南原充士『にげかすもきど』(洪水企画、2013年04月01日発行)
南原充士『にげかすもきど』は変なタイトルだが、種明かしをすると「日月火水木金土」の曜日の頭をならべたものである。これに谷川俊太郎の帯「文字であるとともに声である詩、音韻の遊びが現代詩にひそむ笑いを誘い出す。」がついている。もう、読まなくても、そこに書かれている「こと」がわかる。
ことば遊び、音遊びの詩である。
でも、詩は、そんなふうに定義してしまえばおしまいというものではないのだから、と身を入れなおして読んでみた。
「にんべん拾って」はおもしろいけれど(そんなものを拾えないのに、拾うといっているから、そこにナンセンス「無意味」があっておもしろいけれど)、あとはおもしろくない。「にんいの場所」「にんいの時間」と「にんい」が二回出てくるのもおもくしろくない。一回目と二回目で「意味」が違ってくればおもしろいかもしれないけれど。
「にこにこ 日曜」という書き出しが平凡なのは、それはそれでとっつきやすくていいけれど、「にこにこ」が「にっこり笑い」に変わるだけで1行目が2行目になるなんて。あ、ずさんだなあ。おもしろくないなあ。音もそっくりなら、「意味」もそっくり。想像力を裏切るものがなにもない。
きのう読んだ小長谷の「熟慮に熟慮を無意味に重ね」の1行の方が何度でも声に出して読みたいことばである。そこには「音楽」がある。
音韻は、とてもむずかしいのだ。
それは見た目の「音」をそろえれば、音韻になるわけではない、という問題を含んでいる。「文字」で遊んでみても、それが「声」の遊びにはならない。「文字」は目のなかにあるだけで、喉を刺戟しない。「文字」を超えて、「音」がことばの内部から噴出して来ないと、楽しくない。
「音」が「意味」から自由になっていない。そこには「音」がなく「意味」がある。「意味」があるとき、そこには「遊び」はない。遊びは「無意味」なものである。「意味」を拒絶し、叩き壊すものである。
「意味」にとらわれているだけではなく、その「意味」も「流通言語の意味」なのだ。「流通言語の意味」が繰り返されるだけである。
詩集のタイトルの『にげかすもきど』からして「無意味」ではなく「日月火水木金土」ということばの頭の一文字をつらねたもの。「意味」が隠れている。というより、「意味」がないと存在しない。存在することができない。にげだす「おと」もどき、なのである。
笑える行がどこにもない。「無意味」とは「笑い」でもあるのだが、ここにあるのは「意味」という苦しみだけである。ワープロの「誤変換」さえ、もう少し笑えるのではないだろうか。
「頭」ではなく、「肉体」でことばを動かさないと、頭でっかちの「意図」だけがのさばる窮屈な詩になる。
「悪態」という作品にも、私はぞっとした。
きっと悪態をついたことがないのだろう。「くそっ」さえ南原は腹の底から言ったことがないのだろう。で、そういう自分自身に「はらわたが煮えくり返る」のかもしれない。そういうひとは悪態をつかなければいいのである。自分の頭のなかだけで完結する悪態だから、「頭から湯気が出て髪の毛が逆立つ」という「流通言語」に終わってしまう。「これ以上血圧をあげると爆発しそうだ」とばかげた自己反省などせずに、「頭」ではなく、腹を、肉体の中心を「爆発」させてしまうのが悪態。「おまえのかあちゃんでべそ」と見たこともないでたらめを言う、その「開放感(爆発)」がよろこび。言い返すことばがみつからずにうろたえる相手に、さらに追い打ちをかけて無意味な優越感にしたるのが悪態のおもしろさ。
まず、自分自身に悪態をつく練習をもっとしないとね。悪態がつけなくて寂しい、なんてばかげた詩を読んで同情(共感?)なんかしているひまな人がどこにいるだろう。こんな悪態もあったのか、いつかまねしてつかってやるぞ、と思わせるのが悪態であり、詩というものなのだ。金玉を芋の煮っ転がしにして食われてしまった男の泣き言は、ゆがいた残り湯より役立たず。庭に捨てれば植木も枯れてしまう。てめえで飲んで、腹をぽちゃぽちゃ膨れさせていろ。お、きれいな音で泣けるじゃないか。
南原充士『にげかすもきど』は変なタイトルだが、種明かしをすると「日月火水木金土」の曜日の頭をならべたものである。これに谷川俊太郎の帯「文字であるとともに声である詩、音韻の遊びが現代詩にひそむ笑いを誘い出す。」がついている。もう、読まなくても、そこに書かれている「こと」がわかる。
ことば遊び、音遊びの詩である。
でも、詩は、そんなふうに定義してしまえばおしまいというものではないのだから、と身を入れなおして読んでみた。
日曜日
にこにこ 日曜
にっこり笑い
にたてのお湯で
にんずうぶんの
にがめのコーヒー
にはいも飲んで
にたりよったり
にもつを持って
にちぼつまでを
にしへひがしへ
にんいの場所で
にくしみを捨て
にんいの時間
にんたいもせず
にんべん拾って
にっかを終える
「にんべん拾って」はおもしろいけれど(そんなものを拾えないのに、拾うといっているから、そこにナンセンス「無意味」があっておもしろいけれど)、あとはおもしろくない。「にんいの場所」「にんいの時間」と「にんい」が二回出てくるのもおもくしろくない。一回目と二回目で「意味」が違ってくればおもしろいかもしれないけれど。
「にこにこ 日曜」という書き出しが平凡なのは、それはそれでとっつきやすくていいけれど、「にこにこ」が「にっこり笑い」に変わるだけで1行目が2行目になるなんて。あ、ずさんだなあ。おもしろくないなあ。音もそっくりなら、「意味」もそっくり。想像力を裏切るものがなにもない。
きのう読んだ小長谷の「熟慮に熟慮を無意味に重ね」の1行の方が何度でも声に出して読みたいことばである。そこには「音楽」がある。
音韻は、とてもむずかしいのだ。
それは見た目の「音」をそろえれば、音韻になるわけではない、という問題を含んでいる。「文字」で遊んでみても、それが「声」の遊びにはならない。「文字」は目のなかにあるだけで、喉を刺戟しない。「文字」を超えて、「音」がことばの内部から噴出して来ないと、楽しくない。
げっそり 月曜
元気がないよ
げんなり気分で
かっかっ 火曜日
かりかりするよ
借りたお金を返さない
「音」が「意味」から自由になっていない。そこには「音」がなく「意味」がある。「意味」があるとき、そこには「遊び」はない。遊びは「無意味」なものである。「意味」を拒絶し、叩き壊すものである。
すいすい 水曜
すんなり行って
「意味」にとらわれているだけではなく、その「意味」も「流通言語の意味」なのだ。「流通言語の意味」が繰り返されるだけである。
詩集のタイトルの『にげかすもきど』からして「無意味」ではなく「日月火水木金土」ということばの頭の一文字をつらねたもの。「意味」が隠れている。というより、「意味」がないと存在しない。存在することができない。にげだす「おと」もどき、なのである。
精巧なロボット製作に成功
血管も欠陥もない機能は昨日から
地上の痴情を探り回って
人手の必らない桎梏をしつこく
装填する蒼天の下
勘定になかった感情の発生
隙だらけが好きだよお
(隙だらけ)
笑える行がどこにもない。「無意味」とは「笑い」でもあるのだが、ここにあるのは「意味」という苦しみだけである。ワープロの「誤変換」さえ、もう少し笑えるのではないだろうか。
「頭」ではなく、「肉体」でことばを動かさないと、頭でっかちの「意図」だけがのさばる窮屈な詩になる。
「悪態」という作品にも、私はぞっとした。
下品なのはきらいだが
たまには悪態をつきたくなる
くそっ
それからはらわたが煮えくり返る
くそーっ
ついに頭から湯気が出て髪の毛が逆立つ
これ以上血圧をあげると爆発しそうだ
きっと悪態をついたことがないのだろう。「くそっ」さえ南原は腹の底から言ったことがないのだろう。で、そういう自分自身に「はらわたが煮えくり返る」のかもしれない。そういうひとは悪態をつかなければいいのである。自分の頭のなかだけで完結する悪態だから、「頭から湯気が出て髪の毛が逆立つ」という「流通言語」に終わってしまう。「これ以上血圧をあげると爆発しそうだ」とばかげた自己反省などせずに、「頭」ではなく、腹を、肉体の中心を「爆発」させてしまうのが悪態。「おまえのかあちゃんでべそ」と見たこともないでたらめを言う、その「開放感(爆発)」がよろこび。言い返すことばがみつからずにうろたえる相手に、さらに追い打ちをかけて無意味な優越感にしたるのが悪態のおもしろさ。
くそ
くっ
くぅ
自動ガス抜き装置が作動したのか
見る見るしぼんでいく風船みたいに
悪態がしおれていく
もっと品が悪い態度をとれ
やじり倒せ
殴り倒せ
まず、自分自身に悪態をつく練習をもっとしないとね。悪態がつけなくて寂しい、なんてばかげた詩を読んで同情(共感?)なんかしているひまな人がどこにいるだろう。こんな悪態もあったのか、いつかまねしてつかってやるぞ、と思わせるのが悪態であり、詩というものなのだ。金玉を芋の煮っ転がしにして食われてしまった男の泣き言は、ゆがいた残り湯より役立たず。庭に捨てれば植木も枯れてしまう。てめえで飲んで、腹をぽちゃぽちゃ膨れさせていろ。お、きれいな音で泣けるじゃないか。
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