吉増剛造「K」(「文藝春秋」2013年03月号)
吉増剛造の詩は、私は苦手である。「読めない」。声に出しようがない。私は黙読しかしないが、声に出して読むことができないと(無意識的に喉と耳を働かせないと)、文字は文字のまま、ことばにならない。こういう言い方が適切かどうかわからないが、吉増のことばを読んでいると、なにか「点字」のことばを見ているような気がする。そこに「何か」があるのだろうけれど、そしてそれを読む方法を知っている人にはそれがわかるのだろうけれど、私にはとても遠い。そういう印象がある。だから、いつも困惑していた。これって、何語? まあ、吉増語なんだろうけれど。ところが、今回読んだ「K」はとてもおもしろかった。短かったせいもあるかもしれない。あっという間に読んでしまった。そして、あ、わかった、と思った。この「わかった」は自分なりに「誤読」できる、という意味なのだが……。
「K」はルビのように傍点「、」が打たれているし、「……」のかわりに「、」が行の中央にきていたりしている。私のワープロでは、それを再現できない。私の「引用」は吉増の意図を正確に反映したものではないので、原文は雑誌で確かめてください。(傍点「、」は省略した。ほかにも送り文字など、表記をかえている部分もある。)
一行目の「カ」「神」には傍点「、」が打ってある。ほかにも「金星」の「金」、「Asahikawa 」のk や、最後の「からか」の「か」にも傍点「、」がある。「か行」の「音」にこだわっている。源実朝にわざわざ「鎌倉」ということばを補っているところからも、吉増が「カ」にこだわったことがわかる。
で、そうすると、この詩がとてもおもしろい。変な言い方だが(?)、そうなのか、吉増は「カ(か行--金星やけけれが含まれるからね」の音に刺戟を受けたのか。そしてその「カ」は「K君」というだれかの名前の音なのか……。そういうことがわかるし、カ(か行)」の音の散らばり方も音楽的。
そして、その音楽は、きのう読んだ横山宏子の音楽が弦楽器のように切れ目のない旋律のようなものなのに対して、吉増の場合は打楽器的。大好きな音が出るまで、何かを叩いている感じがする。そして、その音さえあればそれでいいという感じ。まわりの音は、この詩の場合「K」という音を輝かせるための、連想。
で、そこには「ついていた」「啄いばむ」というしり取りもあれば、さらに「しつい」「ついばむ」という呼応もある。
happinesからpiを「ついばみ」、さらに文字を少し入れ換えてことでhappenにし、ベケット論を展開する部分にも「ケ(か行)」、「からっぽ(空虚)」という「音」と「意味」が交錯する。吉増にとっては、「音」こそが「意味」なのだ。「音」こそが「肉体」なのだ。
ここからは、私の勝手な連想というか、「飛躍」なのだが。
吉増の詩は、そのことばは、きっと「肉体」の内部から出すものではないのだ。「声」は「肉体」に従属しているものではないのだ。(私は音痴のくせに「声・ことば」を肉体から切り離してはとらえることができないが……。)もし音と肉体に関連があるとすれば、吉増は彼自身の肉体を楽器と考えている。「意味」のあることばを発するというよりも、「意味」を超えた「音」を出すための特別な楽器--世界でたったひとつの楽器としての肉体という器官。この詩では、Kという音をより正確に出すために、肉体を酷使している。肉体が覚えている「K」を、自分の肉体を叩いて甦らせようとしている。
そういうふうに自分の肉体を叩くとき。
さっき私は吉増の「音」を打楽器といったが、吉増にとって、何かを叩き、そこから気に入った音が飛び出したときは、「肉体」の外にあるその「叩いたもの(叩かれて音をだしたもの)」も「肉体」なのだ。なぜなら、吉増が「叩く」ということ、「肉体」をつかうことで、はじめてその「音」は誕生したのだから。「叩く」ことは外にある「音」を肉体に取り込む作業でもあるのだ。叩くことで肉体の外と肉体の内部が「共鳴」する。
吉増の「肉体」は「打楽器」のなかへ侵入していく。「打楽器」そのものになる。
ことばを「打楽器」としてつかっている。
「喉」は(たぶん)、瞬間的にはひとつの音しか出せない。つまり「か」と言っているとき同時に「だ」とは言えない。けれど「打楽器」なら、そういうことはない。左手でガラスを破り、右手で水を叩く、左足では木を蹴る、右足では……と言うことができる。複数の音をひとりだ出すことができる。複数だから、そのとき、そこに「複数の沈黙」も同時に生み出すことができる。
打楽器の複数の音と複数の沈黙の同居、沈黙と拮抗する打楽器としての「詩音楽」という視点から吉増の詩を読むとおもしろいかもしれない。
吉増剛造の詩は、私は苦手である。「読めない」。声に出しようがない。私は黙読しかしないが、声に出して読むことができないと(無意識的に喉と耳を働かせないと)、文字は文字のまま、ことばにならない。こういう言い方が適切かどうかわからないが、吉増のことばを読んでいると、なにか「点字」のことばを見ているような気がする。そこに「何か」があるのだろうけれど、そしてそれを読む方法を知っている人にはそれがわかるのだろうけれど、私にはとても遠い。そういう印象がある。だから、いつも困惑していた。これって、何語? まあ、吉増語なんだろうけれど。ところが、今回読んだ「K」はとてもおもしろかった。短かったせいもあるかもしれない。あっという間に読んでしまった。そして、あ、わかった、と思った。この「わかった」は自分なりに「誤読」できる、という意味なのだが……。
「K」はルビのように傍点「、」が打たれているし、「……」のかわりに「、」が行の中央にきていたりしている。私のワープロでは、それを再現できない。私の「引用」は吉増の意図を正確に反映したものではないので、原文は雑誌で確かめてください。(傍点「、」は省略した。ほかにも送り文字など、表記をかえている部分もある。)
ナナカマド、灰神楽
雪の奥に金星が埋められていて”失意”という名がついていた
啄(ついば)むトリもいない”失意という名の金星”、、、、
幸福(しあわせ)(hapines )のpiを、啄むようにした
サミュエル・ベケットは空虚(からっぽ)(void)があるだけ
大雪の、、、(Asahikawa )もしか、、、、
Kが、傍らで囁いていたかもしれなかった
鎌倉右大臣源実朝が”玉くしげ箱根のうみはけけあれや”
と歌ったときに、、、、謎の聲がした”荊(K)君?”
何処からか、、、、
一行目の「カ」「神」には傍点「、」が打ってある。ほかにも「金星」の「金」、「Asahikawa 」のk や、最後の「からか」の「か」にも傍点「、」がある。「か行」の「音」にこだわっている。源実朝にわざわざ「鎌倉」ということばを補っているところからも、吉増が「カ」にこだわったことがわかる。
で、そうすると、この詩がとてもおもしろい。変な言い方だが(?)、そうなのか、吉増は「カ(か行--金星やけけれが含まれるからね」の音に刺戟を受けたのか。そしてその「カ」は「K君」というだれかの名前の音なのか……。そういうことがわかるし、カ(か行)」の音の散らばり方も音楽的。
そして、その音楽は、きのう読んだ横山宏子の音楽が弦楽器のように切れ目のない旋律のようなものなのに対して、吉増の場合は打楽器的。大好きな音が出るまで、何かを叩いている感じがする。そして、その音さえあればそれでいいという感じ。まわりの音は、この詩の場合「K」という音を輝かせるための、連想。
で、そこには「ついていた」「啄いばむ」というしり取りもあれば、さらに「しつい」「ついばむ」という呼応もある。
happinesからpiを「ついばみ」、さらに文字を少し入れ換えてことでhappenにし、ベケット論を展開する部分にも「ケ(か行)」、「からっぽ(空虚)」という「音」と「意味」が交錯する。吉増にとっては、「音」こそが「意味」なのだ。「音」こそが「肉体」なのだ。
ここからは、私の勝手な連想というか、「飛躍」なのだが。
吉増の詩は、そのことばは、きっと「肉体」の内部から出すものではないのだ。「声」は「肉体」に従属しているものではないのだ。(私は音痴のくせに「声・ことば」を肉体から切り離してはとらえることができないが……。)もし音と肉体に関連があるとすれば、吉増は彼自身の肉体を楽器と考えている。「意味」のあることばを発するというよりも、「意味」を超えた「音」を出すための特別な楽器--世界でたったひとつの楽器としての肉体という器官。この詩では、Kという音をより正確に出すために、肉体を酷使している。肉体が覚えている「K」を、自分の肉体を叩いて甦らせようとしている。
そういうふうに自分の肉体を叩くとき。
さっき私は吉増の「音」を打楽器といったが、吉増にとって、何かを叩き、そこから気に入った音が飛び出したときは、「肉体」の外にあるその「叩いたもの(叩かれて音をだしたもの)」も「肉体」なのだ。なぜなら、吉増が「叩く」ということ、「肉体」をつかうことで、はじめてその「音」は誕生したのだから。「叩く」ことは外にある「音」を肉体に取り込む作業でもあるのだ。叩くことで肉体の外と肉体の内部が「共鳴」する。
吉増の「肉体」は「打楽器」のなかへ侵入していく。「打楽器」そのものになる。
ことばを「打楽器」としてつかっている。
「喉」は(たぶん)、瞬間的にはひとつの音しか出せない。つまり「か」と言っているとき同時に「だ」とは言えない。けれど「打楽器」なら、そういうことはない。左手でガラスを破り、右手で水を叩く、左足では木を蹴る、右足では……と言うことができる。複数の音をひとりだ出すことができる。複数だから、そのとき、そこに「複数の沈黙」も同時に生み出すことができる。
打楽器の複数の音と複数の沈黙の同居、沈黙と拮抗する打楽器としての「詩音楽」という視点から吉増の詩を読むとおもしろいかもしれない。
裸のメモ | |
吉増 剛造 | |
書肆山田 |