熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

マイケル・キンズレー著「ゲイツとバフェット 新しい資本主義を語る」 その3

2009年05月12日 | 政治・経済・社会
   ビル・ゲイツの創造的資本主義は、資本主義経済の恩恵から阻害させている、最貧国や1日1ドルの飢餓状態にある10億の最貧の人々など弱者に対する救済への願いが色濃く込められているのだが、もっと広く一般的な概念として捉えて、社会への慈善や善行と言った志向のみならず、地球温暖など環境対策やその他社会の公正や正義を追求すると言った、企業の社会的責任(CSR)の問題として捉えて、議論されているケースが、かなり多い。

   尤も、これにも、やはり、フリードマンの経営者の利潤最大化を目指すべしとする「受託者の義務」論が、色濃く影を落として、賛否両論がある。
   しかし、最近、CSR論や企業倫理論などの流行に伴って、企業の経済社会への善行と言うべきか、企業の果たす社会的責任の重要性が持て囃されて、あたかも、企業の最も重要な経営戦略の一つとして、殆ど、企業経営者に義務化さえされているような錯覚に陥っているので、そのような視点からか、ゲイツ論に賛成する賢者も多い。
   企業のCSR貢献度を重視した人気指標やレピュテーション度の高い評価が、企業価値を高め、ひいては、優秀な従業員の雇用にプラスするのみならず、株価上昇にも繋がり、時価総額アップで株主にも貢献すると言うのである。

   ビル・ゲイツの創造的資本主義への提言で、重要な役割を占めているのは、企業の貧しい人々に対する慈善や奉仕に対して社会が、その貢献を価値あるものとして評価する「評価システム」の構築である。
   この面から、ビル・ゲイツ案に賛意を表するのは、ハーバード大M・クレマー教授の「評価システムによる経済の活性化」と言う論文である。
   株主に対する義務こそはCEOが果たすべき第一の義務であると言う点は認めるが、フリードマンの市場絶対主義的な立場には同意できない、状況次第では、政府よりも、企業の方が効率的に富を再分配出来ると主張する。
   第一に、多くの企業は、特定商品に対して市場支配力を持っており、多少価格を上げても顧客を失うことがない筈で、企業が価格を下げても被害は少なく社会への効果は大きい。
   第二に、企業が利他的な活動をしていると言う評判は、最近の若者が金銭的でない要素を重視して就職先を選ぶ傾向が強いので、優秀な人材の雇用に有利に働く、と言う。
   ところで、富の再分配を政府に任せると、管理費がかかり、国民の経済活動を阻害する課税を行わなければならないので、民間企業が行う方が効率的だと言うのである。
   
   このクレマー説の「非金銭的な動機が極めて強い力を持つ場合があり、利潤主導型の現代企業でも、それを生産的に利用できるとして、賛成派に鞍替えしたのは、加州大G.クラーク教授。
   産業革命以降、重要な発明発見を成しイノベーションを推進した偉大な発明家の殆どは富を得ていないし、これらイノベーションも、利潤動機でもある程度推進可能だが、テクノロジーへの憧れや愛国心、名誉欲にて生まれでることも多い、と言う。
   ここでも、クラークは、人類の問題を解決するための活動を行っている企業の方が、人間の基本的要求に付け込んでいる企業よりも、より優秀な人材を安いコストで雇えると、創造的資本主義の雇用促進効果を、高く評価しており、これに類する発言をする賢者が、他にも何人かいる。

   加州大D.ヴォーゲル教授は、1世紀以上も前に、シアーズ・ローバックのJ.ローゼンストック会長が、農家の窮状を目のあたりにして、科学的な農業知識と最新の農業技術の普及を推進することによって、危機状態にあった同社を起死回生させたと、創造的資本主義経営の存在を説く。
   現実にも、国際競争の圧力の高まりにも拘らず、CSRの原則を掲げ、実践しているグローバル企業は着実に増加しており、社会に責任ある行動をとりながらかつ競争市場で生き残っている企業は着実に増えており、経営幹部は、社会貢献活動への支出は、すべて、株主の利益のためになるのだともっともらしく主張できる環境が生まれていると言う。
   
   ところが、ヴォーゲル教授は、CSRが、企業の収益性を向上させる重要な経営戦略だと鳴り物入りで学者たちが喧伝しているが、166の学術的研究を総合的に精査した最近の調査では、CSRが、企業の財務実績に与える影響は僅かのプラスだけで、企業の競争力には殆ど影響を与えないらしいと言うのである。

   しからば、いくら、ビル・ゲイツの言う効果的な評価システムを確立しても、寒暖計を外部から操作して温度を変えるようなもので、実際に、創造的資本主義的なアプローチが実施されても、それ程、企業の業績には、良循環とはならないと言うことであろうか。
   私自身は、結論から言えば、企業の慈善なり善行なり、CSR活動が、評価とは関係なく、実質的に、企業の業績にプラスになるとか、市場の要求を満足させるなどペイしない限り、創造的資本主義アプローチは、非常に難しいだろうと言う気がしている。
   そのような意味では、たとえば、ビル・ゲイツが、ダヴォス・スピーチでも触れているような、プラハラードの最貧層の顧客を目指したBOP市場の開拓アプローチのような試みなど、社会のためにも企業のためにも資する二兎を追った、謂わば、実需を満たしながらの経済活動の推進と言った地に着いた企業活動を広げて行くことが、最も有効だと考えている。
   そうでなければ、プラトンの哲人政治しかないであろう。
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格安旅行ならメキシコへ・・・ニューヨーク・タイムズ

2009年05月10日 | 海外生活と旅
   Flu? What Flu? 
   そんなタイトルで、格安旅行をしたければ、メキシコにトライせよ、とニューヨーク・タイムズが記事を書いた。
   何しろ、メキシコ経済を支えている最大の稼ぎ頭は旅行関連事業で、昨年の収入は、133億ドルで、雇用総数は200万人、経済の8%を占めているのだが、世界的な大不況に加えて、今回の豚の新型インフルエンザが追い討ちをかけたのだから堪らない、壊滅的な打撃を受けたのである。
   
   この影響で、GDPのダウンは、0.3~0.5%だと見込まれている。
   ホテルは、50~70%のディスカウントは当たり前になり、観光会社も、保険や無料サービスなど色々な特典を付けてインフル・フリー・キャンペインにこれ努めており、それに、メキシコ政府自らも、減税やローンで21億ドル、観光産業に、その他の援助支出4.5億ドルを発表するなど、官民こぞって、観光事業の失地回復に動き始めたと言う。

   この口絵写真は、NYTからの借用だが、カンクンのホテルで、浜辺では客は皆無で閑古鳥どころではないのだが、1ヶ月でホテルの占拠率は77%から42%にダウン。しかし、これは公表数字であるから、もっと悪い筈で、クルーズ船も、メキシコの全港で、キャンセルされている。
   メキシコ・シティでは、市政府が、自ら、ホテルやレストランなど一切を閉鎖させ、情報公開や説明義務を果たすなど前向きの対応が多少評価されていると言うが、アメリカの旅行業者は、バーゲン以外に、観光客を呼び戻す方法はないと突っぱねている。
   4週間前と比べて、メキシコへのパッケジ・ツアーは、5月で70%、6月で50%安だと言われている。

   メキシコでのインフルエンザ感染者が1360人、死亡者が45人だと発表されているが、残念ながら、メキシコ政府の発表より現実はもっと深刻で、もっと以前から国内で感染しており全土に広がっていたのではなかったかと思っている。
   もう、大分、メキシコには行っていないので断言は出来ないが、メキシコは、貧富の差が激しく、特に地方の貧しさは深刻で、アメリカもそうだが、健康保険に入っていない国民が相当数いて、治療や健康管理、それに、衛生健康行政の遅れには、かなり問題を抱えている筈である。

   さて、メキシコの観光だが、私自身、仕事の出張が主体だが5~6回メキシコに行っていて、それなりに、観光ガイドに書かれている程度の観光は経験しており、確かに豊かな歴史と伝統のある素晴らしい国だと思っている。
   子供の頃、文明の頂点に達した帝国の都が、何故か、どんどん放棄されて移って行くので、当時の姿のままでジャングルに埋もれてしまい、近年、掘り起こされて欧米人を驚かせていると言う話を本で読んで興味を持って、是非、マヤ、アズテック、インカなどの古代ラテン・アメリカ文化の遺跡を訪れたいと思っていたので、
   メキシコ・シティや郊外のアズテック遺跡、ウシュマルやチチェン・イッツアのマヤ遺跡に行って、実際に、廃墟に立った時には、感激しきりであった。
   その後、ペルーで、マチュ・ピチュやクスコでインカ文明に接したのだが、わが祖先と同じモンゴリアンのアメリカ原住民もある、アリューシャン海峡を渡ってマゼラン海峡まで達した同胞が、築き上げた高度な文化文明が遠く離れたラテン・アメリカにあったと思うと、誇らしい気持ちになったのを覚えている。

   日本でも、感染者が出たと言うが、経済社会がグローバル化して便利になった分、病気も一気に国際的に伝播する。
   グローバリゼーションの光と影である。
   
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トマト栽培日記・・・(5)小さな実が結実

2009年05月09日 | トマト栽培日記
   雨模様のうっとおしい天気が明け、庭の木々や草花が一気に元気を取り戻した感じで、雨露に朝日が照り映えて輝き始めた。
   正に、目に青葉で、田植えの終わった水田も、急に緑の色彩を強め始めて、緑色の湖が広がったように美しい。

   プランターのトマトで、一番成長の早い苗の一番花房の根元の黄色い花が消えて、代わりに小さな青い実がついている。
   まだ、結実したのは枝元から3つくらいだけだが、その先の花房には、満開の花から、色付き始めた蕾、それに、まだ小さな緑の塊と少しずつ姿を変えながら花と蕾が並んでいる。
   二股に分かれて少しずつ先が伸びている様子だが、真っ赤なミニトマトが列になってぶら下がってくるのであろうか。

   これで、プランターに本植えしてから、丁度丸4週間になるのだが、大嵐で、葉が少し折れたり、細菌にやられたのか、一本の葉だけ葉の中央が黒ずんで先が下向きに曲がったので切り落としたくらいで、他には何の問題もなく、すくすく大きく育って、青々としっかりした木に成長して来た。
   苗の足元に、オルトラン顆粒を少し撒いた。
   今のところ、あまり、問題がなさそうなので、薬剤散布は止めておこうと思っている。

   先週、面白いと思って買ったイタリアン・トマトの苗木F1サンマルツァーノ・ロンドを、バケツの様な形の大きな野菜用プランターに植えておいたのだが、既に、花房が付いていた所為もあったが、今日見ると、一番花が結実して、かなり、大きな実になっている。
   このトマトは、濃厚な旨みの究極イタリアントマトと言う触れ込みの、四角い形が特徴のカット用トマトと言うことで、ソースなどにも使う料理用のトマトらしい。
   私自身、スパゲッティでも、トマトソース系統を避けて、クリームソース風の白いものをオーダーするくらいだから、トマト料理は好みではないのだが、とにかく、ものは試しなので、育ててみようと思ったのである。
   ヨーロッパでは、結構、トマト料理を経験していたので、南ヨーロッパの雰囲気を思い出して、何となく、懐かしくなった所為かも知れない。

   ところで、種蒔きからのミニトマト・アイコの苗だが、結局、発芽したのは、レッド、イエローとも、15本ずつくらいだったが、育ちには大きく差が出るもので、ボツボツ、花芽が出そうな苗は、3~4本ずつで、少し遅れているが苗として使えそうなのもそれくらい。
   いずれにしろ、2~3本ずつ、しっかりした苗を選んで、地植えにしようと思っている。

   さて、私の庭だが、今咲いている花は、都忘れとイングリッシュ・ビオラで、ピンクの都忘れの株を除けば青色系統で、もうすぐ、梅雨になると一気に広がって庭を覆う露草と共に、夏は、青い花の方がクールな感じで清々しい。
   私の庭には、今季節なのに、アイリスやあやめ系統の花がないので、一寸さびしい感じがするのだが、これは、私の趣味の問題だから仕方がない。

   青い花と対照的で、大輪の花を咲かせ始めたのは、濃いピンクや赤色系統の芍薬と薔薇で、牡丹の後さびしくなっていた庭を埋めて少し華やかになった。
   その横で、緑色に変わってしまった枝垂れ梅に、勢い良く這い上がって青紫色の大きな花を連ねているのは、クレマチス。
   木陰には、赤紫のシラン。
   コデマリの白い花房は、少しずつ先から黒ずみ始めている。
   もう、そこまで、夏が近づいて来ている。
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マイケル・キンズレー著「ゲイツとバフェット 新しい資本主義を語る」 その2

2009年05月08日 | 政治・経済・社会
   ゲイツの創造的主本主義論に対して、反対、乃至、懐疑的で、ネガティブな発想の賢者たちの見解や意見が、結構面白いので、今回は、これらについて検討してみたいと思っている。
   福祉国家的な傾向の強いヨーロッパと違って、さすがに、自由主義の徹底した市場主義的な競争原理を高く評価しているアメリカだけあって、弱者救済という極めてヒューマニスティックな理念であっても、資本主義経済システムに手を加えようとすることには、根強い反発があるのである。
   
   ミルトン・フリードマン流の「企業経営者には、企業収益を最大化する義務がある」とする”受託者義務”を前面に出して、
   慈善寄付を行う企業は、株主との約束を破るばかりではなく、利潤の最大化のみを追求する企業との競争力を殺ぐことになるので、市場を奪われるのを阻止するために、利益至上主義企業にも慈善プロジェクトを行わせるよう政府に圧力をかける危険がある。
   企業は、利益最大化の掟に従って行動しているからこそ能率的なのであって、有効に働いている資本主義社会には、創造的資本主義など無益である 。
   アフリカなどへの対外支援は、改革を求める力を弱めるために、貧しい国の政府の質を益々悪化させるだけである。
   と最も強烈なタカ派的な議論をするのが、第七巡回控訴裁判所R.ポズナー判事。

   フリードマンの弟子だが、ポズナーほどではないとして、ゲイツなどの姿勢に理解を示しながらも、利益外の目標を持つ利他的な企業が、果たして、利潤動機のみの企業と競争すべき市場環境で、生きて行けるのかが問題だとして疑問を呈するのは、ノーベル賞のシカゴ大G.ベッカー教授。
   利潤以外の動機、すなわち、消費者本位のサービス、雇用における人種差別、環境への配慮などで一部の利益を諦めて他の目標を追求する企業は、利潤最大化を目指す企業と競争して行くのは難しいと言う学術調査の結果が出ているのだという。
   誰もが、無数の人々の破滅よりも自分の小さな不幸に関心があるのであって、いくら、良くても、豊かな国の多くの企業に、第三世界の病気を治そうとか、CO2の削減を目指すと言ったインセンティブを持たせるのは難しい。貧しい国に競争を奨励し、市場との調和を重視した政策を採らせるとか、企業の慈善活動よりはるかに効果的な方法がいくらでもある筈だ、とゲイツ説には極めて冷たい。
   
   マイクロソフトのイメージは、世界の変革者、見事に富を築き上げた企業、無慈悲な商売敵、と言った”良き企業市民”ではなかったが、それ故に、創造的でない昔ながらの資本家であったゲイツが、今度は逆に、世界を変革し驚くほど寛大な、そして著しく創造的な慈善家になる富を蓄積することが出来た。
   「ゲイツは昔の彼ならず」だが、マイクロソフトが、慈善事業をしなかったとしても、その経済活動を通して世界に貢献した度合いは、ゲイツ財団などの貢献よりはるかに大きい。
   ゲイツが推進しようとしている企業の社会的責任と言う理念は、たとえ何らかの成果をあげたのしても、利益を追求する意欲を減退させ、妨げる可能性が高い。
   要するに、企業は企業であるべきであって、社会的責任や創造的資本主義などと言って脇目を振らずに、ロックフェラーのように、どんな手段を使ってでも富を築くことが先で、利潤を最大化した者が、税金を支払って残りの財産を慈善事業に費やせば良いのである、と冷然と説くのが、ファイナンシャル・タイムズのC.クルック・コラミニスト。

   面白いのは、リベラルで「暴走する資本主義」の著者で元労働長官のロバート・ライシュ教授で、資本主義に人間らしさを与えて公益のために利用しようとするゲイツの試みには敬服するが、このプロジェクトが、公益のために資本家の利益を犠牲にしなければならないものである限り、民主主義社会では成功しないから無意味であると言う。
   民主主義が、社会のニーズに応えるものだと言う信頼が崩れてきたことが問題だが、これは、総て企業のロビイストがあまりにも大きな影響力を持ちすぎてしまったことによる。環境保護関連の法的措置を妨害し、国民皆保険制度案を叩き潰してきた企業が、果たして、創造的な社会的責任など果たせるのか。企業が言う社会的貢献事業などは、すべからくコスト削減とか利益アップのための手段や方便であって、社会的責任であるはずがないと言うのである。

   もう一つ興味深いのは、元財務長官のR.サマーズ議長の見解で、持ち家制度を一般化するためにと設立された「ファニーメイ」や「フレディマック」を例に挙げて、いくら素晴らしい創造的資本主義的な発想であっても、企業の負債を政府が保証すると言う一般認識があった故に、危険な賭けに出て、市場規律も作用せず、利益は私物化し、損失は社会化して、財政破綻への道をまっしぐらに進んでしまったが、これに、似ていないかと言う。
   複数の目的を創造的資本家に課すと言うことは、業績に関する説明責任の消失を暗に示唆しており、まして、問題の企業が道義に叶った使命を持ち社会的責任を担っているのなら、市場の効率性を損なってでも、競争に勝てるように支援しなければならないと言う考えにならないか、と疑問を呈する。
   良く考えてみれば、今、アメリカ政府などが必死になって行っている金融機関やビッグスリーの救済なども、この類ではないであろうか、と勘繰りたくなるような理論展開で面白い。
   このサマーズの見解に、ノーベル賞学者のチャップマン大V.スミス教授が賛意を表している。

   その他にも、加州大G.クラーク教授、NY大W.イースタリー教授、P.オーメロッド社長、ロチェスター大S.ランズバーグ教授、マット・ミラー氏など、批判的な意見を展開する賢者が多く、夫々の見解が、実に示唆に富んでいて興味深い。
   資本主義そのものが最良の経済システムであり、それ以上に、弱者をも利する創造的資本主義はないと言う考え方、利益追求のみが企業の使命であって経営者はそれ以外の目的に脇目を振ってはならないと言う考え方、経営者などは自分の利益のみしか考えていないので慈善などと言う哲学があるはずもなく全く信用できないと言う考え方など、まちまちだが、
   現在の資本主義を、このままの野放し状態では、社会の経済秩序や安心安寧、公正平等など人類の理想は実現できないと言うことだけは、どうも、真実のような気がする。
   私自身の意見が書けなかったが、次に譲りたい。
   
   
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マイケル・キンズレー著「ゲイツとバフェット 新しい資本主義を語る」 その1

2009年05月07日 | 政治・経済・社会
   ビル・ゲイツが、昨年1月のダヴォス会議で、現代資本主義は、成功ゆえに富の偏在・不平等を助長し益々格差が拡大するなど忌々しき問題を惹起しているので、グローバル企業は、格差解消のために、貧しい人々を救済するための活動をビジネスに繰り込むべきではないかとして創造的資本主義(Creative Capitalism)への転換を説いた。
   この提言に触発されたマイケル・キンズレーが、ゲイツの創造的資本主義をテーマにして意見交換や問題提起、討論を行うウエブサイトを立ち上げて、著名な経済学者や有力者に参加を求めて展開し、その結果を本にしたのが、キンズレー著「ゲイツとバフェット 新しい資本主義を語る Creative Capitalism」である。
   ノーベル賞学者3人を含め、アメリカ政府の長官経験者やトップクラスの経済学者やジャーナリストなど論客たちが、侃々諤々、資本主義論争を展開しているであるから、その発想の豊かさなど稀に見る面白さで、最初から最後まで興味が尽きない。

   まず、ビル・ゲイツの提案する創造的資本主義論を、ダヴォス・スピーチから要約するとほぼ次のとおり。
   テクノロジーの進歩によって人類社会は豊かになったが、その偉大な進歩が、世界の不平等を益々悪化させて来た。裕福な人々は、進歩の恩恵をたっぷり受けているのだが、生活に困窮している人々は、ニーズさえ満たされずその恩恵には浴し得ない極貧状態にある。 
   人間には、本質的に二つの大きな力があり、その一つの自分の利益を追い求める力を、資本主義は、持続的かつ有益な形で利用し、豊かな人々の富を蓄積して来た。しかし、もう一つの力である他人を思いやる力を活用して、慈善事業や政府援助を通して貧しい人々の生活を改善しようとしているが、十分ではない。
   この問題を解決するためには、民間企業が、現在よりはるかに効果的で、技術者や企業の目を貧しい人々に向けさせるような、不平等や不均衡を緩和する取り組を積極的に行う必要がある。
   その為には、企業本来の目的である利益追求への利益インセンティブの他に、必ずしも利益に結び付くとは限らないこれらの貧しい人々への社会貢献的な取り組みを促進するために、 企業の善行がプラスとして評価されるようなポジティブ評価インセンティブ・システムを確立するなど、利益と評価を含む市場インセンティブの確立が必要である。
   貧しい人々の運命に関心を寄せ、それを自分自身の運命と結び付けて、両者の生活を向上させる、利益追求と他者への思いやりと言う両方を兼ね備えた混合システムを、創造的資本主義と呼ぶ。

   まず、問題になるのは、創造的資本主義と言うゲイツの概念がはっきりしていないのが問題で、それ故に、色々な捉え方をされて議論が広く拡散している。
   そもそも、資本主義そのものが、もともと、シュンペーターの言う創造的破壊を伴った創造的なものであって、その創造性を最も上手く活用して儲けたのは、ビル・ゲイツ自身であった筈で、いまさらよく言うなあ、といった議論があったり、
   たとえば、創造的資本主義が、企業の社会的責任、企業の利他的行為、企業の社会奉仕活動、企業の慈善事業などと言った言葉と同義語のように使われて、CSRとして議論が展開されたりしている。

   一方、資本主義とは、一体、何なのかと言った議論になると、資本主義そのものが良いものなのか悪いものなのかと言う根本的な問題まで遡り、市場原理主義者は、ゲイツの言う理想の追求など一切無意味ですべて市場に任せるべしと論じているし、逆に、自由な市場主義経済に懐疑的な識者は、利己的な市場原理で動いている資本主義は、人為的に利他的な要素を加味して修正しなければならないと主張する。

   興味深いのは、会社は株主のものであるから、経営者は株主のために利益の最大化を目指すべきで、慈善や社会的貢献など、金儲けのために役に立たなければやってはならないとするミルトン・フリードマンの見解が原点となり、亡霊のように生き返って議論されている。
   ゲイツも言っているように、必ずしも、貧しい人々に良かれとする企業活動が、企業の利益に結び付かないケースが多いと言うことで、企業のCSR活動と同様に、経営者の姿勢が問題となる。

   「経済の賢人たちが資本主義の未来を考える」と言う賢人たちの議論については、次回以降に論じるとして、ここでは、キンズレーの司会で、ビル・ゲイツとウォーレン・バフェットが、「創造的資本主義」について語っているので、ビルと違ったニュアンスのバフェットの意見について触れておきたい。
   政府に管理されるのは嫌なので、企業法人所得の3%を、アメリカ実業界を代表者数人が管理する基金に投じ、社会の長期的利益のために利用すると言うシステムはどうであろうか、と発言。
   ビルの中国での慈善活動のメリットを聞きながら、「市場経済の原理に従えば、企業は世間の人々から良く思われたいと考えるのだが、ナイジェリアで石油掘削事業に入ろうと思えば、大統領好みの慈善が良いのか、貧しい人に1000万ドル費やすのが良いのか、時と場合によって、良く思われたい相手が異なる。」
   
   その商品を買うと一部が、エイズ撲滅などの基金に寄付されると言うゲイツが入れ込んでいるREDキャンペーンについて、その分、商品の価格が高くなるし、顧客は評価するとは思えないとして効果に懐疑的。

   キンズレーに、創造的資本主義を行うか、或いは、企業は効率的な生産に専念して利益を上げて、その金を出し合って、社会で何を実現すべきか自分たちで決めて実行するのとどちらが良いかと聞かれて、「独自の税制度を考えるが、あえて言えば後者。」と答えている。
   日本版の本のタイトルからは、バフェットも創造的資本主義の同調者と言う感じがするが、ゲイツとバフェット間には、かなり温度差がある。

   民間企業は、利益の追求に努めれば良いのであって、その利益の一部を、税なり、強制的寄金とするなりして集めてプールして、その基金を、民間の賢者たちが采配を振るって、人間社会に役に立つ目的に活用するのがベターと言うのがバフェット説のような気がしている。
   トータルの税率にもよるが、アメリカ国内だけでやれば、グローバル企業が、アメリカから逃げて行くので、世界規模で考えなければならないのが、問題であるかも知れない。   
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大失業時代の到来か?

2009年05月06日 | 政治・経済・社会
   今夜NHK番組「大失業時代”中間層”の崩壊を食い止めろ」を見た後、9時のニュースで、また、職業訓練学校さえ応募者多数で入れないと言った深刻な情報を流しており、今回の世界的大恐慌(?)が、実体経済に大きなダメッジを与えていることを改めて身に沁みて感じた。
   しかし、今回の就職地獄は、これまでの不況による循環的な失業や就職難とは違って、その背後に、世界的経済社会の大々的な構造転換、パラダイム・シフトの結果起こっていることを理解しないと大きな蹉跌を招くこととなる。

   大前研一氏の表現を借りれば、
   「ITと英語のスキルを完全装備して、世界中の人とコミュニケーションが可能で、どの国の人に対してもリーダーシップを発揮することが出来、なおかつ余人を持って変え難いスキルと能力を持った人でなければ、世界に伍して行けないし、現在の職と給与水準を維持出来ると思っていたら大間違いである。」ことを肝に銘じなければならないと言うことである。
   尤も、デジタル化とインターネットのお陰で、最近では、弁護士や会計士など専門的サービスでさえ、かなり高度なことでもコンピュータを叩けば間に合うし、最高の学問に対しても世界のトップ大学や専門機関に繋げばアクセス出来るので、とおり一遍の能力だけではキャッチアップさえ難しい。
   勉強に勉強、日々これ精進に努め、自分の人間力を必死になって高めて行かない限り、人に伍しては生きて行けない、そんな時代になってしまったと言うことである。

   これまでも、このブログで何度も触れたが、経済のグローバリゼーションとICT革命によって、正に、世界全体の経済社会がフラット化してしまい、コンピュータや機械で出来る仕事、或いは、中国やインドなど新興国などにアウトソーシング出来るような仕事は、悉く駆逐されてしまう筈で、たとえ摩擦的に残っていても、報酬や給与は最貧国労働者並みに落ちてしまうと言うことである。

   大前氏は、ニートやフリーターに、いくら職業訓練を施して、仕事に就かせても、それが、現在の工業化社会に適した人材に置き換わるだけなら意味がないし、その程度の人材は、お隣の中国には何億人もおり、日本の経済の活性化には殆ど役に立たないと言う。

   手に職を付けて不測の事態に対処したいと言う思いで職業訓練学校に行ったり、ゴールデンウィークを返上して資格取得試験対策講習会に通った人が多くいたとTVで報じていたが、日本国内だけで需要されたり実施されている技術・職なり資格ならまだしも、世界共通の通り一遍のものであれば、果たして、いざと言う時に、役に立つのであろうか。
   先のNHKの番組で、15~6の資格を持っている35歳の人が、不況で適当な職に就けず給料が低すぎて結婚も出来ないと嘆いていたし、取得した技術と資格の仕事が、将来、安い中国やインドの会社と競合して駆逐されてしまうようなものであれば、どうなるのであろうか。

   これからの職業の要点は、グローバルな市場を相手にした仕事なら、大前氏が言うように、最低限度ITと英語のスキルを身につけて、世界人と同等に戦える地盤を築き上げ、更に上を行くためには、リーダーシップを発揮出来ると同時に、余人を持って変え難い能力なりスキルを持つことである。
   他の追随を許さないとか、競合相手がいないと言うこと、すなわち、差別化戦略が、企業の経営戦略の一つの要諦だが、個人の仕事において、全く同じように当てはまる。
   もう少し理想を言えば、ブルーオーシャン的な人材の育成を目指すと言うことであろうか。

   今回の経済不況の影響は、特に、グローバリゼーションとICTデジタル革命によって完全に変わってしまった経済社会のパラダイム・シフトに完全に遅れをとった日本が、最も落ち込みが激しく、大きなダメッジを受けているが、日本の職業構造にも、その影響は、今後更に大きく影響して来る筈で、日本の産業構造のみならず、日本人の職業や職が、大きく変わらざるを得なくなるのではないかと思っている。

   この構造的な大変革を伴ったグローバリゼーションの大波を乗り切るためにも、日本政府は、本腰を入れて、学校教育の変革をも含めて、日本人の職業訓練のあり方など労働問題トータルを真剣に考えなければならないと思う。
   
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日本の文化と伝統をビジネスにしたアメリカ婦人・・・セーラ・マリ・カミングス

2009年05月04日 | 経営・ビジネス
   今日の日経「文化」欄に、小布施で活躍するセーラ・マリ・カミングスの「木桶仕込み日本酒復活」が掲載されていて、懐かしさを感じながら読んだ。
   少し前だが、彼女の講演を2回聞くチャンスがあり、手元にも、「知行合一」とマジックペンで黒々と大書した清野由美著「セーラが町にやってきた」のセーラのサイン本と、桝一市村酒造場 取締役/唎酒師 セーラ・マリ・カミングスと書かれた名刺がある。
   とにかく、講演で聞く彼女の話は、実に愉快で、一途に突っ走る破天荒とも言うべき創造性に富んだエネルギッシュな活躍ぶりが、聴衆の毒気を完全に抜いて、感動さえ呼ぶ。

   長野万博で何かをしたいと思って来日した彼女が、日本にぞっこん惚れて、小江戸とも呼ばれる(?)小布施の老舗の和菓子屋に勤めたかと思うと、酒蔵にあって半世紀も放置されていた巨大な酒樽に魅せられて、唎酒師の資格まで取って、創業250年の「造り酒屋」を再建してしまった。
   清野さんが、セーラの特質は、「戦略あっても計算なし、悩む前にまず行動。」と書いているし、講演の時に、桝一の社長が、従業員としては失格だが企画と行動力は抜群だと言っていたが、自分の価値観を信じて相手を説き伏せてでも実行に移すと言う類まれなるイノベーターとしての企業家魂は見上げたものである。

   最近のセーラの活躍ぶりは良く分からないが、最初は、歴史と伝統のある、ある意味では、因習の強い排他的な長野の田舎町・小布施に移り住んで、全く文化的な背景の違うヤンキー娘が、孤軍奮闘、かき回すのであるからカルチュア・ショックの連続であったのであろう。
   しかし、和食レストラン桝一「蔵部」を開き、造り酒屋を再建し、さらに、文化サロン・小布施ッションや小布施ミニマラソンを先導実現して町興しを行うなど、可愛いヤンキー娘とは思えないほどの企画力とマネジメント力、そして、行動力にはびっくりするばかりである。

   しかし、セーラの素晴らしいところは、歴史や文化伝統が培って来た本物の日本の価値に感激して、それを維持復活させようとする熱い思いにある。
   この新聞記事にも書かれているが、酒造り用の大型の桶を造る桶職人の技も、木桶を使って醸造出来る杜氏も殆ど消えかかっていたのを、拝み倒して復活に漕ぎ着けて木桶醸造の純米酒をつくり、「桶仕込み保存会」まで作り上げてしまった。
   北斎の富嶽三十六景の「尾州不二見原」の大きな木桶の中の桶職人と霊峰富士の姿を垣間見て、木桶醸造の酒造り復活を思い描くかどうかが、文化度と審美眼、そして、価値観の差だが、この貴重な価値基準の崩壊によって、日本の大切な匠の技や伝統工芸、伝統文化を体現した民芸品などが、どんどん消えてしまっている。
   
   山深い祖谷に、200年経つ藁葺き農家を改装して住むなど、日本文化と伝統の素晴らしさを説き続けているアレックス・カーや、京都の町屋の改修復活と日本建築の持つ粋を追求し続けているジェフリー・ムーサスなど、アメリカの素晴らしいエリートたちが、日本人が無造作に捨て去ろうとしている貴重な日本の価値を守ろうとして、必死になって頑張っている。
   2~300年の間、風雪に耐えて息づいて来た民家やお寺などを、経済性と利便性故に、何の惜しげもなく壊して安っぽい新築建物に立て替えて、良しとしている日本人の感覚が、理解出来ないと言えばそれまでだが、異文化を通して見た本物を見抜く審美眼や価値観の持つ意味は極めて貴重である。

   アーネスト・フェノロサの日本文化に残した功績の大きさは突出しているが、傍目八目と言うと多少御幣があるかも知れないけれど、異文化・異文明で培われた豊かな視点から見ると、日本の本当の良さと値打ちが見えてくると言うことも、紛れもない厳粛な真実である。
   私自身、学生時代から、京都や奈良を歩くのが好きで、随分、古社寺や文化遺産などを巡り歩いて来たが、その後の14年間の欧米生活や海外での異文化との接触で、益々、日本の歴史や伝統、文化の豊かさ、その素晴らしさに、感激しながら接することが多くなっている。

   今、日本で、一番、欧米などの外人客を引き付けている観光地は、東京でも京都でもなく、飛騨の高山だと言う。
   ミシュランの旅行ガイドに、三ツ星で推薦されているからのようだが、私には、何故、高山が欧米人の心を掴むのか何となく分かるような気がする。
   自分たちの築き上げてきた欧米文化とは違った、貴重な文化遺産の集積された異文化・異文明の本物の姿を、コンパクトに集積されている山深い田舎町高山で実感出来るからであろう。
   私のイギリス人の友人が、次は、日本の田舎を歩きたいと言って帰って行ったが、江戸時代の幕藩体制のお陰で、日本は、どんな田舎でも、日本の隅々まで民度が高く、素晴らしい文化が息づいていると言ったからかも知れない。

(追記)セーラの写真は、プロフィールから借用。
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A.J.ベイセヴィッチ著「アメリカ・力の限界」

2009年05月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   アメリカは、出口がなく終わりのない世界戦争の只中にいるが、この戦争は、他でもないアメリカ人自身の内部から来ている。
   現在、アメリカは、経済および文化の危機、政治の危機、軍事の危機と云う3つの危機が絡み合った脅威に晒されていているのだが、これは、アメリカに現実主義と謙虚さが欠如し、アメリカの持つ富と優越した地位のために、「自信過剰と言う最も嘆かわしい誘惑」に負けてしまい、思い上がりと信心ぶることが、アメリカの国是となってしまっているからである。
   アメリカに必要なことは、アメリカに同調することを世界に強要するのではなく、正に、アメリカ人自身が自分の運命について再検討することが必要であり、海外に頼ることを止め、帝国主義的妄想を捨てさらなければならない。
   アメリカが直面しているこれらの危機は、アメリカの魂とも言うべき自由にとって必要なものは何なのか、この極めて困難を伴う検証をすべく、総てのアメリカ市民に等しく責任を課している。

   このような問題意識を持って、主に、軍事的な視点から、厳しくアメリカの持つ使命について、深く掘り下げながら、アメリカのあるべき姿を提言した素晴らしい本が、このアンドリュー・J・ベイセヴィッチの「アメリカ・力の限界 The Limits of the Power」である。   
   
   冷戦が終結したことによって、誰も想像もしたことがなかった超大国アメリカが出現したのだが、このアメリカが、2001年9月11日のテロ攻撃を、何故、予期し、防御し、回避することが出来なかったのか。
   これは、政治エリートたちは帝国の運営管理に没頭するあまり、アメリカ合衆国自体を防衛すると言うことには、殆ど注意を向けていなかったからで、9.11以前には母国防衛の任務は存在していなかったのである。
   このように、冒頭から、意表をつくような論述から始まり、アメリカの軍事関連の内幕など真の姿を開陳しながら、建国の思想から説き起こして、アメリカの文化文明が直面している力の限界を、真摯に語っていて、読んでいて、アメリカの良心を強く感じて感激さえした。

   示唆に富む素晴らしい論述が展開されているのだが、私が、一番印象に残っているのは、
   「ピザを作るほどのコストしかかからない簡易爆発物(IED)が、アメリカのイラクでの勝利に対して痛烈な打撃を与えている」と言う事実である。
   スピードこそが最小の力で最大の効果を可能にする決め手だとして、あらぬ限りのあらゆる電子機器を駆使したITハイテク兵器と最先端の科学技術を無尽蔵に投入して戦って勝利した筈のイラクで、アメリカは、当初のアラブ世界の民主的解放という理想の実現とははるかに程遠く、何の成果も挙げえずに、いまだに、泥沼化したイラクに釘付けとなっている。
   フセインの除去さえすれば決定的な成果を得られた筈のイラクで、反政府側が簡易爆発物を武器として使用しただけで、あらゆる理念が反故と化して泥沼となって、謂わば、占領、駐留を余儀なくされてしまったのである。

   結局、アメリカは、貧しいヴェトナムの農民兵士たちが殆ど素手で戦ったにも拘らず負けてしまったヴェトナム戦争の教訓から、殆ど何も学ばなかったのである。
   ベイセヴィッチは、
   「戦争は、かってそうであったように、今でも捉えどころがなく粗雑で犠牲が大きく、コントロールし難く、驚きの連続で、さらに予想外の結果を起こすことが確実だと言うことである。戦争のこうした可能性を理解できない人は、発狂しているとしか言いようがないのである。」と述べている。

   膨大な国家予算を投入して軍事技術を進化拡大させても、殆ど無意味だと言うこと、そして、ブッシュ政権がテロとの戦いを金科玉条にして推進これ努めた予防戦争など愚の骨頂だと言うことであろうか。
   正義は自分が決めるのだとタイクーン化した大統領が総てを押し切る軍事帝国主義の様相を呈していたアメリカが、それこそ、経済社会の屋台骨を危うくまでして守ろうとした国是とは、一体何だったのであろうか。
   ソフト・パワーの重要性を説きながらも、元軍人であったベイセヴィッチのアメリカの戦略は、ジョセフ・ナイとも違った切り口で語っていて、非常に興味深い。

(追記)写真は、我が家で一輪だけ咲いたヴェトナム椿。
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トマト栽培日記・・・(4)花の周りを昆虫が歩き始めた

2009年05月02日 | トマト栽培日記
   先週、黄ばんで来た蕾が開花し、飛んできた小さな昆虫が花の周りを歩き始めた。
   苗にもよるが、まだ、蕾の固いものもあったり、3番花房を現し始めたものがあったり、同じスイート系統の苗でも、固体の性格の違いか、成長に差が出ているのが面白い。
   背丈だけは随分大きくなった感じで、6本とも、50センチを超えた。

   仮の支柱を立てていたので、園芸店に、どんなものが良いか支柱を探しに出かけた。
   ネット付きのテント様の本格的な支柱セットなども展示されていたが、結局、S字カーブの螺旋型支柱と、三本足セットの支柱を2種類買って来て、試してみることにした。
   螺旋型支柱は、トマトの木に巻き付く形になるので、紐で支柱に固定する必要がないと言うのだがどうであろうか。
   3本足支柱は、支えを移動させながら迫り上げる方式だが、固定はしないために多少宙ぶらりんなので、まだ、しばらく、元の支柱を残すことにした。

   種蒔きして植えたミニトマト・アイコは、やっと、10センチくらいの大きさまで育ち、柏葉様の本葉も数枚出てきたので、大分苗らしく格好が付いてきた。
   この苗は、一番花が付くまで、このまま、ポット苗の状態で育てようと思っている。

   さて、昔子供の頃に、トマトとジャガイモは、同じナス科の植物なので、ジャガイモの茎にトマトを接木すれば、ジャガイモもトマトも両方出来ると聞いて興味を持ったことがある。
   ジャガトマというようだが、一挙両得と言うそんなに都合の良い話はなくて、二兎を追うものは一兎も得ずで、両方とも出来ても小さくて使い物にはならないらしい。
   それでは、交配させれば良いではないかと言うことだが、自然交雑は出来ないらしくて、特別な手法で交配すれば異種間雑種のポマトというのが出来る。
   暖地のトマトに寒冷地のジャガイモの遺伝子を加えて、耐寒性を高めようとしたらしく、つくば万博にも出展したと聞くが、案外、トマトも、昔の名前で出ていないのかも知れないと考えると面白い。
   子供の頃に食べたすっぱいトマトを殆ど見なくなったのも、時代の流れであろうか。

   ところがである。インターネットを敲いていたら、実際に、静岡県のJA遠州中央の農家で、ジャガイモの茎にミニトマトのような1~3センチの大きさの実が沢山出来て、その実はトマトのようであったと写真入で紹介されているではないか。
   受粉すれば実がなるのは当然の筈だが、通常出来ないのは気象条件のようだが、地球温暖化でエコシステムが崩れてくると、思いがけない実や種が生まれて来るかもかもしれないと思うと興味深い。

   支柱を買いに園芸店に行った時、今度は、イタリアやフランスのプロバンスのトマトの苗が沢山出ていた。
   私など、トマトは生でそのまま食べるものだと思っていたが、ヨーロッパに行ってからは、煮炊きしたトマト料理やトマトソース味の料理が多いので、最初は随分戸惑って困った思い出がある。
   トマトばかり沢山作っても、と思うのだが、多少興味を感じているので、今のトマトに目鼻が付けば、と、変な色気を感じている。
   
   八重桜が散り始めた先月下旬に、プランターに蒔いた西洋朝顔とスーパーカラー朝顔、それに、八重咲きコスモスが発芽して双葉を出した。
   コスモスは、日当たりの良い庭の空間に適当に植えようと思っているが、朝顔は、庭木の根元に植えて、好き勝手に庭木に這い登らせることにしている。
   不精である所為もあり、手間暇かからずに適当に植物たちを泳がせて、そのサプライズを楽しむと言うのが私の流儀で、まず、盆栽などと言った世界とは程遠いが、雑な中にも、面白い空間が生まれることがある。
   さて、これからは雑草との戦い。イギリスのガーデニングが羨ましくなる。
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無駄ガネ:再び蠢く懲りぬバンカー・・・ポール・クルーグマン

2009年05月01日 | 政治・経済・社会
   先日のニューヨーク・タイムズのコラムで、ポール・クルーグマンは、”Money for Nothing”と言うタイトルで、世界を恐怖に巻き込んだ元凶であるバンカーたちが、金融事業に、やや明るさが見え始めると、再び、悪の道に向かって動き始めたと警告を発し注意を喚起している。

   冒頭、クルーグマンは、2007年7月15日付のニューヨーク・タイムズの記事”The Richest of the Rich, Proud of a New Gildeed Age”で、新タイタンで最も卓越した人物として名指しされたシティのサンフォード・ワイル前会長が、膨大な報酬を手にしたのは、彼や同僚が、社会に貢献したからだと述べていたと言う。
   しかし、その新聞のインクが乾くか乾かない内に、ワイルが構築に手助けをした金融の殿堂が、音を立てて崩壊し、経済社会を不幸のどん底に落とし込んでしまった。幸いに、どうにか、大恐慌の再現は回避出来たが、世界経済の回復のためには何年もかかる、と、まず、悲劇の問題提起をする。

   ところが、先日のニューヨーク・タイムズの日曜版が、昨年下落したインベスト・バンクでの報酬が、2007年の水準に逆戻りして上がったと報じたので、もう、金融機関やバンカーがかって気ままに振舞える時代は去った筈だと、クルーグマンは頭に来てしまったのである。

   クルーグマンは、disturbと言う言葉で表現しているのだが、その理由は、
   まず第一に、ウォール・ストリートの魔法使いが、社会にプラス貢献することは何もなく、膨大な途方もない報酬を正当化出来る要因は何もないと言う。
   バンカーが、途轍もない報酬を得たのは、彼らの創造性、すなわち、金融イノベーションを達成したお陰だと言われているが、このイノベーションたるや、社会を改善し良くするどころか、逆に、バブルを生み出す新機軸を築き上げ、法制度の網を掻い潜り、事実上の詐欺師ポンジー・スキームを実行するなど社会を欺いただけではないかと手厳しく糾弾するのである。

   ここで、ベン・バーナンキが、金融イノベーション論を庇って、その例として、(1)クレジット・カード、(2)オーバードラフト・レギュレーション、(3)サブプライム・モーゲッジ をあげているのに対して、これらが、バンカーに膨大な報酬を支払う理由になるのかと強烈な皮肉をぶっつけているのが面白い。

   次に指摘するのは、自由市場経済だから、民間部門では、報酬は、従業員の市場価値によって決まる筈だと言う一般論に対して、最早、アメリカの金融機関は、国有化されたも同然で政府管理下にあり、自由市場ではないと反論する。
   これらバンカーへの巨額報酬に対して、最良のスタッフを雇うためには、これ位払わなければならないとして、成層圏に向かって鰻登りに上がる報酬を正当化しているが、全く、ナンセンスだと説く。

   クルーグマン理論の冴えているところは、その次で、何故、あれだけ、世界中を奈落の底に突き落として置きながら、悪徳バンカーたちは、懲りもせずに、再び蘇って高額報酬をせしめようとするのか、
   その理由は、要するに、そう出来るからだというのである。
   すなわち、ポールソンやオバマ政府の大盤振る舞いのお陰で、総て政府保証が付いているので、金融機関は、何の心配もなく、安い金を借りて、それより、はるかに高い金利で貸し出して儲けられるので、うはうはだと言うのである。
   
   勿論、クルーグマンは、経済システムを維持するために、ウォール・ストリートを救済することは必要であることを、そして、TARP(不良資産救済プログラム)の6000億ドルについても認めており、百歩譲って、策士たちへの高額報酬についても法外だと思うよりも、危険極まりないと言うのである。
   バンカーたちは、成功報酬を得るために、途轍もない危険を冒し、たとえ、会社を崩壊させても、高額ボーナスを持ち逃げしたのだが、
   今や、これらバンカーたちは、アメリカ政府にバックアップされた、正に、アメリカ政府の金を使って、再び、危険な賭けを目論んで大勝負に出て、膨大な報酬をせしめようと蠢き始めたのである。

   最近、金融関係のメディアでは、不況の嵐が遠のき、株が上がり始め、経済が上向き始めた、オバマ政権の金融機関批判も下火になってきたと言う報道が増えてきている。
   正しいか正しくないかは別として、バンカーたちは、自分たちのビジネスチャンスが、もう、そこまで来たと手薬煉引いて待っていると言うのである。

   2008年には、無茶苦茶高額の報酬を取ったバンカーたちが、人々の金を使って大博打を打って世界経済を屈服させてしまったが、同じことを、今、再び、政府の完全バックアップで、政府の金を使って、懲りない面々が始めようとしている現実を、世のリーダーは認識すべきであり、真の改革に目覚めない限り、明日は限りなく暗いと、クルーグマンは、魑魅魍魎の跋扈を語りながら警告を発している。

   先日、大前研一氏の「さらばアメリカ」を引いて、経済失政三銃士と名指しされたポールソン、バーナンキ、ガイトナーについて触れたが、どうも、オバマ政権も、日本と同じで、経済政策で、大きく回り道をするかも知れないと言う気がしている。
   私自身、オバマ大統領の経済知識に多少疑問を持っているが、福祉経済的な政府主導の色濃い経済に舵を切れば切るほど、アメリカ本来の財産であるはずの自由の果たす役割が、どんどん希薄化して行く。
   アメリカ経済のダイナミズムを如何に活性化させ得るか、オバマ政権の重要な課題であろうと思う。
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