金井雄二「子どもが見た怖い夢」、廿楽順治「ギターの健」(「Down Beat 」2、2013年02月28日発行)
金井雄二の詩をつづけて読んだ。「独合点」と「Down Beat 」に書かれている。「独合点」の「家が燃える」は外出した後ガスストーブを消したかどうか気になる。そしてもどって確かめる。ついていないので安心してもう一度外出する。すると今度は鍵をかけてきたかどうか気になる--というようなことを、そのまま書いたものである。こういう「そのまま」を書きたい、というところにいま金井はいるのかもしれない。「Down Beat 」の「子どもが見た怖い夢」もまた「そのまま」を書こうとしているが、こっちの方が私にはおもしろかった。「わからない」部分があったので。
「わからない」のは6、7行目。「心の奥底にある/見たくないものを」というのは、誰の心の奥底にあり、誰が見たくないのか。これは、ことばの流れからいうと、子どもの心の奥底にあるもので、子どもが見たくないもの、と考えるのがふつうの読み方なのだろうけれど。
私はなぜか、そんなふうに読むことができないのである。
たとえ、子どもが、子どもの心の奥底にある見たくないもの、というものを考えていたとしても、その子どもの心の奥底を想像した瞬間、それは「私の心の奥底」「私が見たくないもの」になってしまう。こどもと私を切り離せない。
なぜかなあ。
たぶん、「心の奥底にある/見たくないもの」という表現のせいだなあ。「見たくないもの」って、「心の奥底」にある? いやあ、違うなあ。見たくないものは、私の外にある。それは、いつでも「私の外」にあって、「私の中」、つまり「心の奥底」にはない。
という言い方だと、違ってくるか。
うーん。
逆に考えてみようか。「心の奥底」って、自分の「肉体」とは別にあるもの? ちょっと考えられない。どうしても「自分の肉体」のなかにあるものを考えてしまう。「他人の心の奥底にある/見たくないもの」というものを、私は想像することができない。
「心の奥底」といった瞬間(聞いた瞬間)、私は私の心の奥底を思う。
つまり、その瞬間、「子ども」のことを忘れて、自分のことを思ってしまう。
「心の奥底」という表現には、何か自他の区別を消してしまう働きがある。
これはたぶん、金井にも、そのときに起きたことがらである。
というのも、詩は次のようにつづいていく。
金井は「子どもの心」を離れてしまって、自分のことを語りはじめる。ヨーグルトを食べるという現実のことではなくて……。
これは、金井の「思考」であって、「子どもの思考」じゃないね。子どもがそう語ったのではない。子どもは、子どもの頭の中を不穏な重みが支配しているとは言っていない。お父さんが口をあけて寝ているのが怖いといっただけである。そしてそれは「夢」だといったのであり、それが「現実」だと言ったのではない。
それなのに。
金井は、それを自分に引きつけて、夢のなかではすべて現実であると考えている。
言い換えると--というより、「飛躍」すると。
金井は、この詩のなかで、最初は子どもの心配をしている。「怖い夢を見たって、それはどんな夢」と子どもに問いかけている。それなのに、答えを聞いた瞬間から、子どものことをほうりだして、夢と現実、怖いというのはどういうことかを、自分の問題として考えている。
変でしょ? 奇妙でしょ? 子どものことを最後まで心配したら? というのは、まあ、よけいなお節介だけれど。
で。
なぜ、こういうことが起きたのか。それは、どこで起きたのか--というと、「心の奥底にある/見たくないものを」ということばが動いた瞬間なのだと思う。そう思った瞬間、子どもと金井の区別がなくなった。
どうして?
それが、私には「わからない」。それなのに、「わからない」を飛び越えて、「わかる」。そんなふうに飛躍してしまうのが人間なのだということが「わかる」。で、こんなふうに書いてしまったのだけれど。
ほんとうは「見たくない」ではなく、「見たい」のかもしれない。「見たい」という本能(欲望)があって、それが「見たくないもの」と言わせているのかもしれない。現実では「見えない」、だから夢で「見る」。夢で欲望を実現する。そしてそのとき実現しているのは「見たくないもの/見たいもの」という何か「区別」のあるものではなくて、もしかすると「怖い」ということをこそ望んでいるのかもしれない。
--そんなことは、書いてない。
書いてないから、私は「書いてある」と「誤読」する。
*
廿楽順治「ギターの健」。この人の詩の形は詩の行の尻が底にそろっていて、頭は凹凸があるという形なのだが、うまく表記できないので頭揃えで引用する。
廿楽のことばのなかには、何かしら金井が「心の奥底にある/見たくないもの」というようなものが、心の奥底と現実の境目を取り払って結託しているような部分がある。子どもの心か、自分の心か、その区別がなくなって自分に引きつけるように、廿楽は、他人の現実と自分の現実、他人の夢と自分の夢をメルトダウンさせて、ぐにゃりとした感じで現実に噴出させる。健さんのことばも、父親のことばも、そしてみんなが「泣く」ということさえも、「一体」になる。そういうことは、もちろん、あってはならないことなので、というか切り離してしまいたいことがらなので、(らしい)と、わざと「嘘だよ」と言ってみせたりする。でも、この(らしい)がまた奇妙に「冗談だよ(嘘だよ)」ともらす口調に似ていて、不思議な接着力となっている。
いやあ、うまいもんだねえ。
嘘とほんとうのみせ方--区別をつけながら、区別をつける、あ、逆かな。
で。
不満を言うと。
「歌」になりすぎていない? 最近は、ことばがとってもなめらかになり、廿楽の書いていることが「現実」というより「物語」になって、物語のなかで、その登場人物たちが「歌っている」という感じ--古今集や新古今集の歌みたいな、技巧的な感じがしてしまう。「うまいだろう」と節を聞かせているような感じといえばいいのかなあ。
これに比べると金井の詩は「歌」になっていない。へたくそだなあ(失礼)という感じがするのだが。
うーん、私はほんとうは(?)廿楽の詩の方が大好きなのに、書くなら廿楽のような詩を書いてみたいのに、何か比較をすると、金井の詩の方が、もう一回聞いてみたい(読んでみたい、読み直してみたい)という気になる。
不思議だ。
金井雄二の詩をつづけて読んだ。「独合点」と「Down Beat 」に書かれている。「独合点」の「家が燃える」は外出した後ガスストーブを消したかどうか気になる。そしてもどって確かめる。ついていないので安心してもう一度外出する。すると今度は鍵をかけてきたかどうか気になる--というようなことを、そのまま書いたものである。こういう「そのまま」を書きたい、というところにいま金井はいるのかもしれない。「Down Beat 」の「子どもが見た怖い夢」もまた「そのまま」を書こうとしているが、こっちの方が私にはおもしろかった。「わからない」部分があったので。
怖い夢をみたという
どんな夢だったのとたずねると
お父さんが口をあけて寝ている夢だという
そんな夢
何も怖くはないと思うのだが
心の奥底にある
見たくないものを
不意に見てしまうと
どんなものでもすべて怖いかもしれない
「わからない」のは6、7行目。「心の奥底にある/見たくないものを」というのは、誰の心の奥底にあり、誰が見たくないのか。これは、ことばの流れからいうと、子どもの心の奥底にあるもので、子どもが見たくないもの、と考えるのがふつうの読み方なのだろうけれど。
私はなぜか、そんなふうに読むことができないのである。
たとえ、子どもが、子どもの心の奥底にある見たくないもの、というものを考えていたとしても、その子どもの心の奥底を想像した瞬間、それは「私の心の奥底」「私が見たくないもの」になってしまう。こどもと私を切り離せない。
なぜかなあ。
たぶん、「心の奥底にある/見たくないもの」という表現のせいだなあ。「見たくないもの」って、「心の奥底」にある? いやあ、違うなあ。見たくないものは、私の外にある。それは、いつでも「私の外」にあって、「私の中」、つまり「心の奥底」にはない。
という言い方だと、違ってくるか。
うーん。
逆に考えてみようか。「心の奥底」って、自分の「肉体」とは別にあるもの? ちょっと考えられない。どうしても「自分の肉体」のなかにあるものを考えてしまう。「他人の心の奥底にある/見たくないもの」というものを、私は想像することができない。
「心の奥底」といった瞬間(聞いた瞬間)、私は私の心の奥底を思う。
つまり、その瞬間、「子ども」のことを忘れて、自分のことを思ってしまう。
「心の奥底」という表現には、何か自他の区別を消してしまう働きがある。
これはたぶん、金井にも、そのときに起きたことがらである。
というのも、詩は次のようにつづいていく。
朝の陽の中
器の中のヨーグルト
スプーンですくって
口の中に入れることさえ
現実であるか夢であるのか
いや、これはたしかに現実なのだが
夢を見ているときは
いつも不穏な重みが頭の中を支配していて
それはすべて現実である
ぼくが口をあけて寝ている姿
怖い
金井は「子どもの心」を離れてしまって、自分のことを語りはじめる。ヨーグルトを食べるという現実のことではなくて……。
夢を見ているときは
いつも不穏な重みが頭の中を支配していて
それはすべて現実である
これは、金井の「思考」であって、「子どもの思考」じゃないね。子どもがそう語ったのではない。子どもは、子どもの頭の中を不穏な重みが支配しているとは言っていない。お父さんが口をあけて寝ているのが怖いといっただけである。そしてそれは「夢」だといったのであり、それが「現実」だと言ったのではない。
それなのに。
金井は、それを自分に引きつけて、夢のなかではすべて現実であると考えている。
言い換えると--というより、「飛躍」すると。
金井は、この詩のなかで、最初は子どもの心配をしている。「怖い夢を見たって、それはどんな夢」と子どもに問いかけている。それなのに、答えを聞いた瞬間から、子どものことをほうりだして、夢と現実、怖いというのはどういうことかを、自分の問題として考えている。
変でしょ? 奇妙でしょ? 子どものことを最後まで心配したら? というのは、まあ、よけいなお節介だけれど。
で。
なぜ、こういうことが起きたのか。それは、どこで起きたのか--というと、「心の奥底にある/見たくないものを」ということばが動いた瞬間なのだと思う。そう思った瞬間、子どもと金井の区別がなくなった。
どうして?
それが、私には「わからない」。それなのに、「わからない」を飛び越えて、「わかる」。そんなふうに飛躍してしまうのが人間なのだということが「わかる」。で、こんなふうに書いてしまったのだけれど。
ほんとうは「見たくない」ではなく、「見たい」のかもしれない。「見たい」という本能(欲望)があって、それが「見たくないもの」と言わせているのかもしれない。現実では「見えない」、だから夢で「見る」。夢で欲望を実現する。そしてそのとき実現しているのは「見たくないもの/見たいもの」という何か「区別」のあるものではなくて、もしかすると「怖い」ということをこそ望んでいるのかもしれない。
--そんなことは、書いてない。
書いてないから、私は「書いてある」と「誤読」する。
*
廿楽順治「ギターの健」。この人の詩の形は詩の行の尻が底にそろっていて、頭は凹凸があるという形なのだが、うまく表記できないので頭揃えで引用する。
教えてやろう
つまびく
ということの神髄はこれさ
健さんのすさびかたにはみんなが泣く
(らしい)
ああいう連中は
くちがうまいからなあ
父親があとでこっそり言ったことがある
あの男の美しい隠語には
「まこと」がない
廿楽のことばのなかには、何かしら金井が「心の奥底にある/見たくないもの」というようなものが、心の奥底と現実の境目を取り払って結託しているような部分がある。子どもの心か、自分の心か、その区別がなくなって自分に引きつけるように、廿楽は、他人の現実と自分の現実、他人の夢と自分の夢をメルトダウンさせて、ぐにゃりとした感じで現実に噴出させる。健さんのことばも、父親のことばも、そしてみんなが「泣く」ということさえも、「一体」になる。そういうことは、もちろん、あってはならないことなので、というか切り離してしまいたいことがらなので、(らしい)と、わざと「嘘だよ」と言ってみせたりする。でも、この(らしい)がまた奇妙に「冗談だよ(嘘だよ)」ともらす口調に似ていて、不思議な接着力となっている。
いやあ、うまいもんだねえ。
嘘とほんとうのみせ方--区別をつけながら、区別をつける、あ、逆かな。
で。
不満を言うと。
「歌」になりすぎていない? 最近は、ことばがとってもなめらかになり、廿楽の書いていることが「現実」というより「物語」になって、物語のなかで、その登場人物たちが「歌っている」という感じ--古今集や新古今集の歌みたいな、技巧的な感じがしてしまう。「うまいだろう」と節を聞かせているような感じといえばいいのかなあ。
これに比べると金井の詩は「歌」になっていない。へたくそだなあ(失礼)という感じがするのだが。
うーん、私はほんとうは(?)廿楽の詩の方が大好きなのに、書くなら廿楽のような詩を書いてみたいのに、何か比較をすると、金井の詩の方が、もう一回聞いてみたい(読んでみたい、読み直してみたい)という気になる。
不思議だ。
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