松岡政則「詩のつづきにいると」(「交野が原」74、2013年04月01日発行)
ときどき、感想なんかいらない、ただ好きといってしまえばいいという詩に出会う。「好きな人」を見つけたときのようなものだ。なぜ好きかなんて、わからない。突然、あ、このひとが好き、好きでたまらないというのと似ている。松岡政則「詩のつづきにいると」はそういう作品である。くさのさなえの『キルギスの帽子』を読み、そのなかの一篇「村の一角」を読んだあとのことを書いている。松岡はくさのの詩が好きになり、私はくさのの詩が好きになった松岡の詩が好きになってこの文章を書いているのだが……。あ、ごっちゃになってしまいそう。--で、松岡にもどって、松岡がどんなふうにくさのが好きかというと。
このとき、松岡は「いま/ここ」にいない。そして、くさのさなえのいる「あの時/その場所」にいるのでもない。どこにいるかというと、「つづき」にいる。くさのの書かなかった「つづき」を勝手につくって、そこにいる。「つづき」とは「つながること」であり、その「つながり」を延長することは、新しい「いま/ここ」をつくりだしていくことである。
松岡は勝手に、新しい「いま/ここ=つづき(未来)」をつくりだしている。それは、好きな人に出会ったとき、その人がどういう過去を持っていて、これからどういう時間を生きていくつもりなのかなどということは無視して、勝手に未来を「妄想」するのに似ている。この人といっしょなら、あれをして、これをして、それから……。それは「独りよがり」かもしれないけれど、瞬間的に、そういうことを思うことがあるね。
で、そういう「独りよがり」は、相手のことを無視しているのだけれど、それがさらに高じてくると、
というところまで行ってしまう。相手がどうなるかだけではなく、自分がどうなってもかまわない。松岡はくさのが好きなのだから、くさのといっしょにいるなら自分がどうなってもかまわない、ということろまで行ってしまう。ただ「つづくこと=つづき」、「つながっていること=つづき」が大事なのである。「つながり」のなかに「つづき」があるのだから、そしてその「つづき」だけが大事なのだから、つながっている端っこ(?)の存在なんて、どういう姿でもいい。
だいたいくさのの乗っているバスに先回りして、みっつ先のバス停で乗り込むなんていう「超ストーカー」をやっているのである。もうすでに松岡は昔の松岡ではない。「どんな自分でもかまわない」どころか、もう「どんな自分かもわからない」。それでもいいのだ。どんな自分になったって「つづき=つながり」があるだけではなく、その「つづき=つながり」があれば、松岡は松岡として「つづき=つながり」のなかにいる。
こういう「つづき=つながり」はどんどん増幅する。
くさのといっしょにいると、そのバスに知らない人が次々に乗ってくる。それは知らない人だけれど、くさのといっしょにいるからくさのの知り合いであり、くさのの知り合いなら松岡の知り合いなのだ。つづいている。つながっている。バスの窓から見えるヒツジやヤクさえも、くさのの知り合い(よく知っている動物)であり、当然、松岡だって、ヒツジやヤクの一匹一匹と友達である。
バスに乗り込んでからの、描写のスピード(登場人物や登場する動物の変化のスピード)が、そのことを語っている。ぱっとでてきて、何の説明もないまま、それで完全に「つづき=つながり」となってしまう。どんなにスピードを加速しても離ればなれにならず、逆に強く接触してくる感じ。強く強くつながる感じ。「顔を背けて押し黙っている」人にさえ、その人の感じていることは、松岡のこころに「つながる=つづく」。みんな、知っている人なのだから。一度も会ったことがなくても、その土地を知っていれば、つまり土地で「つながる」ならば、その人の感じていることはわかる。
いいなあ、人が次々にかわりながらつづく、この超スピード。その土地の「いま/ここ」に直に触れている。くさのに、直に触れている。直にふれているので「なんだこいつ」という反応にさえよろこびを感じる。直にふれていないひとの思いはわからないものだからね。「つながる」と「つづく」が同義のものであることが、一体であることがよくわかる。
などと思っていると。うーん、これでは、ますます「ストーカー」的な「独りよがり」の世界になってしまうか。
でも、かまわない。
と、思っていると、この詩には最後に注釈があって、
あ、松岡さん、だめ(私はここで、大笑いをしてしまう。)「かまうことはない」はだめ。絶対に、だめ。かまってください。(笑いが止まらない。)
「だめ」と言いながら、私は大笑いしながら共感してしまう。
いいんです。かまうことはない。絶対に、かまうことはない。好きになったんだから、何をしたっていい。くさのが抗議をしてこようが、関係がない。「キルギス」と「誤読」することでしか到達できないものがある。その「誤読」は、くさのにとっては「誤読」かもしれないが、松岡自身にとっては絶対的に正しい本能の選択である。本能に間違いなんて、ない。
で、本能に間違いがないからこそ、人間の暮らしってたいへんなんだけれどね。
ほら、いくら松岡がくさのが大好きであっても、くさのは「なんだこいつ」と思うだけかもしれないからね。
それでもいい。「誤読」すればいい。「誤読」のなかには直感の、頭を潜り抜けない肉体の「ほんとう」がある。「ほんとう」と「ほんのう」は一音違うが、こんなものはことばの「訛り」であって、「意味」は同じである。それが「ほんとう」であるかぎり、それは通じる。「なんだこいつ」という反応だって、松岡の「ほんとう」を本能的に感じるから「なんだこいつ」という反応になるのである。「ほんとう」がぜんぜん感じられなかったら、そういう反応はない。
応援します。このまま、どんどん「つづけて」ください。ことばのセックスで何度でも何度でも絶頂までのぼりつめて、何度でも果ててください。絶倫を発揮してください。がんばってください。
ときどき、感想なんかいらない、ただ好きといってしまえばいいという詩に出会う。「好きな人」を見つけたときのようなものだ。なぜ好きかなんて、わからない。突然、あ、このひとが好き、好きでたまらないというのと似ている。松岡政則「詩のつづきにいると」はそういう作品である。くさのさなえの『キルギスの帽子』を読み、そのなかの一篇「村の一角」を読んだあとのことを書いている。松岡はくさのの詩が好きになり、私はくさのの詩が好きになった松岡の詩が好きになってこの文章を書いているのだが……。あ、ごっちゃになってしまいそう。--で、松岡にもどって、松岡がどんなふうにくさのが好きかというと。
「村の一角」のつづきを夢想する
みっつ先のバス停でのりこみ
くさのさなえのななめうしろに坐る
ビシュケク行きの小型バス
キルギス人もウズベク人も
かおを背けたまま押し黙っている
うしろでヒソヒソやっているのはウルグイ人の母娘
車窓に点在するユルタがながれ
ヒツジやヤクの群れがながれ
ユーラシア大陸のど真ん中
バスにゆれるに任せて訊いてみる
アクタン・アリム・クバト監督の『明りを灯す人』を観た?
くさのさなえは黙っている
ふり向きもしない
眉のあたりがなんだこいつ、という感じ
そうやって詩のつづきにいると
もうどんな自分でもかまわない、と思えてくる
このとき、松岡は「いま/ここ」にいない。そして、くさのさなえのいる「あの時/その場所」にいるのでもない。どこにいるかというと、「つづき」にいる。くさのの書かなかった「つづき」を勝手につくって、そこにいる。「つづき」とは「つながること」であり、その「つながり」を延長することは、新しい「いま/ここ」をつくりだしていくことである。
松岡は勝手に、新しい「いま/ここ=つづき(未来)」をつくりだしている。それは、好きな人に出会ったとき、その人がどういう過去を持っていて、これからどういう時間を生きていくつもりなのかなどということは無視して、勝手に未来を「妄想」するのに似ている。この人といっしょなら、あれをして、これをして、それから……。それは「独りよがり」かもしれないけれど、瞬間的に、そういうことを思うことがあるね。
で、そういう「独りよがり」は、相手のことを無視しているのだけれど、それがさらに高じてくると、
もうどんな自分でもかまわない、
というところまで行ってしまう。相手がどうなるかだけではなく、自分がどうなってもかまわない。松岡はくさのが好きなのだから、くさのといっしょにいるなら自分がどうなってもかまわない、ということろまで行ってしまう。ただ「つづくこと=つづき」、「つながっていること=つづき」が大事なのである。「つながり」のなかに「つづき」があるのだから、そしてその「つづき」だけが大事なのだから、つながっている端っこ(?)の存在なんて、どういう姿でもいい。
だいたいくさのの乗っているバスに先回りして、みっつ先のバス停で乗り込むなんていう「超ストーカー」をやっているのである。もうすでに松岡は昔の松岡ではない。「どんな自分でもかまわない」どころか、もう「どんな自分かもわからない」。それでもいいのだ。どんな自分になったって「つづき=つながり」があるだけではなく、その「つづき=つながり」があれば、松岡は松岡として「つづき=つながり」のなかにいる。
こういう「つづき=つながり」はどんどん増幅する。
くさのといっしょにいると、そのバスに知らない人が次々に乗ってくる。それは知らない人だけれど、くさのといっしょにいるからくさのの知り合いであり、くさのの知り合いなら松岡の知り合いなのだ。つづいている。つながっている。バスの窓から見えるヒツジやヤクさえも、くさのの知り合い(よく知っている動物)であり、当然、松岡だって、ヒツジやヤクの一匹一匹と友達である。
バスに乗り込んでからの、描写のスピード(登場人物や登場する動物の変化のスピード)が、そのことを語っている。ぱっとでてきて、何の説明もないまま、それで完全に「つづき=つながり」となってしまう。どんなにスピードを加速しても離ればなれにならず、逆に強く接触してくる感じ。強く強くつながる感じ。「顔を背けて押し黙っている」人にさえ、その人の感じていることは、松岡のこころに「つながる=つづく」。みんな、知っている人なのだから。一度も会ったことがなくても、その土地を知っていれば、つまり土地で「つながる」ならば、その人の感じていることはわかる。
いいなあ、人が次々にかわりながらつづく、この超スピード。その土地の「いま/ここ」に直に触れている。くさのに、直に触れている。直にふれているので「なんだこいつ」という反応にさえよろこびを感じる。直にふれていないひとの思いはわからないものだからね。「つながる」と「つづく」が同義のものであることが、一体であることがよくわかる。
などと思っていると。うーん、これでは、ますます「ストーカー」的な「独りよがり」の世界になってしまうか。
でも、かまわない。
と、思っていると、この詩には最後に注釈があって、
*「村の一角」はインドの村と思われるが、かまうことはないキルギスにした。
あ、松岡さん、だめ(私はここで、大笑いをしてしまう。)「かまうことはない」はだめ。絶対に、だめ。かまってください。(笑いが止まらない。)
「だめ」と言いながら、私は大笑いしながら共感してしまう。
いいんです。かまうことはない。絶対に、かまうことはない。好きになったんだから、何をしたっていい。くさのが抗議をしてこようが、関係がない。「キルギス」と「誤読」することでしか到達できないものがある。その「誤読」は、くさのにとっては「誤読」かもしれないが、松岡自身にとっては絶対的に正しい本能の選択である。本能に間違いなんて、ない。
で、本能に間違いがないからこそ、人間の暮らしってたいへんなんだけれどね。
ほら、いくら松岡がくさのが大好きであっても、くさのは「なんだこいつ」と思うだけかもしれないからね。
それでもいい。「誤読」すればいい。「誤読」のなかには直感の、頭を潜り抜けない肉体の「ほんとう」がある。「ほんとう」と「ほんのう」は一音違うが、こんなものはことばの「訛り」であって、「意味」は同じである。それが「ほんとう」であるかぎり、それは通じる。「なんだこいつ」という反応だって、松岡の「ほんとう」を本能的に感じるから「なんだこいつ」という反応になるのである。「ほんとう」がぜんぜん感じられなかったら、そういう反応はない。
応援します。このまま、どんどん「つづけて」ください。ことばのセックスで何度でも何度でも絶頂までのぼりつめて、何度でも果ててください。絶倫を発揮してください。がんばってください。
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