詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェフ・ニコルズ監督「ラビング 愛という名前のふたり」(★★★★)

2017-03-12 19:42:43 | 映画
ジェフ・ニコルズ監督「ラビング 愛という名前のふたり」(★★★★)

監督 ジェフ・ニコルズ 出演 ジョエル・エドガートン、ルース・ネッガ、マートン・ソーカス

 とても静かな映画である。異人種間の結婚の自由を勝ち取るまでの「法廷闘争」と思ってみていたら、法廷闘争はいつまでたっても出て来ない。これは一種の「肩すかし」だが、愛というのは法廷で勝ち取るものではないのだから、これはこれでいいのだろう。
 印象的なシーンはいくつかあるが、一番印象に残るのはジョエル・エドガートンとルース・ネッガがテレビを見ているシーン。ライフの記者がいるのだが、テレビを見ながら笑っているうちにジョエル・エドガートンがルース・ネッガにもたれかかり、やがて膝枕を借りるように身を倒す。とてもリラックスしている。愛とはリラックスできることなのである。
 ジョエル・エドガートンが弁護士に判事に言いたいことがあるかと問われ、「妻を愛している」と答えるシーンもいい。「法律」とか「権利」とは関係がない。愛する、愛さないは二人の問題であって、他人には関係がない。あんたたちは、どうせ他人。わかりはしないだろう、という感じで言い放つ。これはそのまま、二人の問題なのに、なぜ他人があれこれ「法律」で規制する必要があるのか、という批判となっている。
 妻のルース・ネッガが、闘争に身をのりだしていくのに対して、ジョエル・エドガートンの方は身を引くようにして動く。そのときの思いのすべてが、このシーンにこめられている。
 勝訴を電話で知らされてから、それをルース・ネッガがジョエル・エドガートンに告げようとするシーンもすばらしい。喜びをしっかりとかみしめている。ことばにしなくても、その充実感だけでジョエル・エドガートンにすべてが伝わる。ジョエル・エドガートンも喜びの声を上げるわけではない。
 やっと、当然のことが当然のことになった。それは当然のことだから、特に喜ぶことでもないということなのかもしれないが、この「静かさ」が、とても重い。当然のことが当然になるまでには時間がかかる。その時間を、ゆっくりと確かめている感じだ。
 ジョエル・エドガートはいつものように車の手入れをしている。そのまわりでは子供たちが遊び回っている。緑が広がる大地。何の危険もない。何をするのも自分次第。その自由がある。

 この映画の見どころは、もうひとつある。緑の美しさ。アメリカ映画の緑は、私はどうも好きになれない。なにか濁っている。ところがこの映画ではとても美しい。「フィールド・オブ・ドリーム」のような、わざと色をつけたような緑ではなく、とても自然だ。二人のくらしている町の緑が、畑が、とても美しい。途中に挟まれるワシントンDCの緑が貧弱(街灯のまわりの芝生?とか、町中の木とか)で、いつものアメリカ映画と同じ水分の足りない緑であるのと対照的である。
 ルース・ネッガがしきりに故郷の緑を恋しがり、子供たちを自然のなかで育てたいというのだが、その理由がとてもよくわかる。自然は当然と重なり合っている。
 さらに注目したのが、ジョエル・エドガートの「仕事ぶり」。左官仕事なのだが、いつも「水準器」をもっている。「水平」と「まっすぐ」を「水準器」で確かめている。そうか。仕事が「人間性」をつくるのか。そういうことを納得させる。趣味(?)で車の整備をしているのもおもしろい。いまあるものをどうやって改良していくか、どうすればよりよいものになるか、そういうことを「手仕事」としてやっている。そういう「仕事」の延長に「結婚の自由」がある。
 ふたりにとって、それは「自然」なことであり、「当然」なことだった。だから、この映画は、それを「劇的」に描くことを避けた、とも言える。
 最初に戻って。ライフのカメラマンが取材にくる。取材されている。しかし、そんなことは自分の関心外。テレビをいっしょに見て、笑って、体を寄せ合う。それは自然で当然なこと。自然と当然が、そこにはっきりと切り取られているから印象的なのだった。
 判事に訴えたいことも、自然で当然のことだけ。他人が自分たちをどう思うかは関係がない。愛しているから結婚する、一緒にいる。自然で当然のことをしているだけ、ということだろう。そこに、強さがある。
                      (KBCシネマ1、2017年03月12日)


 
 *

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又吉直樹「劇場」

2017-03-11 10:30:48 | その他(音楽、小説etc)
又吉直樹「劇場」(「新潮」2017年04月号)

 又吉直樹「劇場」はストーリーと描写と哲学が交錯する。「小説」の王道である。
 私は「見かけ」のストーリーには関心がない。目次に「上京して演劇を志す永田と恋人の沙希。未来が見えないまま、嘘のない心で結ばれた二人」が、「見かけのストーリー」である。「枠組み」である。
 「見かけのストーリー」とは別に、「真のストーリー」がある。「他人」が突然登場して、世界を活気づかせる瞬間がある。それが「描写」となって全体を引き締める。たとえば、

沙希が僕に気遣って話すのを止めた時、その静けさはとても大きな音として僕の神経を逆なでするようになった。(68ページ)

アパートの中は妙に冷えていたのに、外気に触れると着ているものが膨らむ感触があった。(88ページ)

 その描写の特徴は、表面的な叙述から始まり、ことばの力を借りて反転するように深まるところにある。「静かさ」が「音」として「神経を逆なでする(うるさい)」にかわる。「冷えている」ものは「小さい」あるいは「固まる」という印象がある。たとえば、氷。それが「膨らむ」にかわる。
 ここに、ことばでしかできない運動がある。そして、その運動の「奥」に又吉の「過去(時間)」というものが噴出してきている。表面から内面へと視線を動かし続けてきた意識のあり方が見える。「劇場」というタイトルに合わせて言えば、役者で言うところの「存在感」が「手触り」として浮かび上がる。

感傷を抱えて公園に立ちよっても見下ろされるような視線を感じると、そればかりが気になって、自分がなにに悩んでいるのかわからなくなることがあった。(46ページ)

 というものもある。何かを「感じる」。あるいは「気づく」。その「感じ/気づき」にとらわれて、そこに入って行ってしまう。最初に引用した部分は、

沙希が僕に気遣って話すのを止めた「のを感じた/のに気づいた」時、その静けさ「ばかりが気になって」、それははとても大きな音として僕の神経を逆なでするようになった。

 ということである。何かを感じて(気づいて)、自分がそれまでとは違う状態に「なる」。「逆なでするようになった」「わからなくなることがあった」のなかにひっそりと動いている「なる」という動詞が、ほんとうの「ストーリー」である。「着ているものが膨らむ」には「なる」という「動詞」はないが、そのあとの「感触」ということばを手がかりにすれば「膨らんだ感じになった」という形で「なる」が隠れているといえるだろう。
 「なる」というのは、ひとが変化すること。二人が出会い、二人が変わる。それは好きになる、嫌いになる、待た好きになる、けれどどうしようもなくて別れるというような変化でなく、「内部」の変化、認識の変化を意味する。こういう描写が又吉のことばの動きを支える底力である。
 もうひとつの魅力は「哲学」。「哲学」ということばは、実際に17ページに出てくるだけれど……。また、「演劇論」や「小説論」という形でも書かれているのだが、私が「哲学」と強く感じるのは、正面切った「論」ではない部分。

 頭の中で構成され熟成され審査を受けて、結局空気に触れることのない言葉と、生まれた瞬間空気に触れる言葉がある(16ページ)

 この考察を借りて言えば、「生まれた瞬間空気に触れる言葉」、言い換えると「他人」にぶつかることばの方に「論になる前の哲学」(純粋な哲学)を感じる。

「正直すぎて感情をどれかひとつに絞られへんねやと思う」(32ページ)

「主張と感情と反応が混ざって同時に出てまうねん」(33ページ)

 沙希の「人物描写」なのだが、外側からの描写ではなく、内部での変化を書こうとしている。それまでの沙希が新しい沙希に「なる」瞬間、その内部で何が起きたかを書いている。「内面」描写である。
 「描写」がそのまま「哲学」に昇華していく。

「創作ってもっと自分に近いもんちゃうんか」(85ページ)

 ということばがあるが、「自分に近い」とは「自分の内部に忠実」という意味だろう。沙希の「人物描写」が「外形」ではなく「内部の変化」としてとらえられているということは、沙希が主人公永田の「内部」になっているということでもある。沙希を自分に近づけてことばにしている。それはほとんど永田自身でもあるということになる。
 ここに「恋」が濃密に書かれている。

幾日か洗髪していない人間の頭皮の生々しい匂いや、かさぶたを剥がし血がにじんだ時の痛みを書こう。(26ページ)

この主題を僕は僕なりの温度で雑音を混ぜて取り返さなければならない。( 100ページ)

 と又吉は「小説作法(小説論)」も語っている。膨大な「演劇論」も展開されている。「小説」はそういうものをすべてのみこんで動いていく。そういう「王道」の小説を又吉は書いている。それは何か、「欠点」が全部噴出して、それが輝かしいものに変わるような力業である。そういうことを指摘するひとはきっと多いだろうと思う。それはそれでおもしろいが、一回書いたら、二度目は自己模倣になる。正面切った「哲学」というか「論」は、どうしても「ひとつ」になってしまう。その「ひとつ」からはみ出し、「ひとつ」になることを拒絶している「描写」の方に、魅力を感じる。「論」を組み込むにはもっと長さと登場人物が必要だろうと思う。「論」がぶつかりあわないと、「論」が「描写」にならない。そういう意味では「大長編小説」(1000枚以上)のものを読んでみたいという欲望をそそられる。

新潮 2017年 04月号
クリエーター情報なし
新潮社
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クリスティアン・ムンジウ監督「エリザのために」(★★★★★)

2017-03-10 21:36:39 | 映画
監督 クリスティアン・ムンジウ 出演 アドリアン・ティティエニ、マリア・ドラグシ
 グザビエ・ドラン監督「たかが世界の終わり」(★★★★★)を思い出した。アップのシーンが多い。台詞が重い。ただ「エリザのために」を先に見ていたら、「たかが世界の終わり」には★を5個つけなかっただろうなあ、と思った。
 好みの問題かもしれないが、私は「エリザのために」の方が好きである。台詞が少なく、「間合い」が微妙で、とてもおもしろい。
 たとえばアドリアン・ティティエニがしきりに台所に立つ。こまめに何かをつくる。料理というほどのものでもない。サンドイッチだったり、飲み物(アルコール?)だったり、デザート(リンゴ)だったり。妻がいるのだが、夫が食べたり飲んだりするものに、あまりかかわらない。いや、いっさい手伝わない。最初は理由がわからない。酒を飲むならかってに飲んだら、くらいの感じかなあと思っていたのだが、映画が進むに連れて、夫婦仲が冷えきっていることがわかる。夫には愛人がいて、妻はそれを知っている。ふたりはエリザ(マリア・ドラグシ)のために、家庭を守っているにすぎない。
 その大事なエリザが卒業試験(大学受験資格試験?)の前日にレイプ未遂にあう。動揺して、試験でいい成績がとれるかどうか心配になる。エリザよりもアドリアン・ティティエニの方が、結果を気にする。なんとかいい成績を取らせたい。成績が悪いとイギリスへ留学できない。そのために「コネ」をつかって、様々な工作をする。それが、対社会的な人間関係(検察をまきこんだ不正捜査)という動きだけでなく、「家庭」に深く影響してくる。親子、夫婦関係を、厳しく圧迫してくる。きしみが大きくなる。
 アドリアン・ティティエニはエリザが夫婦関係が冷えきっていることに気づいていない、少なくとも愛人がいることを知らないと思っているが、エリザは気づいていた。エリザは学校まで父親に送ってもらうときがある。渋滞もしていない道で、突然クラクションを鳴らす。愛人の家のそばを通るのとき、通ったよ、と合図している。それに気づく。そして祖母が倒れたとき、医者である父親を愛人の家まで呼びにくる。そして、父親に、母と話し合え、と迫る。
 エリザに夫婦関係の「嘘」を知られてしまって、アドリアン・ティティエニと妻の関係は、激しく崩れ始める。このやりとりのなかで、私はひとつのシーンにみとれてしまった。アドリアン・ティティエニが夜の飲み物(あるいはデザート?)のためにオレンジを切っている。その手元(左手)がスクリーンの左下に映し出される。顔は見えない。右側の空いたスクリーンの奥にドアがあり、そのドアを開けて妻が出て行く。この肉体の対比が、とてもおもしろい。アドリアン・ティティエニは自分のなかに閉じこもっている。オレンジを切る手すら動かない。一方、妻は全身を動かして、夫に別れを告げる。ことばではなく、肉体の動きで、完全に決裂してしまう。
 「たかが世界の終わり」でも、マリアン・コティヤールが沈黙するラストシーンが印象的だったが、肉体そのもので時間を動かしていくシーンというのは、映画の強みである。芝居にはできない「アップ」の映像が、とても効果的なのである。
 妻の決裂が決定的になったあと、アドリアン・ティティエニが愛人の家に行く。愛人がミートボールスープの残り(ミートボールなし)を温めて、アドリアン・ティティエニに出す。「ミートボールは?」「いや、いらない」というようなやりとりが、そっけなくて、非常に深みがある。最後の一滴までスプーンですくって食べるシーンにも、不思議な説得力がある。「時間」を感じてしまう。「過去」が「いま」に噴出してきている感じがすばらしい。

 映画は、アドリアン・ティティエニの家の窓ガラスが破られるところからはじまる。誰かが石を投げ込んだのだ。そのあとアドリアン・ティティエニの車のフロントガラスも被害に遭う。誰がやったのか、映画のなかでは説明されない。しかし、愛人の子供を公園で遊ばせているとき、その子供が他の子供に石を投げるシーンがある。これは、子供がガラス窓に投石したことを暗示させる。
 子供はどこかで母親とアドリアン・ティティエニの「愛人関係」に不安を感じていたのだろう。そしてその不安、あるいは不満を訴えていたのかもしれない。
 これは、映画のなかでは「答え」を出していない。出していないからこそ、おもしろい。
 人間というのは、とても敏感な生き物である。アドリアン・ティティエニのように、医師として成功している人間よりも、未完成な人間の方が不安に揺れ動く。そして制御がきかなくなる。暴走してしまう。幼い子供がそんなことをするはずがない、と大人は思うが、大人の「常識」を超えるのが子供である。

 そして、この「大人の常識を超える子供」という視点から、この映画を見ると、また別な面も見えてくる。
 レイプ未遂にあったエリザは不安に揺れ動いている。「弱い」存在である。しかし「弱い」だけではない。試験でいい成績をとるための「不正方法」を教えられるが、不正をしない。いい成績を納め、イギリスへ留学するという夢があるのだが、その夢のために不正をするという方法を拒む。子供には「純粋」という強さがある。
 それがアドリアン・ティティエニを初めとする大人の「弱さ」をじわりじわりとあぶりだしていく。「弱さ」は「愚かさ」と言い換えることができるかもしれない。
 ある意味で、非常に怖い映画でもある。
                       (中洲大洋3、2017年03月10日)

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千人のオフィーリア(メモ32)

2017-03-10 01:01:11 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ32)

春を告げるミモザは
黄緑色の強烈な謎。
遠い国からやってきて、
突然私の目を讃える。

鳥が騒ぎだすように
恋の予感が騒いでいる。
新しい太陽の光が
感覚のなかで光る。

私は不安でいっぱいだ。

空へ果てしなく落ちていく青と、
庭の椅子の白の間を
音楽が駆け抜け
世界はかわる。


The magic box―谷内修三詩集 (1982年)
クリエーター情報なし
象形文字編集室
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中川智正「肉牛の眼」ほか

2017-03-09 10:44:18 | 詩(雑誌・同人誌)
中川智正「肉牛の眼」ほか(「ジャム・セッション」創刊号、2012年08月発行)

 「ジャム・セッション」は江里昭彦が中川智正と出している同人誌。江里が同人誌を思い立った理由が書かれている。

 被告のころからすでに短歌・俳句の実作を試みていた中川氏は、私との面会が不可能になる直前、歳時記の差し入れを希望した。これからも継続して詩歌を作りたいという意思表示であると理解した私は、最後の面会において、ふたりだけで同人誌を出そうと提案した。

 「これからも継続して詩歌を作りたいという意思表示であると理解した私は」には、ふたつの「主語/述語(動詞)」がある。「中川」はこれからも継続して詩歌を作りたいと「思っている/意思表示をした」。「江里」は中川の歳時記の差し入れ希望を詩歌を作り続けたいという意思と「理解した」。中川は俳句を作り続けたいと直接言ったわけではない。でも、江里は「理解した」。
 そうか、「理解する」とは、こういうことなのか。「他人」を引き受けること。「他人」のなかにある、まだ「ことば」にならないものを引き出し、一緒に生きること。「他人」もかわるが、引き受ける自分もかわる。その覚悟をもつことが「理解する」。
 「ジャム・セッション」という同人誌の名前は、ふたりの関係を明確に語っている。「結論」はない。ただ、「はじめる」という「動詞」があるだけだ。「はじめる」は「かわっていく」でもある。

 その「変化」、「かわる」は、「肉牛の眼」の最初の句にあらわれている。江里への挨拶、「ジャム・セッション」を読むひとへの挨拶の句。

立春や卵も立つと習いけり

 「まえがき」がついている。「中学時代の教科書にあった随筆の内容を思い出して」とある。オウム真理教の引き起こした事件の死刑囚としてではなく、まだ何も知らなかった中学時代の自分を思い出して、そこから「自己紹介」している。できるなら、あのころへ帰りたいという思いがあるかもしれない。「習った」ことを、どうしたのか。それは書かれていないが、知らなかったことを「習う」。そして、それを「覚える」。あるいは、その瞬間を「思い出す」。ひととの出会いは、自分が無意識のうちに「覚えている」ことを「思い出す」ためにある。ひととの出会いは「覚えている」ことを「思い出させる」。「思い出させてくれた」江里への挨拶(感謝)として、この句を読んだ。

笑われつつ裸足で踏みしインドかな

 インドへ行ったら裸足で大地に触れる。裸足で触れることでインドのいのちに触れる。そう「習った」のだろう。「習った」ことを、正直に実践している。「笑われる」ということを「引き受けている」。ここにある「変化」も美しいと思う。

肉牛の眼が出廷車映し過ぐ

 この「肉牛の眼」(肉牛の存在)は「幻」か。なぜ、中川は「肉牛の眼」を思い出したのだろう。いつ、中川は肉牛を見たのだろう。肉牛は何を受け入れていたのだろうか。何を受け入れていると中川は感じたのだろうか。
 「映し過ぐ」という表現は、肉牛が出廷車を見ながら通り過ぎた、ということかもしれないが、私は「映し/過ぐ」とふたつの「動詞」として読んでしまう。肉牛が出廷車を「映している」。肉牛は動かず、その眼のなかを出廷車が「過ぎていく」。動いていくのは、あくまで出廷車(中川がそのなかにいる)である。ふたつの動詞が交錯して、その瞬間に「世界」が「ひとつ」のものとして結晶する。
 肉牛は死刑囚の乗った出廷車を受け入れる。中川は中川をみつめる肉牛の眼を受け入れる。「現実」か「幻」か。断定はしない。その瞬間の「交錯」をただ「肯定する」。
 深い悲しみ、悲しむことのできる「強さ」を感じる。

 「二〇一一年一二月九日に、最高裁から判決訂正申立書の棄却決定書が届く。刑確定。この日は夏目漱石没後九五年の命日」というまえがきのある句。

刑決まり去私には遠く漱石忌

 「去私」か。「遠く」か。語られていないことばが重い。

蜘蛛枯れて血のごと細き糸遺す

 「枯れて」というのか。「血」ということばがなまなましい。このとき中川は何を引き受けていたのだろうか。「遺す」という動詞から、「遺したい/遺りたい」という意思を感じる。細いものであってもいい。血のように、生きてきたということを遺したいということか。

生きのびて見るや蜘蛛の屍はこぶ蟻

 「見る」。生き延びた結果として、蟻が蜘蛛の屍を運んでいるのを「見る」ことになった、という意味だろうか。あるいは蟻が蜘蛛の屍を運んでいるのを見て、もっと生き延びて「みよう」と思ったということか。生きるために蜘蛛の屍を運ぶ蟻のように、か。死んでなお、蟻の食料として「生きる」蜘蛛のように、か。「見る」も「生きる」も「死ぬ」も、断定できない。互いが互いを「引き受けている」。引き受けて「ひとつ」になっている。

 江里の句では、

虹仰ぐとき無防備の一家族

 これが印象に残った。「一家族」という体言止めが何か不安定で、その不安定が「無防備」とぴったり重なり、くすぐったい感じがする。虹を一心に引き受けている。そのために自分を忘れてしまっている。その、おかしさ。かなしさ。美しさ。
 江里と中川のあいだに懸かっている虹を思う。
ロマンチック・ラブ・イデオロギー―江里昭彦句集
クリエーター情報なし
弘栄堂書店
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千人のオフィーリア(メモ31)

2017-03-09 00:54:08 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ31)

私は私を無視してあなたをみつめている。
あなたはあなたを無視して私をみつめている。

私は私の私を知らない。
あなたはあなたのあなたを知らない。

けれど私の私はあなたのあなたを知っている。
あなたのあなたは私の私を知っている。

私の私、あなたのあなた、
私たちは私たちを無視して互いをみつめている。
いつも。

あなたがいないときもあなたがいないことを無視して。
私がいないときも私がいないことを無視して。
外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
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書肆侃侃房
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宇部京子「とうさんの海」

2017-03-08 09:17:32 | 詩(雑誌・同人誌)
宇部京子「とうさんの海」(「毎日新聞」2017年03月07日夕刊=西部版)

 毎日新聞夕刊の「特集ワイド」に宇部京子「とうさんの海」が掲載されている。

さみしいとき
うれしいとき

まよったとき
つかれたとき

とうさんの海に
会いにいく

とうさんとおなじ 歩幅で
すなはまを あるく

とうさんとおなじ 背中で
かいがらを ひろう

とうさんとおなじ 目線で
水平線を みる

とうさんとおなじ 手つきで
はまなすを たおる

とうさんの海は わたしのふるさと
 ザッポーン ザッポーン
 ザッラーン ザッラーン

 東日本大震災の、津波の被災者である。
 同じことばが繰り返される。同じことばを繰り返したい。繰り返すことで、そこに書かれていることが「ひとつ」になる。宇部は「とうさん」になり、「海」になり、「すなはま」「かいがら」「すいへいせん」「はまなす」になる。「とうさん」になるときは、「とうさん」の「動き(動詞)」が宇部の肉体で繰り返される。肉体で繰り返すことで、「とうさん」の「歩幅」「背中」「目」「手」になる。
 どこにも嘘がない。

 そして、なによりも。

 ザッポーン ザッポーン
 ザッラーン ザッラーン

 この繰り返しがいい。「ザッポーン」は、もしかしたら、聞いたことがあるかもしれない。私にも、なんとなく「思いつく」ことができるかもしれない。しかし「ザッラーン」は思いつかない。波の音に「ラ」の音があるとは知らなかった。
 知らなかったけれど。
 聞いた瞬間、あっ、たしかに「ザッラーン」と聞こえる、と「思い出す」。
 「思い出す」というのは変な言い方だが、たしかに聞いた気がする。光があふれていて、どこまでも広がっていく海。その「広さ」を感じる。「広さ」を思い出す。
 私が直接聞いたのでなければ、私のなかの「遺伝子」が聞いた音。

 宇部と私はつながっている、と私は「誤読」する。海が好き。「さみしいとき/うれしいとき/まよったとき/つかれたとき」海を見る。みつめる海は違うけれど、「みつめる」という「動詞」のなかで「ひとつ」になる。「肉体」が解放されていく。「私」を超えて、海をみつめている「いのち」と「ひとつ」になる。
 この波の音を、私はけっして忘れないだろう。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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作品社
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千人のオフィーリア(メモ30)

2017-03-08 01:06:06 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ30)


今夜、川がオフィーリアを発見した、そのすばらしい体を。
キスをするとき舌と舌が激しくもつれて、
「もっと」。ほかのことばが無意味になったみたいに「もっと」
こころが叫んだとき熱のある肌が大きく起伏して、
遠くでフクロウが闇に嘘をついていた。
春のやわらかい葉裏になって風が手のように動いた。

今夜、川は裸になってオフィーリアを追いかけ、
今夜、川はなめらかなまま光る激流になってオフィーリアをえぐり、
「もっと」。あえぎながら初めて自分をとりもどすオフィーリアの
すばらしい体に重なる裸として月に発見された。
橋の上を猫が音を立てずに歩いている
一枚の絵がしなやかに動いてきて鏡のなかに映る今夜。

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高貝弘也「祝福」

2017-03-07 10:36:44 | 詩(雑誌・同人誌)
高貝弘也「祝福」(「森羅」3、2017年03月09日発行)

 高貝弘也「祝福」は、行間、字下げが複雑にできている。行間、字下げにも「意味」や「感覚」があるのだろうけれど、私にはつかみきれない。(引用したことばが、ネットにアップしたとき正確に反映するかどうかわからない。原文は「森羅」を参照してください。)

あなたへ返す、初心


悲願の血と 光と



   あなたの 悲しいほどの、
   うらなさよ



夕暮れ
さみしい日の、影送り

 これは、前半。「ことば」が散らばっていて、どう把握すればいいのかよくわからない。特に「うらなさ」につまずいてしまう。私は「うらなさ」ということばをつかったことがない。何をあらわしているのだろう。
 辞書を引けばいいのかもしれないが、私は目が悪いので辞書は引かないことにしている。間違っていたら間違っていたでかまわない。自分が覚えていること(思い出せること)を中心にして、ことばを動かしてみる。動かしながら「うらなさ」のなかにあるものを探してみる。
 「うらなさ」のまわりにあることばのひとつに「あなた」がある。書き出しにも「あなた」が出てきている。その「あなた」を「共通項」にしているということを頼りに考える。一行目には「初心」ということばもある。この「初心」と「うらなさ」は通じるのだと思う。
 また三連目の「あなた」のまわりには「悲しい」ということばがある。四連目に「さみしい」ということばがある。「悲しい」と「さみしい」はどこかで通じている。そして、その四連目には「日」「影」ということばがあり、それは二連目の「光」と通い合っているようにも思える。
 「光(日)」「影」「夕暮れ」「さみしい」「悲しい」と「初心」は、何か共通するものがあるだろうか。ぼんやりとことばのなかを往復していると「純粋」とか「澄んだ」ということばが浮かんでくる。「透明」ということばも。
 で、突然。
 あ、「うらなさ」とは「裏がない」ということなのか、と思う。「裏がない」とは「単一」。純粋を指し示すだろう。「初心」は純粋なものだ。純粋なものは傷つくことが目に見えている。だから「悲しい」という感情をどこかで刺戟する。「さみしい」ということにも通じる。
 透明だから、その奥に流れている「血」も見える。「願い」も見える。「悲しい」ほど切実な「願い」。それは同時にひとを導く「光」でもある。

 さて。
 では、それを「あなたへ返す、」とはどういうことだろう。
 「あなた」の「初心」を「私(書かれていないが)」は知っている。「あなた」を見ていて「あなたの初心」を思い出すというこが「返す」ということかもしれない。「あなたの初心」を知った、あの瞬間に、私が引き「返す」ということかもしれない。
 「返す」は他動詞だが、自動詞の「返る」と通い合うものがあるはず。「帰る」にも「変える」「変わる」にも通じるだろう。「あなたの初心」を「あなた」に「返す」。「あなたの初心」が私を「あの瞬間」に返す。私は「あの瞬間」に「返る/帰る」。そして、私も「変わる」。いや、私が「変わる」。
 「あなたのうらなさ」は「私のうらなさ」を思い出させる。だから「悲しい」「さみしい」。純粋な「光(朝の光)」がやがて「夕暮れ」になり、「影」を持つ。「悲しい」「さみしい」。
 「返す」「返る」「帰る」「変える」「変わる」。動詞の変化のなかに「時間」がある。それを「うらなさ」が、ぐいっとつかんでいる。「裏がない」では散文的すぎて、この凝縮感というか、いろいろなものを一気に感じさせる「強さ」がない。「うらなさ」という、ちょっと「わかりにくい」感じが、いろいろなものがぎっしりつまりこんでいて「わかりにくい」という感じとぴったりあうなあ。「わかりにくい」のだけど「わかりにくい」ということが「わかる」。つまり、何かを「わかりかけている」感じが刺戟的。こういうことを、ただ思ったままに書いていくことが私は好きだ。

 「影」は一方で「光」そのものでもある。「月影」「星影」は「月の光」「星の光」である。それはまた「純粋」を思い起こさせる。「うらなさ」(裏がない)の透明さを呼び覚ます。
 「影送り」とは「影(光)」を「送る」ということかもしれない。「送る」は「返す」に似ている。「渡す」と言いなおすと「返す」と「送る」は同じ行為になる。「うらのない影」を、純粋な(しかし、すこし悲しくさみしい)光を、「渡す」。
 だれに? 「あなたに」か。あるいは「私に」か。これは、特定できない。あるいは相対的に決定してはいけないことなのだろう。「返す」が「返る」に通じるように、「渡す」も、「あなたに渡す」ことは「私に渡す」ことに通じるのだ。
 ここから世界が動く。

枯草 首をいっせいに揺らして

やっと散りしぶいた、光の芽よ


 その光る子を、また
 ふあやすつもりで


--ついに魂がころげだしたよ
青いお玉じゃくしの縁から

 「あなた」は一輪の花かもしれない。枯草のなかから生まれてきた新しい花。光の誕生。誕生する光の「子」。「うらのない」美しさ。

木の下闇の片隅で、
        あなたは祝福されている

 そう書くとき、高貝は、その花を「祝福している」。同時に、高貝新しい花として生まれ変わり(誕生し)、詩から祝福されているとも言える。
 ことばのなかにある不思議な往復、特定することを拒絶してすばやく動く何か。そこに高貝の「本当」があるのだと思う。


高貝弘也詩集 (現代詩文庫)
高貝 弘也
思潮社
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粕谷栄市「死んだ男」

2017-03-06 11:22:42 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「死んだ男」(「森羅」3、2017年03月09日発行)

 粕谷栄市「死んだ男」は、繰り返し、言い直しによって少しずつことばが動いていく詩である。

 死んだ男が、最も恐れなければならないことは、自分
が、既に死んでいることに気づかずに、日々を過ごして
いることである。
 たしかに、自分は、昔から住んでいた町にいて、永年、
営んできた筆屋の店にいる。少し、変わっていることと
いえば、もう何年も、一人も筆を買いにくる客がいない
ことである。

 「死んでいることに気づかずに、日々を過ごしている」は「何年も、一人も筆を買いにくる客がいない」ことによって証明(?)される。「たしかに」ということばが証明を導き出す。

 筆のことだったら、自分は何でも知っている。だが筆
屋であるからには、どんな筆も売れなければ、何の足し
にもならない。どうして、この店に客が来ないのか。

 証明というのは、次々に根拠を求めるものである。「どうして」ということばが次の証明を要求している。
 このあとが、おもしろい。

 つまり、それは、死んだ男にかかわる一切が、この世
のものでないからだが、悲しいかな、まさに、そのこと
が、彼には分かっていないのである。
 それが、彼の運命だったと言うべきだろう。死んでか
らも、人間に運命があるとしてだが、結局、彼は、その
不毛の運命に翻弄されていたのである。

 「つまり」は言い直しなのだが、ここに語られることは「どうして、この店に客が来ないのか」の説明にはなっていない。どこかに新しい筆屋ができたとか、ひとはもう筆をつかわなくなったとか、というのが「現実的」な説明だろうけれど、ここで語られるのは、そういうことではない。
 「現実」から反転して「この世ではない」ところから状況が言いなおされる。ここに「飛躍」があるのだが、その「飛躍」を「つまり」という「論理」のことばが隠している。「論理」というのは「飛躍」してしまうと「論理」ではなく「空想(でたらめ)」になるのだが、それを「つまり」という「ことばの肉体」が引き止める。
 ここで、うまく言えないが、何かがゆっくり捩じれていく。
 そして「運命」ということばが出てくる。「死んでからも、人間に運命があるとしてだが」という「仮定」がねじれを「論理的」にする。「仮定」によって捩じる。「仮定」は「運命に翻弄されていた」という「断定(結論)」として言いなおされる。「運命に翻弄される」というのは常套句というか、「流通言語」なのだが、その「流通言語」が「空想」を「現実」に引き戻す。ひとは(読者は、私は)、何かしら「運命に翻弄された」ことを思い出す。どうしようもないものにまきこまれて、違う「人生」を生きてしまった、というようなことを思い出す。つまり、「わかる」。わかってしまう。
 全然知らない「筆屋の男」のことなのに、なぜか、そういうことはあるなあ、と納得する。
 ここからまた、何か見聞きしたことのある「現実」が動き出す。

 従って、彼は、普段は、さまざまな筆に囲まれている
筆屋の男であるが、深夜になると、自分の住む町を徘徊
して、見かけ次第、女の下着を盗まずにいられない、情
けない性癖を持つ男になっていたのである。
 結局、彼は人々に捕まった。最後に、彼がしたことは、
死んだ男が死んだ男になるためにしたこと、自らの店で、
首を吊って、自らの生涯を閉じることだったのである。

 「従って」「結局」と、ここでも「論理」がことばを統一している。その「論理」のなかで、独特なのは「死んだ男が死んだ男になるためにしたこと」という不思議な繰り返しである。
 この部分は意味的には「不要」である。「彼がしたことは、自らの店で、首を吊って、自らの生涯を閉じることだったのである。」で十分である。この十分な部分に「自らの」を初めとする「繰り返し」がある。「彼がしたことは、自らの店で、首を吊ることだった。」わかるし、「自らの」というよりも「自分の」と言った方が自然かもしれない。「自らの店で」の「自ら」は「自ら首を吊って」、生涯を「自ら閉じる」という具合に「動詞」につないでつかう方が自然だろう。不自然な形で「自ら」をつかうことで、「自ら」を強調している。
 だから、最初に意味的には「不要」と書いたのだが、実は、この「不要」こそが必要なことであるというべきなのである。
 言いなおすと、ここでは男が首を吊って死んだという「事実(意味/ストーリー)」ではなく、「死」という「結論(論理的結論)」に、どうかかわるかということを書きたくて書いたものだと言える。
 このあと、詩はさらに「論理」として「飛躍」する。

 考えれば、ばかばかしい迷妄に満ちたはなしだが、学
ぶべきことがないでもない。この世で、人間は、一度し
か生きられない。本当に、それは一度限りである。

 「考えれば」ということば「論理」そのものをあらわしている。その最後の部分、「人間は、一度しか生きられない。本当に、それは一度限りである。」に激しい「重複」がある。「本当に、それは一度限りである。」は、ひとによっては書かないかもしれない。
 けれども、粕谷は、書く。
 この重複の「本当」を粕谷は探している。「本当」にたどりつくために、「論理」を動かしている。その「論理」が空想に見えても、それは「本当」につながっている。他人にとっては「空想」であっても、粕谷にとっては「本当」。これに先の「自ら」を重ねると、「本当」は「自らの本当」ということになる。「自分にとっての本当」というのが一般的な言い方だけれど、粕谷は「自らの本当」と言うだろう。「自ら選んだ本当」という意味である。

 この「自ら選んだ本当」から池井昌樹の詩を読み返すと、池井の詩がなまなましくあらわれてくる。きのう紹介した「星」は幼いころに星を見ながら聞いた声のことを書いている。だれでも経験したことがあるかもしれない。その誰もが経験したことのなかにある「自ら選んだ本当(池井が選んだ本当)」のこととは何か。「なんぜんねんもむかし」が「いま」としっかり結びついているということ。池井は「なんぜんものむかし」を「いま」として「自ら選んでいる」。そして、それを詩に書いている。
 池井と粕谷は「自らの本当本当」を求めるという「動詞」でしっかりと重なっている。「同人誌」の理想が「森羅」によって具体化されている。

続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社
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パク・チャヌク監督「お嬢さん」(★)

2017-03-05 21:05:53 | 映画
パク・チャヌク監督「お嬢さん」(★)

監督 パク・チャヌク 出演 キム・ミニ、キム・テリ、ハ・ジョンウ 

 「オールド・ボーイ」「渇き」のパク・チャヌクが監督、ということで期待して見に行ったのだが。
 私はストーリー展開(逆転、また逆転の見えないラスト)という映画が嫌い。退屈してしまう。「肉体」に真実味が感じられない。人間性が見えてこない。
 この映画は「詐欺師」が登場した瞬間から、これはもう、最初から最後まで「逆転、逆転、大逆転」という展開になることがわかってしまう。ここで私はもう眠くなってしまった。舞台となる邸宅、英国式と日本式を合体させて家というのが嘘っぽいから、さらに悪い。こけおどし、ということばを久々に思い出してしまった。「謎」を演出しようとしているだが、薄っぺらという印象しかない。どこかの本物の邸宅をつかえばいくらか雰囲気は変わってきたかもしれない。本物が「嘘」を隠すという効果が生まれたかもしれないが、これでは嘘があふれすぎて退屈。
 だいたい「詐欺」というのは「ことば」が基本。「ことば」で騙す。そうすると、どうしても映画が「ことば」になってしまうのだが。
 うーん。
 あのたどたどしい「日本語」は韓国人、あるいは日本以外の外国人には、エキゾチックな効果があるのかもしれないが、私には「どっちらけ」。「声」が「肉体」になっていないから、退屈さに拍車がかかる。ストーリー展開のための「ことば」にすぎない。「声」に「過去」がない。言いかえると「存在感」がない。
 これを「ごまかす」ために二つの方法が取り入れられている。
 一つは、「ことば」そのもの。エロチックな稀覯本を収集している男がいる。ただ収集しているだけではなく、それを若い女に朗読させる。それを聞きながら、あるいは見ながら、男たちが興奮する。そういう「サロン」で、主役の「お嬢さん」と「伯爵(詐欺師)」が出会う。「ことば」は「真実」というよりも「欲望」を育てるための道具。「ことば」だけでは不十分なので(文学として完成していないので?)、それを「若い女」の「声」という仕掛けで刺激的にする。「お嬢さん」が読みながらどういう「欲望」を感じているかわからないが、聞いている方は自分と同じ「欲望」をもっていると思い込む。エロチシズムの「共犯者」と思って聞く。
 もう一つは、この「お嬢さん」を「声」だけではなく、実際に裸にして、セックスさせるという方法。「ことば」の映画なのに、「ことば」を忘れさせる。そういう仕掛け。さらに。「稀覯本」のなかのセックスは男と女なのに、映画で展開されるセックスは女と女。「お嬢さん」と「女中(いまは、こう言ってはいけないようなのだけれど)」。すでに映画では何回も描かれているけれど、それでもまだまだ「目新しい」。
 あまりおおっぴらには読まれない「セックスの稀覯本」、まだまだポピュラーとは言えない女性同士のセックスシーン。(しかも、おっぱいが小さい二人。)これが、ストーリーを「攪乱」する。
 これはたぶん「脚本」だけ読んだ方がおもしろい。「肉体」でストーリーを見せるには、韓国人の日本語ではだめだろう。「声」そのもののなかに「嘘(詐欺)」と「真実」を織りまぜるというのはネイティブでもむずかしい。それを韓国人がやるのでは、よほど達者でないと「紙芝居」になる。日本向けには公開しなかった方が「評判」に拍車がかかったかもしれない。
                       (中洲大洋2、2017年03月05日)


 
 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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池井昌樹「星」

2017-03-04 10:42:15 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「星」(「森羅」3、2017年03月09日発行)

 すでに紹介したが、「森羅」は手書きの文字をコピーして製本したもの。池井の、独特の「くねくね」した文字。何をつかって書いているのかわからないが、「筆」の文字に似ている。書き初めがしっかり意識されている。最後の「とめ」とか「はね」もしっかり意識されている。書き初めから、最後の「とめ」「はね」までゆっくりと「筆の腹」が紙の上を動いていく。その「ゆっくり」が見える文字である。
 なぜ、こんなことを書くかというと。
 きのう読んだ小笠原鳥類の詩のなかに、昔の本は「ザラザラ」していた、ということばがあったからである。小笠原は「ザラザラ」に「リアル」を感じ取っていた。「森羅」、池井の文字は「ザラザラ」ではないが、活字とは違った「抵抗感」がある。
 謄写版だったら、この抵抗感に「ザラザラ」も加わったかもしれない。謄写版(ガリ)がもっている「ドット」というか、「鉄筆」と「板」の網によって生まれる「途切れ」が、文字のコピーでは生まれない。謄写版に比べると、すこし「のっぺり」という感じがする。きのうの続きで言えば、「新しい科学」によって文字さえも「つるつる」になっている。
 でも、「抵抗感」はある。「軽み」がなく「ねっとり」した感じがある。私の知っている詩人で言えば、秋亜綺羅は池井とは対照的に「軽い」文字を書く。粘りけがない。秋亜綺羅は「抵抗感」を出すために、文字を「変形」させる。しかし、それは逆に「軽み」を強調することにもなっている。
 池井の文字は「変形」させたのではない。むしろ「変形」を避けようとして、奇妙に「ねっとり」してしまう。「ていねい」が、一種の「圧力」となって、私に迫ってくる。こういう「圧力」は、私は大嫌いなのだが、この大嫌いは池井という存在をとても強く感じてしまう、という意味でもある。
 感じなくてもいいのに感じてしまうのは、まあ、「好き」につながっていくことでもある。

 ということは、余分なことかもしれないし、余分ではないかもしれない。わからないけれど、思ったことは何か理由があって思うのだから、わからなくても、私は書いておくことにしている。

 さて。「星」である。

あのほしは
あのひかりはねえ
なんぜんねんもむかしのひかり
みみもとで
ささやきかける
あのこえは
だれだったのか
やはりおさないあねだったのか
ぼくをおぶったははだったのか
ほしだったのか
いまごろみみにとどくこえ
あのこえはねえ
なんぜんねんもむかしのひかり……

 最後の一行は「なんぜんねんもむかしのこえ……」と読み替えたくなる。星の光を見ている詩なのだが、誰かの声を聞いている詩という気がしてくる。「星」と「声」の区別がつかない、というよりも「声」があるから「星」があり、「星」があるから「声」がある。それは切り離せない。

あのこえは
だれだったのか
やはりおさないあねだったのか
ぼくをおぶったははだったのか
ほしだったのか

 ここで、私は、あっ美しいとびっくりしてしまうが、「声」「姉」「母」「星」が、どれ、と特定できない。特定(断定)を超えて、つぎつぎに入れ替わり、そのすべてが「真実」になる。「姉」が「真実」でも、「母」が「真実」でもない。「断定しない」ことが「真実」である。
 この「真実」は「一瞬」であり、「錯覚」のようなものなのだが、この「一瞬」を池井は「ねっとり」と定着させる。「永遠」にかえる。独特の、一種「歪んだ」とも言える文字のなかを、ゆっくりと動いていく。「ねっとり」は、池井がつかみとったものを「逃がさない」ための「方法」なのである。
 「あのひかりはねえ」の「ねえ」は「ねっとり」を強くするが、またやわらかくもする。「意味」ではない何かが動いている。

 この詩には「星の光」と「声」が書かれているだけだが、私は、また「闇」をも感じてしまう。深い深い闇。一切の光がない真実の闇。それは、やはり「なんぜんねんもむかしの闇」ということになる。
 「いま」なのに、「なんぜんねんもむかし」が一緒にある。「永遠」がある。
 この遠く隔たったものを「ひとつ」にするためには、池井の書いている「ねっとり」した「ていねいな」文字が必要なのだ。「ねっとり」と書くことで、書かれたものが「ひとつ」になるのだ。

 というようなことは、「テキスト」そのものとは関係がないかもしれない。
 池井の「手書きの文字」をそのまま紹介しているのではないのだから、こういう感想は無意味かもしれない。
 でも、私は「無意味」なことも書いておきたい。
 何かに共感したり、反発したりするとき、いろいろなものが作用している。それはそれで「真実」なのだと思う。
 「ことばの意味(論理)」にだけ反応して感想が動くわけではない。
晴夜
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小笠原鳥類「印刷と写真および詩について」

2017-03-03 09:37:57 | 詩(雑誌・同人誌)
小笠原鳥類「印刷と写真および詩について」(「現代詩手帖」2017年03月号)

 小笠原鳥類「印刷と写真および詩について」の詩を、きのう読んだ松浦寿輝の詩と比較して読むとどうなるだろう。「ダダ」「シュルレアリスム」ということばが出てくるから、この作品も特集に合わせて書かれたものだと判断しての比較になるのだが……。

今の印刷はとてもはっきりしたものであるのだが、ところで
いにしえのザラザラの印刷があった。昔、
例えば、思潮社の『ブルトン詩集』
(稲田三吉、笹本孝訳、持っているのは一九九四新装版)があって
とても昔の印刷だった。文字がザラザラで
ああ、いにしえの文字の印刷はザラザラで
生きている生きていると思った。写真も多くて

 どこが「シュルレアリスム」と思わない? どこが「ダダ」と思わない?
 私は小笠原のことも松浦のことも知らないから間違っているかもしれないが、松浦は綿と同じような年代。それに比べると小笠原は若い。この世代の「あいだ」に、科学というのはとてつもなく変化した。
 文字が「ザラザラ」という印象を与える「活版印刷」はいまはもうほとんど見ることができない。たいていが写植というのか、オフセットというか、よく知らないが凸版をつかわない。だから紙に凹みも生まれない。「ザラザラ」した手触りにならない。(視覚的にも「ザラザラ」という感じはない。)
 この「ザラザラ」を小笠原は「生きている」と言いなおしている。この「生きている」は「リアル(現実感)」ということだろう。「リアリズム(現実)」が、そこにある。リアリズムとは、「ザラザラ」、言い換えると「違和感」なのだ。肉体を刺戟する力なのだ。
 思えば、「シュルレアリスム」が現実感をもっていたのは、たぶん「科学」が「ザラザラ」した感じのときだったのだ。小笠原がことばをつかいはじめたときには、その「ザラザラ」は「印刷」に名残をとどめているだけで、「ことば」にはもう「ザラザラ」が存在しなかったということだろう。
 松浦の詩に「蒸気機関車」が出てきたが、いまの列車は「電気」で動いているし、スピードも速く、レールの継ぎ目も「ガタンガタン」といわない。石炭の煙かすが目に入って、目が「ザラザラ」するというような「肉体」の体験はなくなってしまった。電車、新幹線も古くなって、リニアカーというものまで生まれている。
 「科学」はどんどん「つるつる(すべすべ)」になっている。「ザラザラ」は過去になってしまっている。マックの製品は「ボタン(突起)」をなくし、つるりとしている。「科学」は「日常」を「つるつる」にしたのである。
 だから。
 もし、現代の「シュルレアリスム」があるとしたら、それは手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いのような、「違和感」とは違うものでなければならない。もう「シュルレアリスム」が「ザラザラ」であってはいけないのだ。「ザラザラ」は「レトロリアリズム」なのである。
 小笠原が書こうとしていることは、私の感想とはかけ離れているかも知れないが、小笠原の詩を読みながら私が感じたのは、そういうことだ。

 「シュルレアリスム」は科学の変化(日常の科学に対する意識の変化)といっしょに終わってしまっている。「シュルレアリスム」の作品を見ても、誰も「シュル」とは思わない。「スーパーリアリズム」の方が、「日常の科学」を刺戟する。えっ、これが絵? 写真よりも精密じゃないか。写真よりも、もっと「見たいもの」をえぐりだしているじゃないか、という驚きで評価されていないだろうか。

新しい印刷であっても、ザラザラな印刷のような
いにしえの鳥のような、森の奥に住む言語を書くことが
必要だ必要だ、印刷のコンピュータの新しさと
戦わなければならないだろう。

 さあ、どうかなあ。
 「ザラザラ」「いにしえ」は「日常の科学」とは乖離したもののように私には感じられる。
 これからどんな運動が生まれてきて、それを「●●●リアリズム(レアリスム)」と呼ぶことになるのかわからないが、小笠原よりももっと若い世代、「つるつる科学」しか知らない世代でないと、「現実」はえぐり取れない時代になっているのかもしれない。
 古い古い世代の私は、そう思う。

 このことは、こんなふうに言い換えることもできる。
 いつの時代もひとを動かすのは「リアリズム」だけである。「シュルレアリスム」が生まれたときも、それを生み出したひとは「シュル」とは思っていないだろう。「真のレアリスム」と思っている。そうしないと人間は動けない。「シュル」ということばをつかったのは、古いリアリズムと「切断」するためである。新しいリアリズムへ踏み出すためには「切断」が必要だ。そのために「シュル」と言ったにすぎない。
 ひところ流行した表層を駆け抜けるような詩は、「つるつるの科学」のリアリズムとどこかで共振しているだろう。いま流行している主語/述語の「脱臼」したような詩は、「つるつるの科学」への抵抗かもしれない。(だから、そこに登場する素材も、レトロを通り越して、とても古い。)
 いつでも「温故知新」というのは大切なのだろうけれど、なぜ、いま「シュルレアリスム」なのだろうと思ってしまう。

 違った視点からもう少し。
 最近読んだ本では閻連科「年月日」(谷川毅訳)に「リアリティ」を感じた。「寓話」あるいは「童話」のスタイルとも言えるのだが、そこに登場する「音」の描写がすばらしい。私の聞いたことのない「音」が書かれている。その「音」に触れるたびに、私自身の「肉体」が生まれ変わる感じがするのだ。あ、耳をすませば、こういう「音」が聞こえるのだ、と実感できる。古い私をたたききり、新しい私を生まれさせてくれる。そういう「きっかけ」を私はリアリズムと呼ぶ。



小笠原鳥類詩集 (現代詩文庫)
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松浦寿輝「魚は目覚めたまま夢を見る」

2017-03-02 10:05:52 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦寿輝「魚は目覚めたまま夢を見る」(「現代詩手帖」2017年03月号)

 「現代詩手帖」2017年03月号は「ダダ・シュルレアリスムの可能性」という特集を組んでいる。松浦寿輝「魚は目覚めたまま夢を見る」はそれに合わせた作品か。

幽霊が忍び足で入ってくる
川底に沈んだ水族館で月の最終木曜の深夜に開かれる
藍玉(アクアマリン)と天河石(アマゾナイト)と琥珀(アンバー)と燐灰石(アバタイト)のオークション
魚が目覚めたまま見る夢は鉱物質の涙に結晶するからだ

 私は、この四行を読んで、「シュルレアリスム」の教科書みたいだ、とも感じた。私の感じている「シュルレアリスム」がそのまま「ことば」になっている。
 「シュルレアリスム」とは何かと聞かれたら、その「答え」を私はもっていないが、「感じ」としては、松浦の書いていることばが「教科書」になる。「感じ」だから、論理的には間違いかもしれないが、感覚的には「正直」を書いている。
 私は何を「シュルレアリスム」と感じていたのか。
 「切断」と「接続」の過激さである。

 「幽霊」あるいは「最終木曜」など、たぶんそれぞれの「ことば」に「出典」があるのだろう。どことなく「聞いた感じ」がある。「無意識」の底に沈んでいる「ことば」。これを次々に引用する。引用するときは、「切断」と「接続」が過激に行われる。この過激さを、私は「シュルレアリスム」と感じている。
 「月の最終木曜」は、「三月の最終木曜」とか「四月の最終木曜」として読むこともできるし、宇宙の「月」の「最終木曜」とも読むことができる。「川底に沈んだ」は「川面に浮かんだ」(川面の中に見える)と読むことができるので、「宇宙の月」が「接続」される。
 「切断」と「接続」は、松浦がやっていることだけれど、私の方でも勝手に「切断」と「接続」をやってしまう。だから私が「引用」と感じたものが「引用」でなくても「引用」になってしまうということもあるし、私が「切断」と感じたものは「接続」であり、「接続」と感じたものが「切断」ということもあるだろう。

 こういうとき、では、作品を作品として成立させるものは何だろうか。なぜ、このことばを私は「詩」と感じてしまうのか。

 ことばのリズムだ。私の場合は、ことばのリズムで、あることばを「詩」と感じ、あることばを「詩」と感じることができない、ということがおきる。
 「リズム」というのは不思議なもので、完全に新しい(まったく聞いたことがない)ものだと、ついてゆけない。どこかで聞いたことがあって、はじめて「耳」がついていく。そして、私が松浦の「詩」に感じる「リズム」とは、「ことばの論理」(論理のことば)がつくりだす「リズム」である。
 最初の四行を引用したのは、そこに「論理のことば」があり、それが私を安心させたからだ。
 「シュルレアリスム」とは一種の「でたらめ(現実を超えるもの)」だが、そしてその「でたらめ」というのは「接続」の仕方が「でたらめ」ということ。たとえば、手術台とミシンとこうもり傘が一緒にある(接続されてある)というのは「現実の病院(手術室)」では見ることができないから「でたらめ」と言える。
 松浦の、どのことばに私は安心したか。「論理」を感じたか。

魚が目覚めたまま見る夢は鉱物質の涙に結晶するからだ

 この行の「からだ」である。
 その前に「入ってくる」「開かれる」という「動詞」がある。その「動詞」をつなぐものとして「理由(論理)」が語られる。「……だからだ」。「魚が目覚めたまま見る夢は鉱物質の涙に結晶する」が「理由」になるかどうかは、問題ではない。それを「理由」にするということが「論理」ということである。「論理」とは「接続」によって生まれる。「論理」はいつでもつくりだすものである。「接続」させれば「論理」になる。

ところが炎をたなびかせた雌虎は夢のない眠りのなかで
一つの単語ともう一つの単語のあいだを苦しげに泳ぎ渡っては
脱輪して暴走する蒸気機関車のように交合しつづける

 「ところが」も「論理」のことばである。「逆」のことをつなげるためにつかわれることばである。それまでの「接続」を「切断」し、そこに「逆」のものを「接続」させる。「逆」の刺戟は「シュルレアリスム」にとって快感である。そんなものが「接続されるはずがない」という「常識」を否定し、「常識」の「逆」をつないでゆく「論理」。
 たとえば次の行。

水底を吹く風は精妙な地震計の針のように幸福な錯乱のように
戦争勃発直前の国境のように美しく慄えている

 「のように」「のように」「のように」。この「直喩」も「接続」の「論理」である。比喩とはかけ離れたものを「結びつける」こと。つまり「接続」すること。比喩のなかには「接続の論理」がある。

漂い流れてくる没薬と白檀のかけらの優しいかおりがうとましい
荒廃した水族館はもうあと何秒かすれば音もなく崩れ去るだろう

 「だろう」。推量のことば。推量も「論理」である。
 「接続」がどんなに非常識(シュル?)であっても、そこに「論理」あり、それがことばを支えている。「論理」にあうようにかけ離れたものが(矛盾するものが)結びつけられている。そのとき、実は「かけ離れたもの」さえも「かけ離れている」という「論理(意味/評価)」を生きている。

 シュルレアリスムというのは論理(科学)が「日常(常識)」になってきたからこそ生まれたんだろうなあと、私は勝手に思っている。
 いま引用した部分からだけでも「水族館」「鉱物(質)」「結晶する」「蒸気機関車」という「科学」の「身近さ」を感じさせることばがある。科学によって目覚めた「日常の夢」。科学が日常にならなかったらこの夢は生まれない。
 ここから別のことも考えられる。それは小笠原鳥類の作品に触れながら、あした書くつもり。


明治の表象空間
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林弘樹監督「惑う After the Rain 」(★★★★★)

2017-03-01 20:44:55 | 映画
監督 林弘樹 出演 佐藤仁美、中西美帆、宮崎美子、藤田弓子

 映像がとても美しい。ただ、この美しさは説明するのがむずかしい。舞台となっている古い旅館、その離れ(?)の畳や障子、柱、壁の美しさは、時間をかけて生まれてきた美しさである。宮崎美子が板の間(廊下)に雑巾をかけるシーンがある。つるつるの板ではない。ざらざらしている。しかし、木目にそって、ていねいに時間をかけて雑巾がけをすることで、つやをもってきている。この「木目にそって雑巾をかける」という仕種は、子供たちが塾の机に雑巾がけをするシーンで「ことば」として語られる。つまり、ひきつがれる。そういう「暮らし」が引き継いできたものが磨き上げた美しさである。わずかな水、布の摩擦が板をなめらかにしていく。「何時間」ではなく「何年」という繰り返される時間。そこには宮崎美子だけの時間ではなく、もっと前からの時間が積み重なっている。他人の時間をひきついでいく美しさである。
 冒頭の雨のシーンの緑の美しさも、日本独特のものだと私は感じたが、そこには日本人の「美意識」の時間があるのだろう。水と光と緑がどういうときに美しいものとして見えるか、ということを私たちは知らず知らずに「過去」から受け継いでいる。その受け継いでいる美意識が風景を切り取っている。だから美しい。
 で、主人公(と言っていいのだろうか)の佐藤仁美。私は、佐藤仁美を見るのは初めて。中西美帆を見るのも初めて。そして、佐藤仁美を見た瞬間に、あ、太っている。やぼったい、と感じた。顔がでかい、とも感じた。これを2時間見るのかと思うと、少し気が滅入ったのだが。
 なんと言えばいいのか。
 見ているうちに、妙に安心してしまった。無理して作り上げた「細いからだ」ではなく、生きているうちに自然に身についたたくましさを感じた。「太さ」のなかに「時間」を感じたのだ。「他人の時間」を引き継いで、「自分の時間」を太らせていく。この「時間」の「太さ」が、佐藤仁美の「肉体の太さ」で具体化され、それが映画全体のテーマとぴったり重なって感じられた。だんだん好きになってくる。
 いまはやりの「細いからだ」ではだめだなあ。きっと、まったく違った映画になってしまう。
 特に、風呂に入っている妹の中西美帆の対話のシーンがすばらしい。シングルマザーになる妹、その決意までの「時間」を思い、「太いからだ」で受け止める。「太い」からこそ、妹の「肉体」そのものを、そのまま「内部」に取り込むことができる。二人分の「感情」が佐藤仁美の「肉体」のなかで動く。「感情」というよりも妊娠した「肉体」そのものの変化を受け止めて、それが佐藤仁美の「感情」となって動いている感じ。
 裸の中西美帆と服を着たままの佐藤仁美が交互にスクリーンに登場するのだが、中西美帆の裸なんかどうでもいいから、もっともっと佐藤仁美が見たい、という気持ちになる。吸い込まれてしまう。
 佐藤仁美は「役どころ」としても「一家の大黒柱」なのだが、いやあ、すごいなあ。年をとって「肝っ玉母さん」を演じる女優は何人もいるが(この映画では、藤田弓子がそれに近い感じ)、若くて(何歳か知らないが……)、この「時間感覚」をもった「肉体」というのは、すごい。
 映画のなかで「家族とは何か」という問いが何回か出てくる。「鍋」だとか「花」などか、いくつか「答え」が語られるが、私には「ひきつがれる時間」と思えた。佐藤仁美は登場人物を、時には批判的に(冷静に)見ているが、それは「他人の時間」をどうやって自分の「肉体」でひきつぐか、それをゆっくりと手さぐりしているように感じられる。拒まず、引き受け、引き継ぐ。そういう「力」を感じさせる。

 今年のベスト1、というには早すぎるかもしれないが、傑作である。「東京物語」のように、時間が経てば経つほど評価が高くなる作品であると思う。
                        (中洲大洋4、2017年03月01日)


 
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