうすく塗ってある

 「でいがん」は「泥岩」であり「泥眼」である。ふたつの違ったものがひとつの音のなかでぶつかり、それが衝突ではなく「遠心・求心」に見える。感じられる。おもわず、あ、これはいいなあ。いい詩だなあ、と思い、読み返してしまう。何度でも。そういう詩である。
 で、なぜそんなにいいのかなあと、もう一度読み返してみると、この「泥岩」と「泥眼」が、単なることばの出会いではなく、つまり「頭」でつくられた出会いではなく、そのことばが広瀬の肉体をちゃんとくぐっているからだということがわかる。
 泥岩を「ふたつに割って/断面を開いて見せる」。その「ふたつに割って」は「むりやり押し開かれた」と言いなおされる。「割る」から「割られる」への立場の移行があって、そのとき「わたし」は「割られ/開かれた」立場で泥岩の「断面」を見ている。「割った」人の立場とは違ったところ、逆のベクトルから見ている。「割る/割られる(開かれる)」の往復運動(遠心・求心の結合)から、「宇宙」を感じる。それは「見える」のではなく、むしろ「わたし(広瀬)」の肉体の感じである。
 「遠心・求心」が結合しているからこそ、そこでは「見る/見られる」の区別もあいまいになる。なくなる。見ているはずなのに「見られている」と感じてしまう。だれに? 泥岩に? いや、同時に「自分自身」からも見られている。
 見てしまった瞬間、その見たものを「肉体」が共有し、見たものに自分の「肉体」を共有され、見たものに共有された「わたしの肉体」から「わたし」が見られている。そこには遠心・求心の結合があり、それを切断・分離して整理することはできない。
 「暗いところから現れた」のは「地学」だけではない。広瀬の女の「肉体」も現れたのである。自分自身が目をそらしていた女の「肉体の地学」。「宇宙」とつながる(つづいている)「肉体の地学」。「肉体の天文学」。
 「割る」「開く」「湿り気」「つややか」「暗い」「秘め色」「触れる(ず)」--それはどれもこれも「肉体の宇宙・肉体の地学」である。女の宇宙、女の地学である。
 そういうことばが肉体が「覚えていること」をかき混ぜる。そして噴出させる。そして、そこに「泥眼」が、結晶のようにしてあらわれる。いや、「泥眼」がいままで肉体がくぐってきたものを、「嫉妬」「菩薩」ということばに結晶させるのか。両方である。それが「遠心・求心」である。区別がない。

 この詩には、引用部分のあとに、もう1連ある。1行だけの1連である。
 その最後の1行はいらないかもしれない。もし必要だとしても、この1行ではないと思う。それまでの、ぶつかって、ぶつかって、見抜いて見抜いて、やっとつかみとったということばの強さ、肉体と直結したことばの強さが最後の1行には欠けている。それをそのまま引用すると、この作品の強さが半減すると思った。
 それで、あえて引用しなかった。




水を撒くティルル
広瀬 弓
思潮社
コメント
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