風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

施設訪問

2013年09月08日 | 詩吟
SYK主催の関吟共催(だと思う)施設訪問に参加させていただきました。

何か心に響くことがあると、泣き顔をするそして、涙を出して泣いてしまうわけではないのですが、それが唯一の感情表現となった晩年の父を思い出す方がいらっしゃいました。

その方の反応の仕方は、目で見るものより、体に響くものに敏感なように見受けました。

初めてお見かけして遠目に観察していただけで、間近で感じたことではないのですが、父を思い出すことで、却ってそばには近づけなかったというのが正直なところです。

その方には、詩吟の声(音)の響きは何かしらの心の動きに作用するようでした。

たとえ、耳が遠くなっても、詩吟の声は声としてでなくても音の響きとして感じられるのだと思います。
そう思うのは、聞こえない人は、空気を伝わってくるもの床を伝わってくるものを皮膚感覚でとらえると聞きました。

却って、目の見えない人には、初めは強烈に伝わってしまうのだとおもいます。
目の見えない人は、吟じる人の体の準備を見ることがでません。
無防備に音を浴びせられるので、耳の感覚が研ぎ澄まされている人には、強烈な音として聞こえるはずですから、大きな声を出しますよと一言伝えた方が良いのでしょう。


私たち詩吟の出番になった時、その方がより、反応が顕著になるのを感じて、目が離せなかったのです。
そして、最後の私、忘れるはずのない慣れ親しんだ詩吟を、4行目で絶句しました。
さて、こんな時、後ろの人たちがささやいてくれるはずですが、こんなところで、絶句するはずがないと手放していてくださったようで、そのサメ[トがなく、困ったぞと思っていたら、そうだ、聞いてくださっている方々が、詩を印刷したものを持っているのに気づき、三歩先の最前列の方の手元にあるものを見せていただいて、次を続けることができました。
仲間内では、大笑いでした。

もう少しゆとりがあれば、次のシナリオになったと思うのです。

私 「絶句・・・ あれ?次の詩を忘れてしまいました。 皆さんのお手元にある紙には何   とかいてありますか? 4行目をよんでみていただけますか。」

観客 「さもあらばあれ かきょうの・・・・」(と、読んでいただければよし、もし、
    反応がなければ、読みに行く。)
私  「まぁ、ありがとうございます。それでは大変失礼いたしました。続けます。」

なんてことができたかもしれません。

忘れるはずがないと思っている詩も、よそ見をして感情を別の方向に動かしていると、真っ白になるものですねぇ。」

ライブの場面では、機転が肝要。勉強をしました。

そして、仲間の皆さん、ごめんなさい。





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