『天籟』 有るがままに調和している様子、荘子の理想とした境地。
そして、「天籟を聞く」とは、自他の区別を忘れ、無心になり切り、自然のリズムと一つになること。
漢文学窓『里仁』教科書(208頁)を手に、須藤先生が、読み解く「荘子」論。
荘子は、人間が「知」と言うものに拘束されて、自然から遠ざかっていると言う。
作為を捨てて無心になりきると、限りない調和の世界に入ることができるのだという。
作為を捨てることがどれだけ難しいことか。
自然にふるまっているつもりでも、自分の心を覗くと、恥ずかしいことに、作為まみれの自分に気づく。
傍若無人でも、自分のあるがままに行動することのほうが、「良し」なのだろうか。
天籟の前に、人籟と言うのがあって、これは、楽器の音とも、人が奏でる声とも言います。
地籟は、地上のうろが風を受けて鳴る響きです。
大地が息をすると、風が起こり、地上のあらゆるうろは一斉に音を発する。
ということなら、人も、うろを内に抱えていて、そのうろに風を吹き込むことによって、音を奏でていることになる。
有るがままに調和して奏でられる音すなわち声は、どれほど、人の心を喜ばせるのだろう。
まてよ、大地と違って、人のうろには、なかなか自然に風は吹きこめないねぇ。
人間にとっての風は、何のことだろう。
いずれにしても、人間に吹き込んだ風が、体のうろをめぐって、声帯を通るとき、風の音としてではなく、歌としてでてくると、もうそれは、作為になるのかなぁ。
此の処、立て続けに、民族音楽や民族の声を耳にしてきたけれど、あれは、人籟だったのだなぁ。
特にシャングリラでの、人の声は、あるがままの発露が周りのものと調和して、心を揺さぶるものであったのだけれど、それは天籟と言っても良いのだろうか。違うのかなぁ。
「知」によってコントロールされて、一見平和に見える身の周りは、本当は、悲劇の一幕なのかも。
一見、知的にコントロールされているように見える世界でも、実は、情によって、回っている世界もある。
自然のリズムとは、無心であることで、調和し、体にしみこむ。
「無心であること」と論じることすらもうそれは、無心からほど遠いものになってしまう。
須藤先生の語る言葉を、今の私は、このように思いをめぐらして、すべて、詩吟のことにおき替えて考える。
すると、苦しかったことが、消えたり、心の問題だけでなく、発声のメカニズムについても、答えが出てきたりして、心と体とはぴたりと張り付いているものなのだと、不思議に思う。
有るがままの調和を手にするには、とてつもない時間がかかるなぁ。
そして、「天籟を聞く」とは、自他の区別を忘れ、無心になり切り、自然のリズムと一つになること。
漢文学窓『里仁』教科書(208頁)を手に、須藤先生が、読み解く「荘子」論。
荘子は、人間が「知」と言うものに拘束されて、自然から遠ざかっていると言う。
作為を捨てて無心になりきると、限りない調和の世界に入ることができるのだという。
作為を捨てることがどれだけ難しいことか。
自然にふるまっているつもりでも、自分の心を覗くと、恥ずかしいことに、作為まみれの自分に気づく。
傍若無人でも、自分のあるがままに行動することのほうが、「良し」なのだろうか。
天籟の前に、人籟と言うのがあって、これは、楽器の音とも、人が奏でる声とも言います。
地籟は、地上のうろが風を受けて鳴る響きです。
大地が息をすると、風が起こり、地上のあらゆるうろは一斉に音を発する。
ということなら、人も、うろを内に抱えていて、そのうろに風を吹き込むことによって、音を奏でていることになる。
有るがままに調和して奏でられる音すなわち声は、どれほど、人の心を喜ばせるのだろう。
まてよ、大地と違って、人のうろには、なかなか自然に風は吹きこめないねぇ。
人間にとっての風は、何のことだろう。
いずれにしても、人間に吹き込んだ風が、体のうろをめぐって、声帯を通るとき、風の音としてではなく、歌としてでてくると、もうそれは、作為になるのかなぁ。
此の処、立て続けに、民族音楽や民族の声を耳にしてきたけれど、あれは、人籟だったのだなぁ。
特にシャングリラでの、人の声は、あるがままの発露が周りのものと調和して、心を揺さぶるものであったのだけれど、それは天籟と言っても良いのだろうか。違うのかなぁ。
「知」によってコントロールされて、一見平和に見える身の周りは、本当は、悲劇の一幕なのかも。
一見、知的にコントロールされているように見える世界でも、実は、情によって、回っている世界もある。
自然のリズムとは、無心であることで、調和し、体にしみこむ。
「無心であること」と論じることすらもうそれは、無心からほど遠いものになってしまう。
須藤先生の語る言葉を、今の私は、このように思いをめぐらして、すべて、詩吟のことにおき替えて考える。
すると、苦しかったことが、消えたり、心の問題だけでなく、発声のメカニズムについても、答えが出てきたりして、心と体とはぴたりと張り付いているものなのだと、不思議に思う。
有るがままの調和を手にするには、とてつもない時間がかかるなぁ。