内部にあるビザンツ様式のモザイクのユダの裏切りの接吻の場面です。「イエスを裏切ろうとしていたユダは『私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と、(官憲に)前もって合図を決めていた(マタイ26-48、その他)。
これはキリスト教では常識化されている話ですが、最近「ユダの福音書」が2006年に一般に公開されこの常識に波紋を投じました。
福音書というのはイエスの言行録の形をとった文書でイエスの死後数十種類あったとされます。それが現在正典として新約聖書におさめられているのがマタイ、ルカ、マルコ、ヨハネの4福音書だけです。
ここでまた余談話。マリアのお母さんはアンナという名前で宗教絵画では時々出てきますが、正典新約聖書には出てきません。排除された福音書「ヤコブよる原福音書」に出てくるだけです。
元に戻って、20世紀になり聖典から排除されたて知られなくなっていた福音書がたくさん見つかるようになりました。その一つがこの「ユダの福音書」で1970年代にエジプトで発見されましたが長い間日の目を見ませんでした。それを「ナショナル・ジオグラフィック社」が学者に依頼して科学的検証を行い2世紀ころギリシャ語からコプト語に訳された本物の写本であることが証明されました。
その内容は今までのキリスト教の常識を覆すものでした。その内容を「ユダの福音書」を翻訳したマービン・マイヤー氏の文章で紹介します。
「『ユダの福音書』で、すべてを説明し終えたイエスはユダの方に向き直り、『お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう』と語ります。イエスはユダに自分を裏切り、肉体から、内部にある真実の霊的自己を解放するように頼んでいるのです。ユダ自身も変容し、覚醒を自覚します。そして彼はためらうことなく、イエスが望んだとおりに官憲に引き渡し、磔刑へと導くのです」(ナショナル・ジオグラフィック2006年9月号特別付録p8)
つまり卑俗な言い方をすれば、磔刑はイエスの自作自演というわけです。
イエスが神(の子)であり、イエスの死と復活がキリスト教の成立の絶対不可欠要件だとするとユダが裏切ったのではないというこの話の方が一番自然だと私には思えるのですが。皆さんどう思われますか。
どこかの国のどの美術館であったかも忘れましたが、マリアがほほえみの表情を見せたピエタをみた記憶があります(記憶違いかもしれません)。もちろん一般的にはマリアがイエスの屍を抱く悲しみの図像ピエタなのですが、私はキリスト教の教えからいってほほえみの方がむしろ自然なような気がしています。そしてこの「ユダの福音書」の話とも一致するように思えるのですが。
ついでにまた余談話を。このピエタの状況の絵画や、彫刻はキリスト教国では氾濫していますが、聖書には一切記載がありません、この「ユダの福音書」について詳しく知りたい方は上記の「別冊付録」、「ナショナル・ジオグラフィック日本版2006年5月号」、ナショナル・グラフィック社のDVD「ユダの福音書」をご覧ください。