岡井隆詩集(2)(現代詩文庫200 、思潮社、2013年03月01日発行)
岡井隆の詩の魅力は、音と沈黙が拮抗することである。意味と沈黙が拮抗することである。音のなかにある無意味が、沈黙のなかにある意味を破壊するところにある。
なんて、書いても、なんのことかわからないね。
私にもわからないのだけれど、いま書いたような何か「拮抗」の感覚が、音を、ことばの響きを美しくしている、ことばそのものを美しくしている、という感じがする。その美しさが、私はとても好きだ。
たとえば、「連詩の会のあくる日」。
「連詩」と「往復書簡」が重なって、「意味」をつくりあげる。杢太郎は何かをつくりあげた。その作品を茂吉が攻撃した。それに似たことが「連詩」の会でもあったかな? 連詩の会では「攻撃」ではないかもしれないけれど、詩のつながりぐあいのなかに、何か相手を攻めるような、刺戟するようなものがあったということかもしれない。そういう「記憶」が茂吉と杢太郎の往復書簡の行間を出入りする本屋の店員のように動き回るということかな……。
で。
この、
ここが、とても美しい。「意味」としては、往復書簡には、本屋の店員が「何々」という本を持ってきた、それを読んだというようなことが書いてあるのかもしれないが、本のタイトルは紹介せずに、本屋の店員が本を持ってきたというような「事実」だけが取り出されている。
「本」というのは、「本の中身」に「意味」があるのであって、「店員」に「意味」はない。(あ、本屋さん、ごめんなさいね。)
つまり、ここに書いてあるのは「無意味」。本屋の店員が出入りしたからといって、そのことが茂吉や杢太郎の精神生活(意味)には無関係。それは「本郷と青山の日の光」のように、そこにある「自然」。「意味」を拒絶する何かだ。
で、この「意味の拒絶」が「無意味」である。「無意味」が生活を洗うと、そこに「音楽」が響く。「音」が輝きだす。「音楽」--そこに「意味」はないけれど、「音」がある。そして「気分」がある。「意味」はわからないが、「気分」はわかる。そういう「こと」が、そこでは起きる。少なくとも、私の場合、そういう感じ。
というのは、茂吉と杢太郎の往復書簡を読んだ人には何のことかわかるかもしれないが、読んでいない人にはよくわからない。どの作品にどんな攻撃があったか、それはわからないけれど、杢太郎がそれに対して返事を書かなかったという「こと」はわかる。「返事を書かない」という「こと」のなかにある「気分」を感じる。書かないことで、そこにあった「ことば」を洗い流し、その「無・ことば」(沈黙)のなかから、それに拮抗するように、「音楽」のようなもものが生まれ。書かれていないのだけれど、ここに、まだ書かれていない「ことばの音楽」がある。
「意味」よりも、もっとほかのものが優先している感じがする。そういうことが、その書かれていないことばと拮抗するように、書かれてしまったことばのなかにある。--というのは、うーん、矛盾だらけの、私の「感覚の意見」にすぎないのだけれど……。
で。そこに「音楽」がある--というのは、私はそう書いてしまうのだが、そして書きながらちょっと説明がしにくいのだけれど、無理を承知で書きつなげれば……たぶん書いている岡井のことばの「言い回し(リズム)」がなんとも美しいから「音楽」ということばが誘い出されるのだろうと思う。
「杢太郎はともかく……」から「欠落してゐた」まで、読点なしにつながっているが、すいすい読めるし、読んでいるあいだにことばひとつひとつがはっきり聞こえる。雑音がない。
これはすごいなあ。これはやっぱり岡井が「短歌」という文学に深く関わっているからだろうか。音に出して読むということを日常的におこなっているからだろうか。(あ、「短歌」を実際に岡井が声に出して読んでいるかどうか、私は知らないのだけれど。なんとなく、歌は声に出すもの、という印象が私にはある。現代詩は、黙読の方に重きがあると思うけれど。)
声が鍛えられているから、そこに「意味」が欠落していても(茂吉が攻撃したという杢太郎の作品、そのときの具体的な指摘が欠落していても)、その声を信じてしまう。岡井の「報告」していることに嘘はないと思ってしまう。
ところが。
「声」にだまされてはいけませんよ、と岡井は注意する。声があるから、そこに「意味」があるとはかぎらない。そこには「嘘」という「無意味」しかない。でも、それが「音」として楽しかったら? 「嘘」が楽しかったら? その「嘘」の「意味」は?
考えだすと、わからない。
これは、
も同じ。
というか、逆のことも考えさせられる。
もし岡井が静岡の連詩の会に参加したというのがほんとうなら『茂吉/杢太郎往復書簡』は存在することになる?
そんなことはない。
そんなことはないのだが、ことばはそういうことを考えることができる。「人間が」ではなく、「ことば」がそういうことを考える。そういう「声」になる。「声」が独立して、「意味」をふりきって「音」だけで「嘘の意味」をつくってしまう。その「嘘の意味」は、音をとおして人間に浸透してくる。
でもね、こういう「嘘」というのは、実は「声」でわかってしまう。ほら、他人の嘘が「声」の調子でわかるように。
岡井の詩の場合、岡井が「そういう書物はない」告白するまで、それが嘘かどうかわからない。それは岡井の「声」が力を持っているからだ。「声」がことばになっているからだ。だからこそ、最後のどんでん返しが、それじゃあもし連詩の会があったなら……という架空のどんでん返しを引き起こすことにもなる。
うーん、だんだんややこしくなってきた。きょうの感想は、最初の2行だけでやめておくべきだったのかなあ。
岡井隆の詩の魅力は、音と沈黙が拮抗することである。意味と沈黙が拮抗することである。音のなかにある無意味が、沈黙のなかにある意味を破壊するところにある。
なんて、書いても、なんのことかわからないね。
私にもわからないのだけれど、いま書いたような何か「拮抗」の感覚が、音を、ことばの響きを美しくしている、ことばそのものを美しくしている、という感じがする。その美しさが、私はとても好きだ。
たとえば、「連詩の会のあくる日」。
静岡連詩の会から帰つて来てからうすくらがりの廊下を寝室へふらふらと歩いた。
『斎藤茂吉/木下杢太郎往復書簡』を開いてベッドにころがる。茂/杢ともに微妙な間(ま)を医の仕事に空けてゐた。茂吉には遠慮があり杢太郎には不審と焦慮があった。詩の話は一行も出て来ない。
書簡にあふれてゐるのは本郷と青山の日の光だけで本屋の店員が行間を出たり入ったり 杢太郎はともかく創造の小山を一つ越えたばかりだつたがそれを攻撃する茂吉の方言はごく控え目で大ていそれについての杢太郎の返事は欠落してゐた。
「連詩」と「往復書簡」が重なって、「意味」をつくりあげる。杢太郎は何かをつくりあげた。その作品を茂吉が攻撃した。それに似たことが「連詩」の会でもあったかな? 連詩の会では「攻撃」ではないかもしれないけれど、詩のつながりぐあいのなかに、何か相手を攻めるような、刺戟するようなものがあったということかもしれない。そういう「記憶」が茂吉と杢太郎の往復書簡の行間を出入りする本屋の店員のように動き回るということかな……。
で。
この、
書簡にあふれてゐるのは本郷と青山の日の光だけで本屋の店員が行間を出たり入ったり
ここが、とても美しい。「意味」としては、往復書簡には、本屋の店員が「何々」という本を持ってきた、それを読んだというようなことが書いてあるのかもしれないが、本のタイトルは紹介せずに、本屋の店員が本を持ってきたというような「事実」だけが取り出されている。
「本」というのは、「本の中身」に「意味」があるのであって、「店員」に「意味」はない。(あ、本屋さん、ごめんなさいね。)
つまり、ここに書いてあるのは「無意味」。本屋の店員が出入りしたからといって、そのことが茂吉や杢太郎の精神生活(意味)には無関係。それは「本郷と青山の日の光」のように、そこにある「自然」。「意味」を拒絶する何かだ。
で、この「意味の拒絶」が「無意味」である。「無意味」が生活を洗うと、そこに「音楽」が響く。「音」が輝きだす。「音楽」--そこに「意味」はないけれど、「音」がある。そして「気分」がある。「意味」はわからないが、「気分」はわかる。そういう「こと」が、そこでは起きる。少なくとも、私の場合、そういう感じ。
杢太郎はともかく創造の小山を一つ越えたばかりだつたがそれを攻撃する茂吉の方言はごく控え目で大ていそれについての杢太郎の返事は欠落してゐた。
というのは、茂吉と杢太郎の往復書簡を読んだ人には何のことかわかるかもしれないが、読んでいない人にはよくわからない。どの作品にどんな攻撃があったか、それはわからないけれど、杢太郎がそれに対して返事を書かなかったという「こと」はわかる。「返事を書かない」という「こと」のなかにある「気分」を感じる。書かないことで、そこにあった「ことば」を洗い流し、その「無・ことば」(沈黙)のなかから、それに拮抗するように、「音楽」のようなもものが生まれ。書かれていないのだけれど、ここに、まだ書かれていない「ことばの音楽」がある。
「意味」よりも、もっとほかのものが優先している感じがする。そういうことが、その書かれていないことばと拮抗するように、書かれてしまったことばのなかにある。--というのは、うーん、矛盾だらけの、私の「感覚の意見」にすぎないのだけれど……。
で。そこに「音楽」がある--というのは、私はそう書いてしまうのだが、そして書きながらちょっと説明がしにくいのだけれど、無理を承知で書きつなげれば……たぶん書いている岡井のことばの「言い回し(リズム)」がなんとも美しいから「音楽」ということばが誘い出されるのだろうと思う。
「杢太郎はともかく……」から「欠落してゐた」まで、読点なしにつながっているが、すいすい読めるし、読んでいるあいだにことばひとつひとつがはっきり聞こえる。雑音がない。
これはすごいなあ。これはやっぱり岡井が「短歌」という文学に深く関わっているからだろうか。音に出して読むということを日常的におこなっているからだろうか。(あ、「短歌」を実際に岡井が声に出して読んでいるかどうか、私は知らないのだけれど。なんとなく、歌は声に出すもの、という印象が私にはある。現代詩は、黙読の方に重きがあると思うけれど。)
声が鍛えられているから、そこに「意味」が欠落していても(茂吉が攻撃したという杢太郎の作品、そのときの具体的な指摘が欠落していても)、その声を信じてしまう。岡井の「報告」していることに嘘はないと思ってしまう。
ところが。
読みさしの頁に示指をはさんで目をうつろにしているとき『斎藤茂吉/木下杢太郎往復書簡』ではない、と気づいた。さういふ書物はこのよにないのだ、とすればわたしは静岡連詩の会にもいかなかつたことになるのである。
「声」にだまされてはいけませんよ、と岡井は注意する。声があるから、そこに「意味」があるとはかぎらない。そこには「嘘」という「無意味」しかない。でも、それが「音」として楽しかったら? 「嘘」が楽しかったら? その「嘘」の「意味」は?
考えだすと、わからない。
これは、
さういふ書物はこのよにないのだ、とすればわたしは静岡連詩の会にもいかなかつたことになるのである。
も同じ。
というか、逆のことも考えさせられる。
もし岡井が静岡の連詩の会に参加したというのがほんとうなら『茂吉/杢太郎往復書簡』は存在することになる?
そんなことはない。
そんなことはないのだが、ことばはそういうことを考えることができる。「人間が」ではなく、「ことば」がそういうことを考える。そういう「声」になる。「声」が独立して、「意味」をふりきって「音」だけで「嘘の意味」をつくってしまう。その「嘘の意味」は、音をとおして人間に浸透してくる。
でもね、こういう「嘘」というのは、実は「声」でわかってしまう。ほら、他人の嘘が「声」の調子でわかるように。
岡井の詩の場合、岡井が「そういう書物はない」告白するまで、それが嘘かどうかわからない。それは岡井の「声」が力を持っているからだ。「声」がことばになっているからだ。だからこそ、最後のどんでん返しが、それじゃあもし連詩の会があったなら……という架空のどんでん返しを引き起こすことにもなる。
うーん、だんだんややこしくなってきた。きょうの感想は、最初の2行だけでやめておくべきだったのかなあ。
![]() | 岡井隆の現代詩入門―短歌の読み方、詩の読み方 (詩の森文庫) |
岡井 隆 | |
思潮社 |