風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

江戸川詩吟道場参加

2013年03月09日 | 詩吟
かなっくの練習をさせてもらうため、江戸川詩吟道場へ。

相棒さんも参加して、桜花の詞の練習を二回ほど。
特に、最後の合吟部分に焦点を当てて、聞いていただく。

その他、かなっくの練習と、その1週前のコンクールへ出場吟の練習。

「道場」の名のごとく、切磋琢磨の場所で、新しい吟を習う場所ではなく、練習研鑽の場なのです。

遠慮せず、問題点を指摘し合える場所として、唯一貴重な練習場です。

上達してくると、なかなかコメントを頂けることが少なく、一人悩むようになるのです。
悩みつつも、熱心な方、もっと上を目指す方は、あきらめることなく本当に謙虚です。
今日の練習は、それを、知る日となりました。

一見、意見をだすと拒否されるかとのイメージを持っている方が、とても謙虚に聞いてくださって、その通りに吟じ直し素適な吟になったことが、目覚ましくうれしいことでした。

日頃指導的な立場にいると、謙虚になれない場合が多いのです。

私自身、自戒せねばならないと思うのです。


今日の練習が、当たり前のやり方と私は思うのだが、東京芦孝会ではめったに、行われないやり方でした。そんなお稽古風景で、大きな成果を上げたことは、鳥肌が立つほどでした。

自他ともに認める実力者が、本当に素直に謙虚であったことは目覚ましいことでした。
こういう練習は、関西人だけのものではないと思う。
シャイで、ええかっこしいの部分は、プライベートだけにして、なるべく早く打ち壊したほうがよい。
上達するには、恥をかくことも大事といってしまうと、「正論」とたたかれてしまう。
大人になってからの、お稽古ごとの情の部分に触れると、まず、学生時代に自我をぶち壊されてから、詩吟を習った私には、毎回学習が至らなくて、「おっ!」と驚きひいてしまう。

これが、日ごろ接してない人の多い多教室へ練習に伺った時の、気をつけねばならないところ。


















   right今日、私が言ったこと。left

耳から育つ。
聞くことから上達が始まる。

音程には、上目のおとがある。その音を正しく引き出してあげること。転句の高い音が伸びやかさを持ち美しく響く。
上目の音を意識してだせるかどうかが、面白味のない暗い吟からの脱却になる。



   rightright今日感じたことleftleft

CDやHPから吟を聞いていると、自分もそのような上手い吟をしている錯覚に陥るのです。
その間違った目を覚ますために、自分の吟を他に聞いてもらい正当な評価を受けねばならない。
その評価は、どちらにも、ちょっとつらいかもしれないけど、早いうちにしてあげなければ、天狗の鼻がどんどん長くなり、収拾がつかなくなる。
傷の浅いうちにつらい作業は、受けなければ、してあげなければ。

はい、そうですね。どれも、「正論」です。



詩吟のことを書き始めて(かな?)、初めてひねくれている私である。
私のいうことは、「正論」と言われたことに、拘っている。
こだわりを持つようになったということは、先が見えてきたってことかなぁ。
謙虚であることは、難しいこと。
練習しなきゃ。


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