いやー、とにかく圧倒された。
物語にも、世界観にも、映像表現にも、音楽にも、芝居にも。
もちろん、物語や世界観については、原作が凄い!ってことになるのだろうけど、それにしたって、この畳み掛けるような展開は、これ、他に類がないくらいじゃないかな。
もちろん、自然環境との戦いという点では、ナウシカに近い感じもするけれど。
でも、「アビス」の深層という発想は、これ、どう考えても意識の深部に潜っていく、というものだよね。
事実、本作の黎明卿ボンドルドの拠点は「イド・フロント」だから。
イド=IDOでしょ。
それを潜っていく姿はまさに「井戸を掘る」のに近くて、思い切り村上春樹じゃん。
ってことは、河合隼雄であり、ユングってことにもなるよね。
あるいは、意識の深層に潜っていく、という点では、ノーランの『インセプション』のようでもある。
暴走したリドと対決したボンドルドが、「概念を力に変えている」とか言ってたし。
それって、もうまさに「心的エネルギー」ってやつじゃん。
欲望を以下に解放するか、ってことだよね?
あー、そうか、リコって「利己」だったんだ。
ゆるぎない自己(だけ)をもっているのがリコ。
だから、きっと深層で生まれても地上にたどり着くことができたのだろうな。
なるほど。
そういえば、プルシュカがアビスの呪いで自我を失ったのをしきりにボンドルドが愛を注ぐことで「人」に戻してきたのにしたって、あれはもう、生まれたての子どもをいかにして人にしていくのか、という教育過程の姿、そのものだよね。
分裂して弾けそうになる自我をなんとか一つの個体の中に閉じ込め、その中で統制が取れるようにする。
なるほどなぁ、これは自我の根底にあるもの?あるいはなにもないから「無」を探しに行く話なんだな、きっと。
そういう意味では、プルシュカがリコに対して言った「深層で母に会って一緒に冒険がしたいんだよ」というのが、リコの全てなんだろうけど。
でも、なぜ、父ではなく母か?といえば、まさに、ユング的な、グレートマザーの発想なんだろうな。
それで、母なる大地として、アビスの中には様々な生物群とそれらの連関による奇っ怪な生態系が生み出されることになる、というわけか。
となると、母と出会って冒険したい、というのは、一面で母との一体願望を表しているのだろうな。
そうすると、リコについてはその位置づけがわかったような気がするけど、リドとナナチはどうなのだろう?
リドは遺物の人形ロボットで、ナナチは人間をやめた「成れ果て」の知性体なわけで、どちらにしても人間ではない。
では、その人外2体が随伴することは、人間リコにとってはどういう意味を持つのだろう?
うーん、なんか深いなぁ。
もう一度、テレビシリーズのほうをみなしてみるかな。
それから、第2期がやるんだっけ?
で、アニメーションとしてみたとき、アクションも背景美術もともに凄い!のは、もう、ホントやられた!って感じ。
これ、ちょっと衝撃的な映像表現や、平気でちんちんとかおしっことかいって苦笑しないではいられないところが多々あるから、今ひとつ、人口に膾炙しにくい作品になってしまっているけど、
さっき書いたように、アビスへの冒険というのが、自我や自己を見つけるための心の奥底を目指す旅だとすれば、そうした殺害や排尿・排便といった原始的欲望が現れるのは、むしろ当然のことだから、そのあたりを正当に評価して、もう少しちゃんと語られたほうがいいと思うのだけど。
いやー、これ、想像以上にすごい作品だよ。
マジでびっくりするレベルの快作。
正直、これでも全然感じたことを書けている気がしない。
もう少し寝かしてから、何か記すかもしれない。
たとえば、最後にプルシュカが白笛になるところ、あれはなにかものすごく重要なことを象徴していると思うのだけど、まだ言葉にならないのがどうにももどかしいのだよ。
物語にも、世界観にも、映像表現にも、音楽にも、芝居にも。
もちろん、物語や世界観については、原作が凄い!ってことになるのだろうけど、それにしたって、この畳み掛けるような展開は、これ、他に類がないくらいじゃないかな。
もちろん、自然環境との戦いという点では、ナウシカに近い感じもするけれど。
でも、「アビス」の深層という発想は、これ、どう考えても意識の深部に潜っていく、というものだよね。
事実、本作の黎明卿ボンドルドの拠点は「イド・フロント」だから。
イド=IDOでしょ。
それを潜っていく姿はまさに「井戸を掘る」のに近くて、思い切り村上春樹じゃん。
ってことは、河合隼雄であり、ユングってことにもなるよね。
あるいは、意識の深層に潜っていく、という点では、ノーランの『インセプション』のようでもある。
暴走したリドと対決したボンドルドが、「概念を力に変えている」とか言ってたし。
それって、もうまさに「心的エネルギー」ってやつじゃん。
欲望を以下に解放するか、ってことだよね?
あー、そうか、リコって「利己」だったんだ。
ゆるぎない自己(だけ)をもっているのがリコ。
だから、きっと深層で生まれても地上にたどり着くことができたのだろうな。
なるほど。
そういえば、プルシュカがアビスの呪いで自我を失ったのをしきりにボンドルドが愛を注ぐことで「人」に戻してきたのにしたって、あれはもう、生まれたての子どもをいかにして人にしていくのか、という教育過程の姿、そのものだよね。
分裂して弾けそうになる自我をなんとか一つの個体の中に閉じ込め、その中で統制が取れるようにする。
なるほどなぁ、これは自我の根底にあるもの?あるいはなにもないから「無」を探しに行く話なんだな、きっと。
そういう意味では、プルシュカがリコに対して言った「深層で母に会って一緒に冒険がしたいんだよ」というのが、リコの全てなんだろうけど。
でも、なぜ、父ではなく母か?といえば、まさに、ユング的な、グレートマザーの発想なんだろうな。
それで、母なる大地として、アビスの中には様々な生物群とそれらの連関による奇っ怪な生態系が生み出されることになる、というわけか。
となると、母と出会って冒険したい、というのは、一面で母との一体願望を表しているのだろうな。
そうすると、リコについてはその位置づけがわかったような気がするけど、リドとナナチはどうなのだろう?
リドは遺物の人形ロボットで、ナナチは人間をやめた「成れ果て」の知性体なわけで、どちらにしても人間ではない。
では、その人外2体が随伴することは、人間リコにとってはどういう意味を持つのだろう?
うーん、なんか深いなぁ。
もう一度、テレビシリーズのほうをみなしてみるかな。
それから、第2期がやるんだっけ?
で、アニメーションとしてみたとき、アクションも背景美術もともに凄い!のは、もう、ホントやられた!って感じ。
これ、ちょっと衝撃的な映像表現や、平気でちんちんとかおしっことかいって苦笑しないではいられないところが多々あるから、今ひとつ、人口に膾炙しにくい作品になってしまっているけど、
さっき書いたように、アビスへの冒険というのが、自我や自己を見つけるための心の奥底を目指す旅だとすれば、そうした殺害や排尿・排便といった原始的欲望が現れるのは、むしろ当然のことだから、そのあたりを正当に評価して、もう少しちゃんと語られたほうがいいと思うのだけど。
いやー、これ、想像以上にすごい作品だよ。
マジでびっくりするレベルの快作。
正直、これでも全然感じたことを書けている気がしない。
もう少し寝かしてから、何か記すかもしれない。
たとえば、最後にプルシュカが白笛になるところ、あれはなにかものすごく重要なことを象徴していると思うのだけど、まだ言葉にならないのがどうにももどかしいのだよ。