大阪の文楽座では、年中、吉田玉男は出演しているが、寒い12月には東京へ来ないとか、少しづつ出演を控えるようになった。
数年前、俊寛の後半を一番弟子玉女に代わったし、今回も、冥土の飛脚の最後の「道行」は、桐竹勘十郎に代わった。
玉男の豪快な立ち役がもう観られなくなって久しいが、燻し銀の様な渋いパーフォーマンスはシンプルになればなるほど益々冴えてきている様な気がする。
玉男・簔助の冥土の飛脚は、数年前国立文楽座で観ているので今度が二回目で、前回は、相合駕籠で始まる道行も玉男が演じていた。
追っ手が迫って来ており捕獲されるのは時間の問題、一時間でも一日でも一緒にいる時を大切に生きたい、必死の思いの新口村への逃避行、霙霰交じりの寒風の中を転げながら裏道を落ち行く忠兵衛と梅川の姿が悲しい。この舞台、時には肺腑を抉るような浄瑠璃と三味線の情感たっぷりの伴奏が実にセツナイ。
今回、一番弟子勘十郎が、師匠簑助との呼吸抜群で実に詩情豊かな忠兵衛を演じていた。
新町槌屋の遊女梅川に現を抜かす飛脚問屋亀屋の跡取り息子忠兵衛、身請けするのに250両必要だが用意できる金ではない。
手付けに打った50両が友人丹波屋八右衛門の預かり金の流用、友に詰られ大見得を切ってご法度の公金の封を切り散財して身請けするが、後は悲しい必死の逃避行。
「淡路町の段」の後半、夜更けに届いた堂島蔵屋敷への300両を届けるために出かけるが、自然と足が北の堂島ではなく南の新町へ向かう。
梅川が何か用があって神の導きかも知れん、と言って心を偽るが、行ってのけようか、止めにしようか、と迷いながら西横堀をうろうろ、運命の分かれ道だが、軽快な三味線の音にのってステップを踏む玉男の巧みな芸が堪らなく悲しく胸を打つ。
結局、忠兵衛は、迷いに迷って、「エイイ、行ってしまえ」、新町に向かい冥土の飛脚になってしまう。
クライマックスの「封印切の段」。
新町佐渡島町「越後屋」で、八右衛門が忠兵衛の身代の棚卸を始めているのを聞きつけて、怒りに吾を忘れた忠兵衛が駆け込み、大見得を切る。死ぬ思いで2階で聞いていた梅川が必死になって駆け下り忠兵衛を口説き諭すが、忠兵衛は公金の封を切って50両を叩きつける。
二枚目の美しいかしら「源太」の忠兵衛が、鬢が一筋ほつれ少し左に顔を背けて俯きうなだれる、身体全身で苦痛と悲しさを噛み締める玉男の至芸。
身もだえし身体全身を忠兵衛にぶっつけて忠兵衛を掻き口説く梅川の必死の訴え、見世女郎とは言え、こんなに情の深いいじらしい女がいるであろうか、簔助の実に美しい人形使いが女の美の極致を見せて魅了する。
死を覚悟している梅川の強さはどこから来るのであろうか。文楽の大坂男は不甲斐ないが、文楽の大坂女は実に強く潔い。
竹本綱大夫の語りと鶴澤清二郎の三味線が堪らなく胸を締め付ける。
玉男と簔助の近松が何時まで鑑賞出来るか、科学と違って、芸の世界は一代限り、その先を継承できないのが悲しい。
歌舞伎で、仁左衛門と玉三郎の「冥土の飛脚」を観ているが、生身の歌舞伎役者の演じる舞台は、もっと切ない。
蜷川演出の「近松心中物語」で、三津五郎と樋口可南子の忠兵衛と梅川の舞台も、実に美しく感動的であった。
近松の戯曲、曽根崎心中も、心中天の網島もそうだが、人間の弱さ悲しさ愛しさをこれほどまでに感動的に描いた作者が居たであろうか。
シェイクスピア劇に通い続けて随分になるが、近松はシェイクスピアに決して劣っていないし、日本の和事のパーフォーマンス・アートは、欧米に比較して決して遜色はないと思っている。
鴈治郎の坂田藤十郎襲名が、年末に予定されているが、実に素晴らしいことである。
数年前、俊寛の後半を一番弟子玉女に代わったし、今回も、冥土の飛脚の最後の「道行」は、桐竹勘十郎に代わった。
玉男の豪快な立ち役がもう観られなくなって久しいが、燻し銀の様な渋いパーフォーマンスはシンプルになればなるほど益々冴えてきている様な気がする。
玉男・簔助の冥土の飛脚は、数年前国立文楽座で観ているので今度が二回目で、前回は、相合駕籠で始まる道行も玉男が演じていた。
追っ手が迫って来ており捕獲されるのは時間の問題、一時間でも一日でも一緒にいる時を大切に生きたい、必死の思いの新口村への逃避行、霙霰交じりの寒風の中を転げながら裏道を落ち行く忠兵衛と梅川の姿が悲しい。この舞台、時には肺腑を抉るような浄瑠璃と三味線の情感たっぷりの伴奏が実にセツナイ。
今回、一番弟子勘十郎が、師匠簑助との呼吸抜群で実に詩情豊かな忠兵衛を演じていた。
新町槌屋の遊女梅川に現を抜かす飛脚問屋亀屋の跡取り息子忠兵衛、身請けするのに250両必要だが用意できる金ではない。
手付けに打った50両が友人丹波屋八右衛門の預かり金の流用、友に詰られ大見得を切ってご法度の公金の封を切り散財して身請けするが、後は悲しい必死の逃避行。
「淡路町の段」の後半、夜更けに届いた堂島蔵屋敷への300両を届けるために出かけるが、自然と足が北の堂島ではなく南の新町へ向かう。
梅川が何か用があって神の導きかも知れん、と言って心を偽るが、行ってのけようか、止めにしようか、と迷いながら西横堀をうろうろ、運命の分かれ道だが、軽快な三味線の音にのってステップを踏む玉男の巧みな芸が堪らなく悲しく胸を打つ。
結局、忠兵衛は、迷いに迷って、「エイイ、行ってしまえ」、新町に向かい冥土の飛脚になってしまう。
クライマックスの「封印切の段」。
新町佐渡島町「越後屋」で、八右衛門が忠兵衛の身代の棚卸を始めているのを聞きつけて、怒りに吾を忘れた忠兵衛が駆け込み、大見得を切る。死ぬ思いで2階で聞いていた梅川が必死になって駆け下り忠兵衛を口説き諭すが、忠兵衛は公金の封を切って50両を叩きつける。
二枚目の美しいかしら「源太」の忠兵衛が、鬢が一筋ほつれ少し左に顔を背けて俯きうなだれる、身体全身で苦痛と悲しさを噛み締める玉男の至芸。
身もだえし身体全身を忠兵衛にぶっつけて忠兵衛を掻き口説く梅川の必死の訴え、見世女郎とは言え、こんなに情の深いいじらしい女がいるであろうか、簔助の実に美しい人形使いが女の美の極致を見せて魅了する。
死を覚悟している梅川の強さはどこから来るのであろうか。文楽の大坂男は不甲斐ないが、文楽の大坂女は実に強く潔い。
竹本綱大夫の語りと鶴澤清二郎の三味線が堪らなく胸を締め付ける。
玉男と簔助の近松が何時まで鑑賞出来るか、科学と違って、芸の世界は一代限り、その先を継承できないのが悲しい。
歌舞伎で、仁左衛門と玉三郎の「冥土の飛脚」を観ているが、生身の歌舞伎役者の演じる舞台は、もっと切ない。
蜷川演出の「近松心中物語」で、三津五郎と樋口可南子の忠兵衛と梅川の舞台も、実に美しく感動的であった。
近松の戯曲、曽根崎心中も、心中天の網島もそうだが、人間の弱さ悲しさ愛しさをこれほどまでに感動的に描いた作者が居たであろうか。
シェイクスピア劇に通い続けて随分になるが、近松はシェイクスピアに決して劣っていないし、日本の和事のパーフォーマンス・アートは、欧米に比較して決して遜色はないと思っている。
鴈治郎の坂田藤十郎襲名が、年末に予定されているが、実に素晴らしいことである。