詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

南原充士『にげかすもきど』

2013-03-20 23:59:59 | 詩集
南原充士『にげかすもきど』(洪水企画、2013年04月01日発行)

 南原充士『にげかすもきど』は変なタイトルだが、種明かしをすると「日月火水木金土」の曜日の頭をならべたものである。これに谷川俊太郎の帯「文字であるとともに声である詩、音韻の遊びが現代詩にひそむ笑いを誘い出す。」がついている。もう、読まなくても、そこに書かれている「こと」がわかる。
 ことば遊び、音遊びの詩である。
 でも、詩は、そんなふうに定義してしまえばおしまいというものではないのだから、と身を入れなおして読んでみた。

 日曜日

にこにこ 日曜
にっこり笑い
にたてのお湯で
にんずうぶんの
にがめのコーヒー
にはいも飲んで
にたりよったり
にもつを持って
にちぼつまでを
にしへひがしへ
にんいの場所で
にくしみを捨て
にんいの時間
にんたいもせず
にんべん拾って
にっかを終える

 「にんべん拾って」はおもしろいけれど(そんなものを拾えないのに、拾うといっているから、そこにナンセンス「無意味」があっておもしろいけれど)、あとはおもしろくない。「にんいの場所」「にんいの時間」と「にんい」が二回出てくるのもおもくしろくない。一回目と二回目で「意味」が違ってくればおもしろいかもしれないけれど。
 「にこにこ 日曜」という書き出しが平凡なのは、それはそれでとっつきやすくていいけれど、「にこにこ」が「にっこり笑い」に変わるだけで1行目が2行目になるなんて。あ、ずさんだなあ。おもしろくないなあ。音もそっくりなら、「意味」もそっくり。想像力を裏切るものがなにもない。
 きのう読んだ小長谷の「熟慮に熟慮を無意味に重ね」の1行の方が何度でも声に出して読みたいことばである。そこには「音楽」がある。
 音韻は、とてもむずかしいのだ。
 それは見た目の「音」をそろえれば、音韻になるわけではない、という問題を含んでいる。「文字」で遊んでみても、それが「声」の遊びにはならない。「文字」は目のなかにあるだけで、喉を刺戟しない。「文字」を超えて、「音」がことばの内部から噴出して来ないと、楽しくない。

げっそり 月曜
元気がないよ
げんなり気分で

かっかっ 火曜日
かりかりするよ
借りたお金を返さない

 「音」が「意味」から自由になっていない。そこには「音」がなく「意味」がある。「意味」があるとき、そこには「遊び」はない。遊びは「無意味」なものである。「意味」を拒絶し、叩き壊すものである。

すいすい 水曜
すんなり行って

 「意味」にとらわれているだけではなく、その「意味」も「流通言語の意味」なのだ。「流通言語の意味」が繰り返されるだけである。
 詩集のタイトルの『にげかすもきど』からして「無意味」ではなく「日月火水木金土」ということばの頭の一文字をつらねたもの。「意味」が隠れている。というより、「意味」がないと存在しない。存在することができない。にげだす「おと」もどき、なのである。

精巧なロボット製作に成功
血管も欠陥もない機能は昨日から
地上の痴情を探り回って
人手の必らない桎梏をしつこく
装填する蒼天の下
勘定になかった感情の発生
隙だらけが好きだよお
                                 (隙だらけ)

 笑える行がどこにもない。「無意味」とは「笑い」でもあるのだが、ここにあるのは「意味」という苦しみだけである。ワープロの「誤変換」さえ、もう少し笑えるのではないだろうか。
 「頭」ではなく、「肉体」でことばを動かさないと、頭でっかちの「意図」だけがのさばる窮屈な詩になる。

 「悪態」という作品にも、私はぞっとした。

下品なのはきらいだが
たまには悪態をつきたくなる
くそっ
それからはらわたが煮えくり返る
くそーっ
ついに頭から湯気が出て髪の毛が逆立つ
これ以上血圧をあげると爆発しそうだ

 きっと悪態をついたことがないのだろう。「くそっ」さえ南原は腹の底から言ったことがないのだろう。で、そういう自分自身に「はらわたが煮えくり返る」のかもしれない。そういうひとは悪態をつかなければいいのである。自分の頭のなかだけで完結する悪態だから、「頭から湯気が出て髪の毛が逆立つ」という「流通言語」に終わってしまう。「これ以上血圧をあげると爆発しそうだ」とばかげた自己反省などせずに、「頭」ではなく、腹を、肉体の中心を「爆発」させてしまうのが悪態。「おまえのかあちゃんでべそ」と見たこともないでたらめを言う、その「開放感(爆発)」がよろこび。言い返すことばがみつからずにうろたえる相手に、さらに追い打ちをかけて無意味な優越感にしたるのが悪態のおもしろさ。

くそ
くっ
くぅ

自動ガス抜き装置が作動したのか
見る見るしぼんでいく風船みたいに
悪態がしおれていく
もっと品が悪い態度をとれ
やじり倒せ
殴り倒せ

 まず、自分自身に悪態をつく練習をもっとしないとね。悪態がつけなくて寂しい、なんてばかげた詩を読んで同情(共感?)なんかしているひまな人がどこにいるだろう。こんな悪態もあったのか、いつかまねしてつかってやるぞ、と思わせるのが悪態であり、詩というものなのだ。金玉を芋の煮っ転がしにして食われてしまった男の泣き言は、ゆがいた残り湯より役立たず。庭に捨てれば植木も枯れてしまう。てめえで飲んで、腹をぽちゃぽちゃ膨れさせていろ。お、きれいな音で泣けるじゃないか。






タイムマシン幻想―南原充士詩集
南原充士
洪水企画
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若松孝二監督「千年の愉楽」(★)

2013-03-20 21:27:19 | 映画


監督 若松孝二 出演 寺島しのぶ、佐野史郎、高良健吾、高岡蒼佑、染谷将太

 タイトルの文字が出るまでがとてもいい。路地の階段を女が駆け上ってくる。カメラがその女を追いかけ、追い越し、フレームの枠は風景をとらえている。その端っこをさっきの女がかすめて駆け抜ける。頭の一部が映るだけで、全身は映らない。ただひしめき合う家(屋根)があり、その向こうには海がある。山がある。空気がある。土地こそが主役だと感じさせる。土地が人間を生かし、育てているという感じが伝わっててくる。あ、中上健次の世界だ……。
 その前の、山の、蒸気がむわーっと立ち上るシーンもいい。水分が群がって、また散っていく。山の緑は、そういうものを無視して(?)悠然とそこに存在している。随所に映される路地の風景、ひしめき合う家や階段、そして窓……。そういう風景も、とてもいい。土地の空気が生きている。
 でも。
 役者が芝居を始めると、とてもつまらなくなる。特に寝たきりの寺島しのぶと遺影の佐野史郎の「やりとり」がくだらない。ふたりの会話が映画の「枠組み」というか、ストーリーの「枠組み」を説明するのだが、おいおい、そういうことを「ことば(台詞)」で説明してしまったら映画にならないだろう。遺影の写真が動いて話すなんて、冗談にしたってばかげている。そういうふうに見えるのは寺島しのぶにだけ起きることがらであって、観客は関係ないだろ? ひどい。しらけてしまう。
 もし、物語の構造をことばで説明する必要があるならナレーションにしてしまえばいいのである。映画のなかで、三味線にあわせて歌が流れるが、あの歌をナレーションにしてしまえばいいのである。繰り返し繰り返し同じ旋律が揺れ動き、それにあわせてことばが少しずつかわる、というふうにすれば、どれだけ中上健次の世界に近づけただろうか、とそこは残念で仕方がない。ことばの奥を流れる声の旋律、自然に生まれてくる音楽--ことばを超えるもの、肉体の奥にある響きこそ純粋で美しいという中上の思想(哲学/肉体)が鮮明になる。その方がもっと早撮りできるだろうとも思う。(夜の海辺のシーンで、海鳥が飛んでいたが、あれは日中撮影して、色のトーンをかえた、いわゆる「アメリカの夜」という早撮りの手法であろう。)くだらない「枠組み」を撮影せずに、もっとほかの部分を丁寧に描くべきだったのだ。
 だいたい、寝たきりの寺島しのぶがときどき手を合わせて登場人物を紹介するのだが、それって「ことば」を聞いていない限り、高良健吾、高岡蒼佑、染谷将太の区別がない。これじゃあ、映画ではない。だれそれはこうだった、などと説明しなくても、そこに役者が出てくるだけで、お互いの関係がわかるのが映画(あるいは芝居)というものだろう。3人の血の繋がりをことばで説明されたって、どうしようもない。「頭」で3人の関係を理解するのではなく、肉体が発するもので3人の共通性と、それとは逆の個別性をつたえないことには映画にならない。
 この映画には、肉体がないのである。肉体の内部を貫く輝かしいもの、共通の響き(音楽)が役者の肉体によって共有されていない。役者が出てくるが、役者の肉体は動いていないのである。寝たきりの寺島しのぶが動いていないように、遺影の佐野史郎が動いていないように、「主人公」の3人も動いていない。
 原作の、中上健次の、「千年の愉楽」のうねるような文体、主語と述語がねじれるようにして世界を押し広げていく文体が、まったく感じられない。こんな、放蕩を繰り返した一族がいた、彼らは美貌ゆえに女にもて、それゆえに不幸にもなったというようなことを中上は書いているわけではない。
 その残酷な「改悪」に輪をかけてひどいのが、高良健吾の山での芝居。あるいは染谷将太の薪割りの芝居。山の中で下草を刈ったり、斧で薪を割っている感じがまったく伝わって来ない。そういう仕事をしたことをないのはわかるが、したことがないならないで、ちゃんと「練習」しないと。体が芯から動いていない。単に「行為」をなぞっている。芝居の芝居をしているだけ。学芸会よりひどい。こんなへたくそな芝居をスクリーンに映すな。寺島しのぶが新生児を沐浴させるシーンは、寺島が演じているかどうかわからないが、手だけしか映していないところを見ると寺島ではないのかもしれない。それと同じように、吹き替えにしてしまえばいいのである。山仕事をしたことがないばかりか、山にさえ入ったことのない若い役者を山につれていっても、山の空気を呼吸し、それと一体になることさえできない。そんな役者を山につれていけば、山が「書き割り」になってしまう。ロケの意味がない。
 自分の肉体の中にある、何か分けのわからないものに突き動かされて動いてしまう若者の悲劇が神話にまで高められている小説が、まるで紙芝居。生き物の、野蛮というか、エネルギーが欠如したまま、ストーリーが簡便に語られるだけの、ほんとうにひどい映画である。ここまでひどいと、あ、小説を読み返して、中上の世界に浸りなおそうという気持ちにさえなれない。
                        (2013年03月21日、中州大洋2)

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コメント (2)
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