私の趣味の一つは読書であるから、外出の時も片時も本を離したことはない。
歳の所為か、病院通いが多くなってしまったのだが、一線を離れて時間に追われなくなると、待ち時間の長いのも、読書の時間が取れるので、それ程苦痛ではなくなる。
絶えず本屋さんに出かけて行って、欲しくなるとついつい買ってしまって、物理的にも読めもしない本を、積読することが多くなるのだが、その所為もあって、追いまくられたように、どんどん、新しい本を読み飛ばすことになる。
これも、歳の所為で、友人たちの多くは、目が言うことを聞かなくなって、長い間、本を読み続けられなくなったとか、小さな字が読めなくなったと言うのだが、幸い、私の場合には、読書用のメガネはかけているが、何時間、本を読み続けても苦痛ではない。
ある書物で、第一次世界大戦の時に、英国人のパイロットが、母から送られてきたブルーベリー・ジャムのお蔭で、夜目にも敵の戦闘機が良く見えて戦功を立て続けたと書いてあったこともあり、科学的にも立証されているようなので、毎朝、バカの一つ覚えのように、レーズン・ブレッドにたっぷりブルーベリー・ジャムを塗って、コーヒーにも、ブルーベリー・ジャムを加えてフルーツ・コーヒー風にして楽しんでいる。
これだけが、利いている訳ではないであろうが、親のお蔭で授かった目の良さが、観劇やコンサート鑑賞にも役立ってくれている。
さて、また、歳の所為だが、本を、どんどん読み飛ばすだけで、学生の頃のように、同じ本を二度も読むことはなくなったので、読んでも読んでも、片っ端から、何を読んだのか、中身をすぐに忘れてしまう。
私の場合には、大切だと思ったり、勉強のつもりで読む本などは、鉛筆で傍線を引いたり、透明プラスチックの付箋を貼っているので、後で、その部分をトレースして行けば良いので、ブックレビューなどは、これを活用している。
しかし、実際に感激するのは、傍線を引いたり付箋を貼っている時で、後からのトレースは、いわば、抜け殻で知識の集積でしかない。
傍線を引いたり付箋を貼るのは、大切だと思う箇所でもあるが、私の場合には、新しくて新鮮な、未知であったり全く知らなかったり意識になかったことに触れて新鮮な喜びを感じたり感動したりした箇所である場合が結構多い。
新しい未知の知識に遭遇した喜びと言うことであろうか、一種の知的な満足と言うことであろうか。
ところで、先日、トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」の「増補改訂版」を読んでみて、この未知の知的満足を味わうことにも、必ずしも、全く新しい本でないとダメだと言うことではないと言うことに気付いたのである。
古い前の本は、今回の大震災で、書棚から散乱してどこに行ったのか分からなくなってしまったので、比較はできないのだが、今回の増補版は、上下で、索引を含めて1000ページ近くなっているので、かなり、追加されたようだし、それに、内容も、アップツーデートに改訂されているようなので、大分、変わったのかも知れない。
読み進めるにつれて、微かに残っている記憶が蘇ってくることはあるのだが、しかし、その印象の殆どは、新しいフリードマンの本を読んでいると言う感じである。
前に読んだ本の中身を殆ど忘れてしまった所為なのか、或いは、私自身のその後の知識の向上で見えなかったものが見え始めたのか、あるいは、フリードマンが新しく書き換えたのか、理由は分からないが、非常に、新鮮な喜びを判じながら、再び、フリードマンの「フラット化する世界 The World Is Flat」に嵌り込んでしまったのである。
増補改訂版で、私の記憶に残っているのは、ポール・サミュエルソンの「エコノミックス」である。
大学の時も、アメリカの大学院の時も読んだし、それに、その後のサラリーマン生活でも読んだので、何代かの「エコノミックス」のお世話になっているのだが、テキストの場合には、版を重ねることは多いが、他の専門書の場合などは、売れなければ、増補改訂版などは出せない。
フリードマンのこの本は、扱っているのがICT革命によって生まれ出でたフラット化したグローバリゼーション3.0の世界であるから、アップツーデートにするためには、絶えずに、改訂版を出さなければ、たちまち、時代遅れになってしまう。
実に素晴らしい本で、ピュリッツアー賞に値する本であっても、非常に賞味期限の短い書物で、古典にはなり得ない本であろう。
この本も、出版されてから4年経つので、既に、多少潮流から取り残されてしまった部分もあるが、日本人にとっては、まだまだ、随分、新鮮だと言うことは、日本自体が、グローバリゼーション3.0には、程遠いと言うことであろうか。
歳の所為か、病院通いが多くなってしまったのだが、一線を離れて時間に追われなくなると、待ち時間の長いのも、読書の時間が取れるので、それ程苦痛ではなくなる。
絶えず本屋さんに出かけて行って、欲しくなるとついつい買ってしまって、物理的にも読めもしない本を、積読することが多くなるのだが、その所為もあって、追いまくられたように、どんどん、新しい本を読み飛ばすことになる。
これも、歳の所為で、友人たちの多くは、目が言うことを聞かなくなって、長い間、本を読み続けられなくなったとか、小さな字が読めなくなったと言うのだが、幸い、私の場合には、読書用のメガネはかけているが、何時間、本を読み続けても苦痛ではない。
ある書物で、第一次世界大戦の時に、英国人のパイロットが、母から送られてきたブルーベリー・ジャムのお蔭で、夜目にも敵の戦闘機が良く見えて戦功を立て続けたと書いてあったこともあり、科学的にも立証されているようなので、毎朝、バカの一つ覚えのように、レーズン・ブレッドにたっぷりブルーベリー・ジャムを塗って、コーヒーにも、ブルーベリー・ジャムを加えてフルーツ・コーヒー風にして楽しんでいる。
これだけが、利いている訳ではないであろうが、親のお蔭で授かった目の良さが、観劇やコンサート鑑賞にも役立ってくれている。
さて、また、歳の所為だが、本を、どんどん読み飛ばすだけで、学生の頃のように、同じ本を二度も読むことはなくなったので、読んでも読んでも、片っ端から、何を読んだのか、中身をすぐに忘れてしまう。
私の場合には、大切だと思ったり、勉強のつもりで読む本などは、鉛筆で傍線を引いたり、透明プラスチックの付箋を貼っているので、後で、その部分をトレースして行けば良いので、ブックレビューなどは、これを活用している。
しかし、実際に感激するのは、傍線を引いたり付箋を貼っている時で、後からのトレースは、いわば、抜け殻で知識の集積でしかない。
傍線を引いたり付箋を貼るのは、大切だと思う箇所でもあるが、私の場合には、新しくて新鮮な、未知であったり全く知らなかったり意識になかったことに触れて新鮮な喜びを感じたり感動したりした箇所である場合が結構多い。
新しい未知の知識に遭遇した喜びと言うことであろうか、一種の知的な満足と言うことであろうか。
ところで、先日、トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」の「増補改訂版」を読んでみて、この未知の知的満足を味わうことにも、必ずしも、全く新しい本でないとダメだと言うことではないと言うことに気付いたのである。
古い前の本は、今回の大震災で、書棚から散乱してどこに行ったのか分からなくなってしまったので、比較はできないのだが、今回の増補版は、上下で、索引を含めて1000ページ近くなっているので、かなり、追加されたようだし、それに、内容も、アップツーデートに改訂されているようなので、大分、変わったのかも知れない。
読み進めるにつれて、微かに残っている記憶が蘇ってくることはあるのだが、しかし、その印象の殆どは、新しいフリードマンの本を読んでいると言う感じである。
前に読んだ本の中身を殆ど忘れてしまった所為なのか、或いは、私自身のその後の知識の向上で見えなかったものが見え始めたのか、あるいは、フリードマンが新しく書き換えたのか、理由は分からないが、非常に、新鮮な喜びを判じながら、再び、フリードマンの「フラット化する世界 The World Is Flat」に嵌り込んでしまったのである。
増補改訂版で、私の記憶に残っているのは、ポール・サミュエルソンの「エコノミックス」である。
大学の時も、アメリカの大学院の時も読んだし、それに、その後のサラリーマン生活でも読んだので、何代かの「エコノミックス」のお世話になっているのだが、テキストの場合には、版を重ねることは多いが、他の専門書の場合などは、売れなければ、増補改訂版などは出せない。
フリードマンのこの本は、扱っているのがICT革命によって生まれ出でたフラット化したグローバリゼーション3.0の世界であるから、アップツーデートにするためには、絶えずに、改訂版を出さなければ、たちまち、時代遅れになってしまう。
実に素晴らしい本で、ピュリッツアー賞に値する本であっても、非常に賞味期限の短い書物で、古典にはなり得ない本であろう。
この本も、出版されてから4年経つので、既に、多少潮流から取り残されてしまった部分もあるが、日本人にとっては、まだまだ、随分、新鮮だと言うことは、日本自体が、グローバリゼーション3.0には、程遠いと言うことであろうか。