高階杞一「耳をすませて」、金井雄二「姿と形」(「交野が原」74、2013年04月01日発行)
きのう変な「悪態」をついたので、どうやら「耳がすんできた」。ふつうなら聞き逃してしまう「音」が聞こえるようになった。「悪態」の効能だね。
で、聞こえてきたというの高階杞一「耳をすませて」。私はこのひとの「微妙軽い」調子があまり好きではない。ひょうきんに軽いのではなく、少しさみしさを抱え込みながら、軽い。悲しみ(喪失感)こんな具合にしゃれたことが言えますよ、いう感じが、なんだか「気取り」に思える。私は「気取る」ということがめんどうくさくて、そういうものをまねする気持ちになれないから、嫌いといってしまうのかもしれない。でも、きのう、こんな詩は大嫌いと書いたので、いつもなら嫌いと書いてしまう詩まで「嫌い」という場所から動いてしまったのかなあ。好きと感じてしまった。いつもは感じないことを感じた。
あ、でも、もしかしたら、ほんとうにいい詩てのかも。その「耳をすませて」の全行。
「春といっしょに消えてしまったもの」とは、詩の中の「意味」としては「鶯」と言い換えることができる。空を見つめて鶯が飛んでいないかなあ。
でも、これはほんとうではない。
鶯が鶯であるとわかるのは、「野鳥の会」の会員でない限り、たぶん、木の枝に止まって「ホーホケキョ」と鳴いている姿を見たときである。飛びながら「ホーホケキョ」なんて鳴くのは私は見たことがないので、たぶん空を飛んでいる鶯を見ても、それが鶯であると私なんかは気が付かない。木の枝から飛び立つのを見ていれば、空の鳥も鶯とわかるだろうけれど……。
では、消えて行ってしまったものとは何か。高階は「もの」と書くだけで、鶯ということばをつかわずに巧妙に言っているが(この巧妙さのなかにも「軽み」の処理、具体的なことをさけて抽象的にすることで視線を固定しないという操作がある)、その「もの」とは何か。
「もの」ではなく、私は、それを「こと」と言い換えて読む。「誤読」することで高階に近づく。
消えた「もの」とは、1連目に書かれている「こと」。
鶯の声を聞いたこと。「ホー ケキョン」と鳴いた声に、生まれたばかりの鶯の声だと想像した「こと」。日がたつにつれて、だんだんうまくなっていくと思った「こと」。そういう「こと」を積み重ねているうちに、春がすぎていくという「こと」。
そういうものをさがすとき、「耳をすます」のはなぜだろう。
高階は鶯の声をさがすふりをして、実は、自分自身の「声」を聞いている。その声は、春には鶯が鳴いた、と言っている。それから最初はへたな鳴き声だったが、だんだん上手になったと言っている。耳を澄ますと、耳という肉体が覚えている「こと」が聞こえてくる。それは「聞こえてくる」だけではなく、「聞く」という動詞といっしょに動いたものをもつれてくる。「いい声だな/と思って聴いているうちに」。「思う」というのは「こころ」の働きであるか、「頭」の働きであるか、私は判断せずに、「聞く」という動詞といっしょに動いていたので、「肉・耳(肉体)」の働きだと思って読む。言い換えると、私は、その行を読むとき高階が「どう思ったか」ではなく、そう思っている高階の「肉体」そのものを、そこに感じている。高階の「肉体」に重なるようにして動きはじめている私の「肉体」を感じる。
で、そういう「肉体」が「耳をすます」という動詞のなかで、「いま/過去」の時間を超えて、「ある」。その「肉体」が実感できる。とても静かな、落ち着いた気持ちになる。
「生まれたばかりの鶯」は「ホー」とも「ケキョン」とも鳴きませんという「悪態」をつきたかったのだが、きのう南原の「悪態」という詩に対して悪態をついたので、きょうはこんな感想になった。
*
金井雄二「姿と形」は列車への飛び込み自殺のことを想像している。
「カアンカン カアンカン/ランプの赤が交互にさみしいぞ」がとても美しい。踏み切りの警報機も信号も何度となく見てきているが、金井が書いているように見てきたことがない。金井のことばを読むと、しかし、それはそんなふうにしか感じられなくなる。読んだ瞬間、それしかない、という感じで迫ってくる。警報機の音、信号の赤が聞こえ、見えるだけではなく、その瞬間に、そこにいる金井の「肉体」そのものが見える。金井の「肉体」がそこに「ある」。それが「こと」ということ。
その「肉体」のなかで「灯と音」がずれはじめる。あ、肉体が、灯と音をひとつにしていた「肉体」が、耳と目に分離していく。危ない。危ないなあ。
そんな危なさが、しんしんと迫ってくる。
18日に書いた「子どもが見た怖い夢」の「怖い」を、ふと、思い出した。「怖い」を見たがっている金井がどこかにいる、と感じた。
きのう変な「悪態」をついたので、どうやら「耳がすんできた」。ふつうなら聞き逃してしまう「音」が聞こえるようになった。「悪態」の効能だね。
で、聞こえてきたというの高階杞一「耳をすませて」。私はこのひとの「微妙軽い」調子があまり好きではない。ひょうきんに軽いのではなく、少しさみしさを抱え込みながら、軽い。悲しみ(喪失感)こんな具合にしゃれたことが言えますよ、いう感じが、なんだか「気取り」に思える。私は「気取る」ということがめんどうくさくて、そういうものをまねする気持ちになれないから、嫌いといってしまうのかもしれない。でも、きのう、こんな詩は大嫌いと書いたので、いつもなら嫌いと書いてしまう詩まで「嫌い」という場所から動いてしまったのかなあ。好きと感じてしまった。いつもは感じないことを感じた。
あ、でも、もしかしたら、ほんとうにいい詩てのかも。その「耳をすませて」の全行。
春になると
どこからか鴬の声が聞こえてきます
生まれたばかりの鶯なのでしょうか
最初は
あまりうまくありません
ホー と鳴いて
ケキョン とこけたりしています
それが日がたつにつれ
少しずつうまくなっていきます
いい声だな
と思って聴いているうちに
春は
すぎていきます
昨日まであんなにきれいな声で鳴いていた
あの鶯は
どこへ行ってしまったのでしょう
庭に出て
晴れた空をさがします
春といっしょに消えてしまったものを
わたしは
耳をすませてさがします
「春といっしょに消えてしまったもの」とは、詩の中の「意味」としては「鶯」と言い換えることができる。空を見つめて鶯が飛んでいないかなあ。
でも、これはほんとうではない。
鶯が鶯であるとわかるのは、「野鳥の会」の会員でない限り、たぶん、木の枝に止まって「ホーホケキョ」と鳴いている姿を見たときである。飛びながら「ホーホケキョ」なんて鳴くのは私は見たことがないので、たぶん空を飛んでいる鶯を見ても、それが鶯であると私なんかは気が付かない。木の枝から飛び立つのを見ていれば、空の鳥も鶯とわかるだろうけれど……。
では、消えて行ってしまったものとは何か。高階は「もの」と書くだけで、鶯ということばをつかわずに巧妙に言っているが(この巧妙さのなかにも「軽み」の処理、具体的なことをさけて抽象的にすることで視線を固定しないという操作がある)、その「もの」とは何か。
「もの」ではなく、私は、それを「こと」と言い換えて読む。「誤読」することで高階に近づく。
消えた「もの」とは、1連目に書かれている「こと」。
鶯の声を聞いたこと。「ホー ケキョン」と鳴いた声に、生まれたばかりの鶯の声だと想像した「こと」。日がたつにつれて、だんだんうまくなっていくと思った「こと」。そういう「こと」を積み重ねているうちに、春がすぎていくという「こと」。
そういうものをさがすとき、「耳をすます」のはなぜだろう。
高階は鶯の声をさがすふりをして、実は、自分自身の「声」を聞いている。その声は、春には鶯が鳴いた、と言っている。それから最初はへたな鳴き声だったが、だんだん上手になったと言っている。耳を澄ますと、耳という肉体が覚えている「こと」が聞こえてくる。それは「聞こえてくる」だけではなく、「聞く」という動詞といっしょに動いたものをもつれてくる。「いい声だな/と思って聴いているうちに」。「思う」というのは「こころ」の働きであるか、「頭」の働きであるか、私は判断せずに、「聞く」という動詞といっしょに動いていたので、「肉・耳(肉体)」の働きだと思って読む。言い換えると、私は、その行を読むとき高階が「どう思ったか」ではなく、そう思っている高階の「肉体」そのものを、そこに感じている。高階の「肉体」に重なるようにして動きはじめている私の「肉体」を感じる。
で、そういう「肉体」が「耳をすます」という動詞のなかで、「いま/過去」の時間を超えて、「ある」。その「肉体」が実感できる。とても静かな、落ち着いた気持ちになる。
「生まれたばかりの鶯」は「ホー」とも「ケキョン」とも鳴きませんという「悪態」をつきたかったのだが、きのう南原の「悪態」という詩に対して悪態をついたので、きょうはこんな感想になった。
*
金井雄二「姿と形」は列車への飛び込み自殺のことを想像している。
警報機がなっている
ゆっくりと竿が降りる
まだ飛び出すには早い
目の前に電車が迫るときの
恐怖はどんなものか
カアンカン カアンカン
ランプの赤が交互にさみしいぞ
最初はリズムがよく合っていた
警報機の灯と音が
少しずつ微妙にズレはじめる
「カアンカン カアンカン/ランプの赤が交互にさみしいぞ」がとても美しい。踏み切りの警報機も信号も何度となく見てきているが、金井が書いているように見てきたことがない。金井のことばを読むと、しかし、それはそんなふうにしか感じられなくなる。読んだ瞬間、それしかない、という感じで迫ってくる。警報機の音、信号の赤が聞こえ、見えるだけではなく、その瞬間に、そこにいる金井の「肉体」そのものが見える。金井の「肉体」がそこに「ある」。それが「こと」ということ。
その「肉体」のなかで「灯と音」がずれはじめる。あ、肉体が、灯と音をひとつにしていた「肉体」が、耳と目に分離していく。危ない。危ないなあ。
そんな危なさが、しんしんと迫ってくる。
18日に書いた「子どもが見た怖い夢」の「怖い」を、ふと、思い出した。「怖い」を見たがっている金井がどこかにいる、と感じた。
星に唄おう | |
高階 杞一 | |
思潮社 |
ゆっくりとわたし | |
金井 雄二 | |
思潮社 |