岡井隆『岡井隆詩集』(現代詩文庫200 )(思潮社、2013年03月01日発行)
「死について」は『かぎられた詩のための四十四の機会詩』に収録されている。巻頭の作品である。
少し前に、私はことばを読んでいて「音」が聞こえないと理解できないと書いた。それは逆に言うと「音」が聞こえると何かわかったと勘違いするということになるかもしれない。
たとえば、この詩の1行目。「さ・し・す・せ・そ」ということばが響いている。その「音」ははっきり聞こえる。そし、その「音」を聞いているとき、無意識の内に「肉体」を動かして発音しているとき、私は「意味」を忘れている。追いかけてくる「意味」をふりきって、「音」が走りだすのを感じている。
そんなことを感じながら「意味」も考えないといけないかなあ、と思いなおし。
「意味」は……むりやり考えてみると、走りだした「音」を立ち止まらせて追いつくのを待ってみると。
この1行の指し示しているところは、ことばや記号を補ってわかりやすく書き直すと、(ついでに現代仮名遣いにして書き直すと)
ということになるかもしれない。「死の瀬」には「磯」と「洲」があり、そこには違いがあるかどうかは知らないけれど、まあ、そんなふうに区別して、言って遊ぶ、言い換えると「声」に出して遊ぶということになるかもしれない。
「意味」が追いついたところで。
「言って遊ぶ」がとても大切なのだと思う。
このとき「遊ぶ」というのは「意味」じゃないね。(と、私は、再び「意味」を離れる。)つまり、「磯」と「洲」にどんな違いがあるか「無意味」な質問をして遊ぶ、じゃないね。「さ・し・す・せ・そ」という「音」の組み合わせを遊ぶということだね。「意味」はどこかにほうりだされている。「声」を出して、遊んでいる。
その「遊んでいる声」に私は反応してしまう。いっしょに遊びたくなる。つまり、「声」を出したくなる。「さ・し・す・せ・そ」という1行を入れ換えて、早口ことばを楽しんでいる感じ。
そのときの「楽しさ」(肉体のよろこび)が、私には「わかる」。
「意味」なんか、ぜんぜん気にしていない。その証拠(?)に。私は、今回この詩を「引用」するまで、
という具合に、洲「と」の差、の「と」を欠落させて記憶していた。肉体は「さ・し・す・せ・そ」だけを覚えていた。本来あるはずの「磯(と)洲との差」という「意味」は私の「肉体」の記憶からは欠落して、「さ・し・す・せ・そ」になっていた。
岡井には申し訳ないが、私は、「音」だけしか聞いていなかったのである。
こんな自分だけの体験(誤読)をもとにして何かを書いてはいけないのかもしれないけれど、これが私の「肉体」の正直な反応であり、これが私の、詩に対する「理解」なのである。
私は「音」の遊びと思っているから、次の
では、ま「が」る、「こ」わだ「か」という「か行」の響きあい、ま「が」る、こわ「だ」かという濁音の響きあいを、あ、おもしろいと思う。
さらに、旧仮名遣いで書いてあるのだけれど、それを読むと「文語」ではなく「口語」になるというところも、「意味」ではなく「肉体」を刺戟してくるので、とても楽しい。「声高」と「声」ということばがつかわれているのも、私には、ここに書かれているのは「意味」ではなくて、あくまで「声(音)」なのだという印象を植えつける。声(音)の印象が濃くなる。
これも「か行」の揺らぎだね。ま「が」り「き」らないうちにむ「こ」う「か」ら「く」る。そして、「ら行」。まが「り」き「ら」ないうちにむこうか「ら」く「る」。「か行」と「ら行」が交錯する。さらに「ま行」の「ま」「む」も混入する。
「意味」をすっかり忘れている。
しかし、そうすると、
えっ、これ何? どこに「音」がある? わからないね。「音」が一瞬、消える。
でも、こういう「わからない」は逆に、それまでの「音」の響きあいを強調する。「音」の響きあいを楽しんでいるから、そこで「音」が聞こえないということが、逆にいままであった「音」をより鮮明にする。
あ、これって「我田引水」というものだね。
つまり--私は岡井の詩をわかっていない。ただ岡井の詩で、自分が遊べる部分だけ利用して、遊んでいる。正しい鑑賞ではなくなる--ということなんだろうなあ。
でも、それが正しくなくても、私は実は気にしないのである。
あるとても有名な現代詩人であり俳人でもあるひとの句を私は誤読し叱られたことがあるけれど、関係ないなあ。間違えたって、それがどうしたの? 私はそう読んで楽しかった。正しくなくても、読んで楽しければ、それでいい、という考えなので。
で、この1行を岡井がどんな気持ちで書いたか、どう読まれたいと思っているかなんて、気にしない。「音」を楽しんできた「肉体」をそのままつかって、また「遊ぶ」ことを考える。
を見ると、「ね」「ゐ」「る」という、きゅっと丸くなった部分を含むひらがなが目につく。黄金にはルビで「こがね」と「ね」の文字を補っている。
これはどういうことかというと。
岡井は、「音」(聴覚/発音器官)を遊んでいるだけではなく、「視覚」も遊んでいるのだ。目には何か似た感じがする「文字」なのに、耳には違って聞こえる。「/」なんていう「音」を持たない「文字(記号?)」まである。
こういういたずら(作為?)も、私に、「音」を強調するためのものに感じられる。無音、沈黙があって、音の印象が際立つ。そして、それがいたずら(作為)であるからこそ、この行は「言って遊ぶ」「宣言して遊ぶ」ではなく「作っては遊ぶ」。ね。「言う」ではない、「声」ではない、と岡井は解きあかしている。そうすると、私の読み方もまんざら間違っているとばかりは言えないよね--と、また「我田引水」。
そんなことをしたあとで、
これは、どう?
私には「ふ」(は行)が気にかかる。「ふ」は「う」でもあるね。「いう・うそ」「うしなう」。--だけではなく、
な、なんと。
この行だけ「言って遊ぶ」ではなく「言い換えて遊ぶ」。「は行」が、「歴史的仮名遣い」が「文字」と「音」のなかで、なんというのだろう、遊んでいる!
「言って遊ぶ」は「口語」だったのだ。「言ふて遊ぶ」がもとの形だったのだ。それが「言ひかへて」と歴史的仮名遣いの「は行」のなかでよみがえる。
わ、わ、わっ。
「誤読」どころか、読み落としていたものが、急に目の前にあらわれてきたよう。びっくり。
このびっくりは、目の前でふくらませていた風船がぱーんと割れたような感じ。笑いだしてしまうなあ。自分の無知さ加減に。
こういうとき、私はめげない。
逆に、はりきってしまう。
で、こういう「結論」をでっちあげる。
詩を読む楽しみは、自分の無知を発見し、笑うところにある。これを逆に言うと、まあ、詩人の鋭い知性にふれて、目が覚める、というのだけれど。
その「目が覚めた」例。
「意味」はよくわからないのだけれど(つまり、肉体でははっきりわかるけれど、わかるがゆえにことばにはできないのだけれど)、この死と末席の関係、それから禁忌(?)にふれると「どなられる」という感じ--あ、そういうものを岡井はしっかり見ているという感じがするねえ。
わかったようなわからないような、でも、目が覚めるよね。刺戟があって。そして、それを「もっともすぎて信じられない」ということろもね。そうなんだ。なんでも「もっともすぎる」のは嘘なんだ。
なんてね。
いや、楽しいなあ。
「死について」は『かぎられた詩のための四十四の機会詩』に収録されている。巻頭の作品である。
死の瀬の磯(そ)の洲(す)との差 と言つて遊ぶ
死つてまがることなんだと声高に宣言して遊ぶ
曲がり切らないうちに向こうから来る と言つて遊ぶ
死を束ね/てゐる黄金(こがね)の/帯がある と作つては遊び
逝くことだといふ嘘を青空を喪ふことと言ひかへて遊ぶ
少し前に、私はことばを読んでいて「音」が聞こえないと理解できないと書いた。それは逆に言うと「音」が聞こえると何かわかったと勘違いするということになるかもしれない。
たとえば、この詩の1行目。「さ・し・す・せ・そ」ということばが響いている。その「音」ははっきり聞こえる。そし、その「音」を聞いているとき、無意識の内に「肉体」を動かして発音しているとき、私は「意味」を忘れている。追いかけてくる「意味」をふりきって、「音」が走りだすのを感じている。
そんなことを感じながら「意味」も考えないといけないかなあ、と思いなおし。
「意味」は……むりやり考えてみると、走りだした「音」を立ち止まらせて追いつくのを待ってみると。
この1行の指し示しているところは、ことばや記号を補ってわかりやすく書き直すと、(ついでに現代仮名遣いにして書き直すと)
「死の瀬の磯」と「死の瀬の洲」との差、と言って遊ぶ
ということになるかもしれない。「死の瀬」には「磯」と「洲」があり、そこには違いがあるかどうかは知らないけれど、まあ、そんなふうに区別して、言って遊ぶ、言い換えると「声」に出して遊ぶということになるかもしれない。
「意味」が追いついたところで。
「言って遊ぶ」がとても大切なのだと思う。
このとき「遊ぶ」というのは「意味」じゃないね。(と、私は、再び「意味」を離れる。)つまり、「磯」と「洲」にどんな違いがあるか「無意味」な質問をして遊ぶ、じゃないね。「さ・し・す・せ・そ」という「音」の組み合わせを遊ぶということだね。「意味」はどこかにほうりだされている。「声」を出して、遊んでいる。
その「遊んでいる声」に私は反応してしまう。いっしょに遊びたくなる。つまり、「声」を出したくなる。「さ・し・す・せ・そ」という1行を入れ換えて、早口ことばを楽しんでいる感じ。
そのときの「楽しさ」(肉体のよろこび)が、私には「わかる」。
「意味」なんか、ぜんぜん気にしていない。その証拠(?)に。私は、今回この詩を「引用」するまで、
死の瀬の磯の洲の差 と言つて遊ぶ
という具合に、洲「と」の差、の「と」を欠落させて記憶していた。肉体は「さ・し・す・せ・そ」だけを覚えていた。本来あるはずの「磯(と)洲との差」という「意味」は私の「肉体」の記憶からは欠落して、「さ・し・す・せ・そ」になっていた。
岡井には申し訳ないが、私は、「音」だけしか聞いていなかったのである。
こんな自分だけの体験(誤読)をもとにして何かを書いてはいけないのかもしれないけれど、これが私の「肉体」の正直な反応であり、これが私の、詩に対する「理解」なのである。
私は「音」の遊びと思っているから、次の
死つてまがることなんだと声高に宣言して遊ぶ
では、ま「が」る、「こ」わだ「か」という「か行」の響きあい、ま「が」る、こわ「だ」かという濁音の響きあいを、あ、おもしろいと思う。
さらに、旧仮名遣いで書いてあるのだけれど、それを読むと「文語」ではなく「口語」になるというところも、「意味」ではなく「肉体」を刺戟してくるので、とても楽しい。「声高」と「声」ということばがつかわれているのも、私には、ここに書かれているのは「意味」ではなくて、あくまで「声(音)」なのだという印象を植えつける。声(音)の印象が濃くなる。
曲がり切らないうちに向こうから来る
これも「か行」の揺らぎだね。ま「が」り「き」らないうちにむ「こ」う「か」ら「く」る。そして、「ら行」。まが「り」き「ら」ないうちにむこうか「ら」く「る」。「か行」と「ら行」が交錯する。さらに「ま行」の「ま」「む」も混入する。
「意味」をすっかり忘れている。
しかし、そうすると、
死を束ね/てゐる黄金(こがね)の/帯がある と作つては遊び
えっ、これ何? どこに「音」がある? わからないね。「音」が一瞬、消える。
でも、こういう「わからない」は逆に、それまでの「音」の響きあいを強調する。「音」の響きあいを楽しんでいるから、そこで「音」が聞こえないということが、逆にいままであった「音」をより鮮明にする。
あ、これって「我田引水」というものだね。
つまり--私は岡井の詩をわかっていない。ただ岡井の詩で、自分が遊べる部分だけ利用して、遊んでいる。正しい鑑賞ではなくなる--ということなんだろうなあ。
でも、それが正しくなくても、私は実は気にしないのである。
あるとても有名な現代詩人であり俳人でもあるひとの句を私は誤読し叱られたことがあるけれど、関係ないなあ。間違えたって、それがどうしたの? 私はそう読んで楽しかった。正しくなくても、読んで楽しければ、それでいい、という考えなので。
で、この1行を岡井がどんな気持ちで書いたか、どう読まれたいと思っているかなんて、気にしない。「音」を楽しんできた「肉体」をそのままつかって、また「遊ぶ」ことを考える。
死を束ね/てゐる黄金(こがね)の/帯がある
を見ると、「ね」「ゐ」「る」という、きゅっと丸くなった部分を含むひらがなが目につく。黄金にはルビで「こがね」と「ね」の文字を補っている。
これはどういうことかというと。
岡井は、「音」(聴覚/発音器官)を遊んでいるだけではなく、「視覚」も遊んでいるのだ。目には何か似た感じがする「文字」なのに、耳には違って聞こえる。「/」なんていう「音」を持たない「文字(記号?)」まである。
こういういたずら(作為?)も、私に、「音」を強調するためのものに感じられる。無音、沈黙があって、音の印象が際立つ。そして、それがいたずら(作為)であるからこそ、この行は「言って遊ぶ」「宣言して遊ぶ」ではなく「作っては遊ぶ」。ね。「言う」ではない、「声」ではない、と岡井は解きあかしている。そうすると、私の読み方もまんざら間違っているとばかりは言えないよね--と、また「我田引水」。
そんなことをしたあとで、
逝くことだといふ嘘を青空を喪ふことと言ひかへて遊ぶ
これは、どう?
私には「ふ」(は行)が気にかかる。「ふ」は「う」でもあるね。「いう・うそ」「うしなう」。--だけではなく、
な、なんと。
この行だけ「言って遊ぶ」ではなく「言い換えて遊ぶ」。「は行」が、「歴史的仮名遣い」が「文字」と「音」のなかで、なんというのだろう、遊んでいる!
「言って遊ぶ」は「口語」だったのだ。「言ふて遊ぶ」がもとの形だったのだ。それが「言ひかへて」と歴史的仮名遣いの「は行」のなかでよみがえる。
わ、わ、わっ。
「誤読」どころか、読み落としていたものが、急に目の前にあらわれてきたよう。びっくり。
このびっくりは、目の前でふくらませていた風船がぱーんと割れたような感じ。笑いだしてしまうなあ。自分の無知さ加減に。
こういうとき、私はめげない。
逆に、はりきってしまう。
で、こういう「結論」をでっちあげる。
詩を読む楽しみは、自分の無知を発見し、笑うところにある。これを逆に言うと、まあ、詩人の鋭い知性にふれて、目が覚める、というのだけれど。
その「目が覚めた」例。
死は ある<系>の末席だといふ人がある
その椅子に座ると<系>の連衆が一せいに立つてどなるんだつて
「意味」はよくわからないのだけれど(つまり、肉体でははっきりわかるけれど、わかるがゆえにことばにはできないのだけれど)、この死と末席の関係、それから禁忌(?)にふれると「どなられる」という感じ--あ、そういうものを岡井はしっかり見ているという感じがするねえ。
あるメロディーの終端和音だといふ説があつて後は音の無へ接続するつて次第 もつともすぎて信じられやしないのさ
わかったようなわからないような、でも、目が覚めるよね。刺戟があって。そして、それを「もっともすぎて信じられない」ということろもね。そうなんだ。なんでも「もっともすぎる」のは嘘なんだ。
なんてね。
いや、楽しいなあ。
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