熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

読書の楽しみの一つは絶えず新鮮さに触れること

2011年04月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   私の趣味の一つは読書であるから、外出の時も片時も本を離したことはない。
   歳の所為か、病院通いが多くなってしまったのだが、一線を離れて時間に追われなくなると、待ち時間の長いのも、読書の時間が取れるので、それ程苦痛ではなくなる。
   絶えず本屋さんに出かけて行って、欲しくなるとついつい買ってしまって、物理的にも読めもしない本を、積読することが多くなるのだが、その所為もあって、追いまくられたように、どんどん、新しい本を読み飛ばすことになる。

   これも、歳の所為で、友人たちの多くは、目が言うことを聞かなくなって、長い間、本を読み続けられなくなったとか、小さな字が読めなくなったと言うのだが、幸い、私の場合には、読書用のメガネはかけているが、何時間、本を読み続けても苦痛ではない。
   ある書物で、第一次世界大戦の時に、英国人のパイロットが、母から送られてきたブルーベリー・ジャムのお蔭で、夜目にも敵の戦闘機が良く見えて戦功を立て続けたと書いてあったこともあり、科学的にも立証されているようなので、毎朝、バカの一つ覚えのように、レーズン・ブレッドにたっぷりブルーベリー・ジャムを塗って、コーヒーにも、ブルーベリー・ジャムを加えてフルーツ・コーヒー風にして楽しんでいる。
   これだけが、利いている訳ではないであろうが、親のお蔭で授かった目の良さが、観劇やコンサート鑑賞にも役立ってくれている。

   さて、また、歳の所為だが、本を、どんどん読み飛ばすだけで、学生の頃のように、同じ本を二度も読むことはなくなったので、読んでも読んでも、片っ端から、何を読んだのか、中身をすぐに忘れてしまう。
   私の場合には、大切だと思ったり、勉強のつもりで読む本などは、鉛筆で傍線を引いたり、透明プラスチックの付箋を貼っているので、後で、その部分をトレースして行けば良いので、ブックレビューなどは、これを活用している。
   しかし、実際に感激するのは、傍線を引いたり付箋を貼っている時で、後からのトレースは、いわば、抜け殻で知識の集積でしかない。

   傍線を引いたり付箋を貼るのは、大切だと思う箇所でもあるが、私の場合には、新しくて新鮮な、未知であったり全く知らなかったり意識になかったことに触れて新鮮な喜びを感じたり感動したりした箇所である場合が結構多い。
   新しい未知の知識に遭遇した喜びと言うことであろうか、一種の知的な満足と言うことであろうか。

   ところで、先日、トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」の「増補改訂版」を読んでみて、この未知の知的満足を味わうことにも、必ずしも、全く新しい本でないとダメだと言うことではないと言うことに気付いたのである。
   古い前の本は、今回の大震災で、書棚から散乱してどこに行ったのか分からなくなってしまったので、比較はできないのだが、今回の増補版は、上下で、索引を含めて1000ページ近くなっているので、かなり、追加されたようだし、それに、内容も、アップツーデートに改訂されているようなので、大分、変わったのかも知れない。
   読み進めるにつれて、微かに残っている記憶が蘇ってくることはあるのだが、しかし、その印象の殆どは、新しいフリードマンの本を読んでいると言う感じである。
   前に読んだ本の中身を殆ど忘れてしまった所為なのか、或いは、私自身のその後の知識の向上で見えなかったものが見え始めたのか、あるいは、フリードマンが新しく書き換えたのか、理由は分からないが、非常に、新鮮な喜びを判じながら、再び、フリードマンの「フラット化する世界 The World Is Flat」に嵌り込んでしまったのである。
   
   増補改訂版で、私の記憶に残っているのは、ポール・サミュエルソンの「エコノミックス」である。
   大学の時も、アメリカの大学院の時も読んだし、それに、その後のサラリーマン生活でも読んだので、何代かの「エコノミックス」のお世話になっているのだが、テキストの場合には、版を重ねることは多いが、他の専門書の場合などは、売れなければ、増補改訂版などは出せない。
   フリードマンのこの本は、扱っているのがICT革命によって生まれ出でたフラット化したグローバリゼーション3.0の世界であるから、アップツーデートにするためには、絶えずに、改訂版を出さなければ、たちまち、時代遅れになってしまう。
   実に素晴らしい本で、ピュリッツアー賞に値する本であっても、非常に賞味期限の短い書物で、古典にはなり得ない本であろう。
   この本も、出版されてから4年経つので、既に、多少潮流から取り残されてしまった部分もあるが、日本人にとっては、まだまだ、随分、新鮮だと言うことは、日本自体が、グローバリゼーション3.0には、程遠いと言うことであろうか。
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わが庭の椿、崑崙黒咲き天賜咲く

2011年04月10日 | わが庭の歳時記
   私が、最初に庭植えした椿は、ピンクの乙女椿だが、その後、地元の園芸店で買って植えた椿が、淡いピンクで底白の天賜(てんし)や濃紅色で千重咲き宝珠咲きの崑崙黒である。
   もう、15年以上経つのだが、かなり長い間、鉢植えで育てていたので、天賜は2メートル、崑崙黒は3メートルくらいの背丈しかないが、毎年、びっしりと花をつける。
   ガーデニングが流行り出した頃には、この千葉の郊外にも、地元の小さな園芸店が何軒かあって、夫々に工夫を凝らして商品を集めて、私が良く通った園芸店の店主は、椿に力を入れていたので、名椿の苗を手に入れることが出来たのだが、最近では、ジョイフル本田やケーヨーD2などの大型店に駆逐されてしまって、皆消えてしまい、大きい筈のユニディも、店を閉めてしまった。
   
   私の場合は、大半、花木や草花の苗や球根などは、このような大型店で買っているのだが、最近では、通信販売で、珍しい花木やトマトなど野菜の苗を調達することも多くなった。
   通信販売で買った時には、価格も多少高く、商品を見ていないので、結構、当たり外れがあって、失敗することが多いのだが、一応、思ったものが買えるので、重宝することがある。

   ところで、この崑崙黒だが、外側の花弁が一重ほころびて蕾が開き始めると、しっかりとした先の尖った宝珠型の花弁が現れて、中々、優雅で面白い。
   しばらくして満開になると、濃紅色の八重咲きとなり、真ん中に申し訳程度の黄色い蕊が現れるのだが、何となく貧弱な感じで、見栄えがしなくなるのが不思議である。
   蕊が貧弱でどこにめしべがあるのか分からないくらいで、到底、実を結ぶと思えなかったのだが、何年か前に実がなったので、種を蒔いたら発芽し、鉢植えにした。

   椿は、挿し木で十分に増えるので、増やすことには不自由しないのだが、種だと、必ずしも自家受粉とは限らず、恐らく、崑崙黒の場合には他の雄蕊との勾配なので、雑種となりどんな花が咲くのか楽しみなのである。
   獅子咲きの獅子頭なども、殆ど、実がなるとは思えないのだが、木が大きくなると、間違って、一つや二つ、結実するので蒔くのだけれど、中々、発芽しない。
   結局、椿でも、種類によっては、藪椿などのように雄蕊と雌蕊がはっきりしているのは、いくらでも実がなって椿油にもなるが、殆ど、実が結ばずに、どうして個体が増えるのか、不思議な椿も、結構、多い。
   実生苗の弱点の一つは、花が咲くのに時間が掛かり過ぎることで、私など、鉢植えするのだが、忘れてしまって、咲いたころには、実生か挿し木化分からなくなってしまう。

   天賜は、非常に華奢で繊細な花で、すぐに傷んで黄変するのだが、綺麗に咲いた花は、一重の淡いピンクが、底に行くにつれて少しずつ白くなって行くので、非常に優雅である。
   良く似た花に、桃太郎椿があるのだが、やはり、底白と言うのは、品があって美しい。

   私の庭の椿は、何故か、ピンク系統の椿が多いのだが、私の好みとしては、どちらかと言えば、鮮やかな深紅の一重咲きで、黄色の蕊が鮮やかな、筒咲きに近い花が好きである。
   ベトナム椿と中国の黄色椿が数鉢あるのだが、最近、花を咲かせるのに失敗している。
   やはり、日照や温度の所為だと思うので、今年は気を付けて咲かせてみたいと思っている。
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福島第一原発汚染への過剰反応

2011年04月08日 | 生活随想・趣味
   水道水の原発汚染の影響にかんする報道は、下火になったので、問題の深刻さが薄れたのであろうか。
   注意して見ていると、スーパーやドラッグストアなどの飲料水売り場にも、時々、軟水の天然水など普通の飲料用のボトルが出るようになった。
   供給が追い付いて来たのであろうが、しかし、一般の飲料水需要は、依然、極めて活発で、一家庭当たり2本と言った制限はあるのだが、瞬時に、売り切れてしまって、瞬く間に棚は空っぽになる。

   インターネットで楽天市場で予約して、既に、届いている筈の天然水が、製造元から断られ、新しい供給先に手配したにも拘わらず、また、供給停止にあって、配送出来なくなったのでキャンセルすると言うメールが、業者から入った。
   他の業者からは、まだ、そんな連絡はないので、送られて来るのかどうかは不明だが、とにかく、ウォーター争奪狂想曲は、まだ、続いているようである。

   政府や東電の報道を信用するかしないかは別として、幼児には要注意だと言う汚染された水道水であっても、この水を1年間飲み続けても、レントゲンを1回撮る時の放射線量の何十分の1だと言うのに、何故、これ程あわてふためいて、天然水を求めて奔走するのか、私自身、家族に必要があって最低限度の手当てを行ったものの、どう考えても、不思議で仕方がない。

   尤も、お膝元の日本は、この程度で収まっているのだが、日本に在住していた外国人が大挙して、国外に脱出したと言う。
   ニューズウィークの日本版によると、外国特派員も相当数本国へ逃げ帰ったようだし、また、インターナショナル・スクールでは殆ど生徒が帰国して居なくなり、東大でも留学生の30%は帰国してしまい、茨城のイチゴ農家では、中国人の研修生が皆逃げ帰ったので収穫が出来ずに枯れてしまったと言う状況であるから、今、日本は、リビアやアフガニスタンやコートジボワールよりも、世界中からは世界一危険な国だと見做されているのである。

   ABCニュースは、頻繁にアメリカ人の福島原発事故に対する過剰反応をレポートしており、米政府が「むやみな使用は副作用を招く恐れがある」と警告し、冷静な対応を求めているにも拘わらず、安定ヨウ素剤購入を求める市民が急増し、薬局に詰めかけていると言う。
   隣の韓国などは、雨を避けるために浄水場にカバーせよとの指令が出たり、雨が降ると多くの小学校が休校になるなど、過剰反応も極まれりだが、NHKのワールド・ウエーブ・ニュースを見ていると、今回の福島第一原発事故に関して、多くの外国の対応は、非常にヒステリックと言うか異常とも言うべき過剰反応で、極論すれば日本に原爆が落ちたかのような騒ぎようで、知らぬは日本人ばかりと言う悲しさである。

   今回の地震、津波、原発事故と言う3重苦を背負った東日本大震災について、言いたいことは沢山あるが、問われるべきは、やはり、日本政府の対応であろう。
   特に、原発事故については、事故が判明した初期の段階で、最早東電と言う私企業の問題ではなく、日本国のリスクマネジメント(Risk management)の問題として政府が完全にテイクオーバーして対処すべきであったのだが、それをミスったこと、そして、数日後には、この問題は日本国だけの問題ではなく、既に、グローバルな宇宙船地球号全体の世界の問題になってしまったと言う認識が、日本政府にはあまりにも希薄であったと言うことで、特に、事故発生後のクライシスマネジメント(Crisis management)が後手後手に回ってしまって、その素人芝居のようなお粗末さには涙を呑まざるを得ない。
   人類の英知の結晶とも言うべき原発が、水をかけて冷やしたり、薬剤を注入して穴を塞いだり、溢れた危険極まりない汚染水を海に垂れ流したりと、およそ科学技術とは縁遠い手法で悪戦苦闘している茶番劇を見せられてしまうと、人類が長い歴史を重ねて営々と築きあげて来た偉大な文化文化や遺産は、一体何だったのかと考えると悲しくなってくる。

   尤も、私自身は、明治維新で無血革命を実現して近代化を果たし、そして、国土が焦土と化した第二次世界大戦後の、不死鳥のように蘇って、世界第一の経済大国に上り詰めた、日本の途轍もない底力とパワーを確信しており、今回も、新しい明日の世界のモデルとなるような経済社会を築き上げることを信じている。
   
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J.B.ムーディ/B.ノグレーディー著「第6の波」

2011年04月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   過去200年の間に、5つのイノベーションの長波があった。そのイノベーションを始動したのは、水力、蒸気機関による動力、電気と鋼鐵、大量生産、情報通信であったと言う。
   現在、その端緒についたのがコンドラチェフの第6の波であるが、その新しい革新的な波について、オーストラリアの若くて有能なイノベーション学者が、その波が巻き起こす新しい世界を展望するというのであるから、興味を持って紐解いたのだが、期待に違わず、非常に面白い、かつ、示唆に富んだ理論展開であった。

   第5の波が、インターネットで展開された世界なら、第6の波は、環境や資源ビジネス革命が脚光を浴びてくるものの、資源が希少になってくると、ビジネス界と経済界は、商品から離れてサービスに軸足を移して行く。ものを持たない世界がやって来るので、ビジネスをサービス化する、すなわち、商品ではなくサービスを売る方法で成功を修めない限り、その企業の明日はないと言うのである。
   趨勢の原動力となるのは、クリーン・テクノロジー、デジタル・マッピング、オンライン・コラボレーションなどの新技術である。

   興味深いのは、イノベーションの核となる主要素は、新しい「技術」、「市場」の変化、その結合を可能にし促進する「制度」で、そのいずれかで変化が起これば、イノベーションのプロセスが開始されるのだが、持続可能な真のイノベーションは、技術と市場と制度の3本柱総てが同時に変化をした時に発生するとして、シュンペーターの創造的破壊の過程を追いながら論じているので、今回の世界金融危機も、それ程深刻には捉えずに、第6の波の創造的破壊の一過程であって、大規模に起こっただけだと言うのである。

   更にユニークな点は、廃棄物に対する著者の視点である。
   現在、全世界で、消費者が1年間に抽出、使用、廃棄する原料は5000億トンで、1年後まで耐久財として残りるのは全体の1%に過ぎず、残りの99%は廃棄物となり、この廃棄物は売れ残りの製品だとする。
   第5の波の戦略は、ものを売る時の取引コストを限りなくゼロに近づけることであったが、第6の波の戦略は、売れ残りの製品を限りなくゼロに近づけることであり、逆に、この売れ残りの製品から利益を得る新しい手法を見つけることである。
   したがって、この廃棄物は利益の空白地帯であって、究極の取引コストと見做すべきで、廃棄物に対する考え方を根本的に転換しなければならないと説く。
   このことは、安価な石油をがぶ飲みにして地球線宇宙号を窮地に追い込んだアメリカの消費天国が如何に罪深いかと言うことで、サステイナブルな地球環境を維持するためには、資源の効率性を向上させる以外に人類の未来はないと言うことを考えれば分かる。
  「処分場採掘」と言う形の、燃料の抽出、再利用や再資源化による物質の回収や、廃棄食物のたい肥化などの新しい動きから説き起こして、イギリスでの高額な埋め立て税によって廃棄が高くつくことを示して資源化に追い込んだり、熱帯雨林の乱開発より生態系サービスを売る方が利益となる方法と言った政策戦略などを交えながら、廃棄物を原材料として買う事業などの出現など、資源効率性に市場機会を見だすと言う大市場への転換を説いていて興味深い。

   ロカボアと言う食料を可能な限り地元で調達しようとする人々が、地産地消運動を進めている。
   最高のものを求めて金に糸目を付けない消費者が居るから天下の名品、名産物が存在するのだが、商品の輸送程大きな無駄はなく、グローバルに考えて、ローカルに食べるキャンペーン「フード・マイル」運動が脚光を浴びて来た。
   また、持続可能性を維持するために、製品の生産に使用されるすべての物質を回収・再使用できるようにする化学プロセスにおけるリサイクルの輪を完成させると言う「グリーン・ケミストリー」など、新しい展開も進みつつあると言う。

   使用する生産物は最終的にすべてサービスに転嫁されると言うのが著者たちの思想だが、その典型例は、カー・シェアリングであろうか。
   消費する生産物ではあるが、車を消費するのではなく、使用するサービスを提供しているのである。

   生産物には、「消費するための生産物」と「使用するための生産物」があり、前者を「バイオスフィア」後者を「テクノスフィア」と呼ぶ。
   バイオスフィアは消耗品で、資源の消費と廃棄物の排出を最小限にすべきで、テクノスフィアは、将来的に、すべて商品からサービスに移行して行くと言う。独占的に、或いは、永久的に所有して消費すると言うよりは、共同所有やレンタルと言った形で、シェアリングしながら、そのサービスを享受すると言うシステムへの移行もその方向であろう。
   例えば、飛行機や携帯電話は、使用するための生産物だが、サービスとして提供されて商売となっている。

   企業では、ハードのメーカーであったIBMが、商品からサービスへと戦略転換したのが典型的である。
   カスタマイズとパーソナライズ手法を進め、便益や支援や保護、そして体験や情報やその他の知的コンテンツを提供して、価値を創造して補足する相互作用を生み出す正にサービスに主眼を置いた企業に転換した。
   多くの企業にとって、サービスは意識革命の象徴であって、今後は、どんな商品を製造するかではなく、どんなサービスを展開するかを考えて経営戦略なり戦術を打たねば、生きて行けなくなると言うことでもある。

   デジタル界と自然界の融合と言う理論展開も興味深いが、
   原子(原子で構成される消費財)は地元、ビット(ビットで構成される情報)は世界、と言う理論展開もユニークで、グローバルな商品やサービスをローカルな嗜好・習慣・文化に合わせる、或いは、逆に、ローカルなサービスをグローバルに展開すると言った「グローカリゼーショイン」へのビジネス論や、
   迷ったら自然に学べと言う産業生態学にも言及するなど、示唆に富んだ理論展開が面白い。

   時代は、デジタル・ネイティブから、既に、エコ・ネイティブへと変りつつあると言うのだが、大量生産方式の産業工業化時代の企業戦士であった私など、もう、過去の遺物と言うか化石のようなものかも知れないと思いながら、この本を読んだのだが、結構面白かったと思っている。
   
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椿は、やはり春の木、春の花

2011年04月06日 | わが庭の歳時記
   この口絵写真は、わが庭の小磯の落ち椿である。
   小磯は、やや小輪の一重筒咲きの清楚な凛とした花で、深い深紅の優雅な佇まいは非常に魅力的である。
   ただ問題は、潔いと言うか、すぐに花弁が落ちることで、この写真のように、元気な最盛期に散るので、落ち椿が、それなりに鑑賞に堪えるのである。
   加茂本阿弥や曙のように、蕾が大きくて品があれば、咲く寸前の花を茶花として生けて楽しめるのだが、小磯の場合には、蕾が小さくてふくよかではないので、茶花には向かない。
   正に、咲いている時の素晴らしい花姿を鑑賞すべきであるが、沢山花をつけると、木陰を真っ赤に染める落ち椿の風情も、中々捨てたものではない。
   庭植えして、もう、10年以上にもなるが、まだ、2メートル少しの背丈だが、隣に植えててあるピンクの八重の抱え咲き大輪の花富貴とは良い対照で、同じ椿と言っても、これ程差があるのかと思えて面白い。

   私は、学生の頃に、古社寺を散策しながら京都の庭園や建築、仏像などの鑑賞を趣味としていたのだが、びっしりと張りつめた優雅に波打つ苔の上に真っ赤にちりばめられた落ち椿を見て、何度か感激したことがあるのだが、椿は咲き誇った姿だけが美しいのではないと、気付いたのもこの時であった。
   尤も、椿に入れ込み始めたのは、まだ、20年足らずで、一番最初に庭植えした椿は、ピンクの八重で、ポンポンダリアのように形の乙女で、30年近く経つが、長い間、私の庭に咲く唯一の椿であった。
   したがって、この20年弱の間に、小さな庭に30種類近くの椿を植えてしまって、鉢の椿を入れると、祐に60種類くらいの椿の花が、私の庭にあることになる。
   椿は、早ければ、9月頃から咲く椿もあり、秋から冬にかけて、そして、厳寒の真冬から春にかけても咲き続けて、四月頃に一気に百花繚乱となる。
   正に、漢字の字の通り、春の木、春の花木である。
   
   崑崙黒など、やっと、蕾の先が、花色に変ってきたように、遅れて咲く花もあるが、もう、殆どの椿は、最盛期を迎えて光り輝いている。
   とにかく、一日見ないうちに急速に、あっちこっちで椿が開花しているので、ビックリする。
   一寸、気がかりなのは、玉の浦の深紅の白覆輪が、何故か、今年は、殆ど白が消えてしまって、普通の藪椿風になって咲いていることである。
   里帰り椿のタマ・グリッターズも、同じように白い覆輪が、心なしか消えて咲いているのだが、この白覆輪が、玉のタマたる所以であるから、少しさびしい。
   もう少し拘ると、白い縁取りだが、これが深くても浅くても駄目で、微妙な覆輪具合が命とも言うべきで、装う艶やかさと風情が大きく違って来る。

   椿は、庭植えにすると、かなり大きくなるまでは、花も疎らであったり、咲かないこともあるが、2メートルくらいになると、沢山花をつけて見事である。
   この小磯なども、そうだが、木が大きくなると、花期が長くなって、かなり長い間、入れ代わり立ち代わり花が咲き続ける。
   勿論、すべての椿がそうだと言う訳ではなく、私の庭では、紅妙蓮寺などは、随分、長い間咲き続けている。

   孔雀椿も今最盛期で、黒いブラックオパールも咲き始めた。
   羽衣もいま盛りで、特に、白羽衣の優雅さは格別である。
   小さな花の椿は、匂い椿が多いのだが、歪な花形に特徴のあるピンクの港の曙などは、びっしりと花をつけるので、ヒヨドリやメジロが絶えず訪れて来ては、花弁をつついている。
   
   さて、私の住んでいる千葉の郊外の住宅街では、どちらかと言えば、庭先などに春の草花を植えたり、鉢花やプランターを並べている家が多く、パンジーやスミレ類、水仙、チューリップ、桜草系統の洋花など、綺麗に整えられたカラフルな花が咲き乱れている。
   私も、昔は、春の草花を鉢植えにして、門先や階段などに置いていたのだが、これは手入れが大変で、横着になってからは、椿やバラ、紅葉と言った形で、殆ど花木に変えてしまった。
   これだと、草花のプランターや鉢植えなど違って、かなり手入れが楽なのである。

   草花は、もっぱら、庭の花壇への直植えで、それも植えっぱなしにしており、季節毎に、思いついては、追加で、空いたところに球根を地面に押し込んでいると言った調子である。
   ところが、スノードロップの中からチューリップが飛び出したり、水仙の陰からムスカリが顔を覗かせたり、とにかく、無茶苦茶だが、この無秩序とも言うべき草花花壇でも、見方によっては、イングリッシュ・ガーデンの雰囲気が出て来て、それなりに見られるのであるから不思議である。

   街路樹は、こぶしと桜の花盛りで、下草は、水仙の群落であったり、放射線状に咲き乱れる真っ白な雪柳であったり、春は、無粋な自動車道もカラフルになって面白い。
   田舎の春は、正に、花盛りである。
   

   
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エコポイント・テレビと物価のはなし

2011年04月04日 | 生活随想・趣味
   一時的だとは言っても、日本の消費需要を牽引した家電エコポイント制度が、先月末で終わった。
   古いアナログ対応のビデオ・レコーダー付きの小さなテレビを、単なる廃却で処分するのも忍びないので、最後に役立って貰おうと思って、リサイクルして42型のプラズマテレビを、期限ぎりぎりの30日に買った。
   パソコンを含めれば、4台目のテレビで、必ずしも必要と言う訳でもない購入なのだが、これまでに、録り貯めた膨大なオペラやクラシック・コンサート、或いは、歌舞伎や文楽、映画や芝居、それに芸術文化関係の教養番組を、家族の迷惑(?)にならないように鑑賞したいと思って、今更ホームシアターでもなかろうと、多少、中途半端なサイズだが、部屋の大きさなども考えて、42型にしたのである。

   今度の大震災で、積み上げたり書架に並べていた沢山のDVDやCD,それに、倉庫に保存していたビデオなどが、本と一緒に床の上に叩きつけられて、見るも無残に散乱して、無茶苦茶になってしまったのを見て、このままでは、大切に録画していたDVDやビデオだが、殆ど日の目を見ずにあの世行きになることは間違いないと悟って、急に、時間が惜しくなった。
   蔵書も、大車輪で努力しても大半は読めないと思うのだが、これからは、量より質で、価値のあると言うか、自分にとって、これは、是非見ておきたいとか、是非読んでおきたいと思うものを選択して、じっくり味わいながら、鑑賞したいと思うのである。

   ところで、問題は、このリサイクルに出した古い小さなアナログのテレビと、今度買った大型のエコ・テレビが、年月の差はあるけれど、殆ど購入価格は同じだと言うことである。
   つくずく、時代の流れを感じるのだが、そう言えば、何年か前に買った同じプラズマ・テレビは、5倍以上の値段がしていた筈である。
   イノベーションの速さと言うか、技術の進歩と言うか、工業製品の質の向上には、計り知れないほどの進化発展がある。
   水車の円盤の中のハツカネズミと同じで、振り落とされないためには、益々早く走らなければならないように、少しでも良いものを作ろうと走りに走った家電メーカーの努力の結晶なのであろう。
   しかし、沢山の企業が寡占競争に明け暮れての価格破壊の連続であったから、採算が取れる筈がなかろうと思うのだが、どうであろうか。

   先週号の日経ビジネスで、神戸大の宇南山卓准教授が、パソコンがデフレ要因?と言う興味深い文章を書いていて、CPI(消費者物価指数)が、2000年からこの十年で2・6%下がったが、そのうちの2%は、パソコンの物価が大きく下がったからだと言う。
   デスクトップは25分の1、ノートパソコンは50分の1に価格が下がったと言うことだが、これは、実際の市場のパソコンの値段がこんなに下がったと言うことではなく、これはスタート時点の既存の機種の価格を機能や部品毎に要因分解して、イノベーション分を価格低下と見做して同じ品質のものと考えた仮想的価格を推計し比較計算して弾き出すので、こんな数字が出てくる。

   そう考えれば、デジカメやテレビなども、途轍もない価格低下だと思うのだが、大体、こんなに進歩や変化が激しくて、パソコンにしろテレビにしろ携帯電話にしろ、破壊的イノベーションの進展で、品物そのものの機能や品質が根本的に変ってしまっているのだから、こんな物価換算比較による消費者物価の計算は、あまり意味がないような気がする。
   イノベーションや質の向上があるのは当然であるから、「同じモノを買った場合の費用の変化」などに拘って、古くなったポンコツ製品などを基準にせずに、パソコンはパソコンで、平均値を取るとか標準品質の価格で比較計算する方がはるかに現実味があってよい。
   例えば、私は、8年ほど前と昨年パソコンを買ったのだが、両方とも上位機種であり、前は30万円、昨年は16万円であったから、殆ど半分になったと言うことで、このようにパソコンの物価推移を考える方が、現実味があって良いと思う。

   しかし、それでも、昔のフィルムカメラと、今のパソコンの周辺機器に成り下がったデジカメとは、同じカメラでもコンセプトが全く違ってしまっているから、いくら仮想的価格を推計しても殆ど無意味であろうと思うし、それに、時流を考慮して、日経平均のように、基準年毎に基準改定して、中身を入れ替えるのであるから、推計に信憑性があるのかどうか怪しくなってくる。
   デフレデフレと言うのだが、現在のデフレは、金融現象ではなく、製造流通段階での激しいイノベーションと、新興国への生産シフトを巻き込んだユニクロ型デフレであるから、CPIなどは、特別な異変がない限り上がり得ないような気がする。
   
   いずれにしろ、エコ・ポイント・テレビを買って、イノベーションによるモノの進化の激しさ、価格破壊の凄まじさと企業の経営、消費者物価指数の不思議などを、ついつい、考え込んでしまった。
   その間にも、ひっきりなしに余震が起こっていて気が休まらない。
   

   
   
   
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グーグル・アースで見る世界

2011年04月02日 | 生活随想・趣味
   ヤフーなどの地図情報は、非常に重宝して活用しているのだが、そのページの「写真」をクリックすると、同じ地図の部分が瞬時に航空写真に変わる。
   良くテレビで写される某国の原子力関連施設の位置関係の航空写真で見慣れているあの映像だが、恐らく、グーグル・アースの地図を活用しているのであろうと思うが、世界中の何処であろうとも航空写真を見ることが出来る。
   同じ地図を見ていても、中々、その場所のイメージは分かりにくいのだが、航空写真になると、一気にその場所のイメージのみならず雰囲気まで分かって非常に面白い。
   例えば、自分で住もうと思って集めたマンションの場所などの位置関係や近所の道路事情や学校、病院、役所などの所在など、平面地図ではつかみ得ないような情報が、イメージとして鮮明に見えてくるのである。

   ヤフーで、自分の家の住所を打ち込んでクリックすると地図上にその位置が明示されて、写真に変えて拡大すると、自分の家の俯瞰図航空写真が現れる。
   ヤフーでは、最大に拡大しても比較的小さな写真だが、グーグル・アースで検索して最大に拡大すると、駐車中の自動車は勿論、庭の大きな木なら、その一本一本までが鮮明に映し出される。

   私は、この調子で、昔、私が住んでいたフィラデルフィアやサンパウロ、それに、アムステルフェーンやロンドンなどの家や、外国の友人たちの家を映し出して眺めることがあるのだが、懐かしい思い出が増幅してきて楽しい。
   国際ニュースで話題になった土地、例えば、リビアの戦場やトリポリの市内の問題の広場なども居ながらにしてみることが出来て参考になる。尤も、アップツーデイトな写真ではないので正確性には多少疑問はある。

   この口絵写真は、私が住んでいたロンドン郊外のキューガーデンのグーグル・アースの航空写真だが、蛇行するテームズ川の左手方向右手に、世界最高の植物園キューガーデンが広がっているのが分かる。暇の休日などにカメラをぶら下げて良く通った。
   私の住居は、メトロのキューガーデン駅のすぐ前で、植物園へ一直線に走るリッチフィールド通りの一番手前で、このグーグル・アースの画像をクリックして拡大すると家のイメージが見えてくる。
   それに、無数に嵌め込まれた地点マーク(一寸邪魔だが)をクリックすれば、その場所や近辺の写真や簡単な説明が出るのだが、私の住んでいた家も写真に写っている。

   余談だが、イギリスの家は、街路に面した庭は狭いのだが、建物の背後にある裏庭はかなり広くて、家の面積の何倍もあり、ガーディナーに頼まなければ自分自身で手入れしなければならないので、ガーデニング好きになるのは当然である。
   この航空写真でも分かるが、大体、一戸建ての場合には、日本の家のように敷地一杯に家を建てて、庭が狭いと言うことは殆ど有り得ず、広い庭があって当然なのである。

   私が子供の頃に、一番最初に興味を持ったのは世界地図だった。
   このグーグル・アースで、世界中のあっちこっちの航空写真を眺めながら想像を逞しくしたり、これまでに歩いてきた沢山の土地土地の旅の思い出を反芻していると、結構楽しい物語が現れてくるのである。
   先祖がえりの趣味が復活して来たのかも知れないと思っている。
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台頭するブラジル(仮題 BRAZIL ON THE RISE)(6)~赤道下 罪と救い(その3)

2011年04月01日 | BRIC’sの大国:ブラジル
   これまでに、ブラジルは、貧しい人々や下層階級には厳しい階級社会だと言うことにふれたが、ローターは、英語には、第二人称にはyouしかないが、ブラジルには、比較的インフォーマルなtuと、同等間で使うvoce、そして、もっとフォーマルなo senorとdoutorの使い分けがあると語っている。
   勿論、ドイツ語でも、二通りの呼称があり、日本語などでは、数えきれないほど種類があるので、異常だとは思えないが、ブラジルの場合には、この使い分けが、はっきりと身分を示していることは間違いない。
   この最後のdoutorだが、例のドトール・コーヒーのドトールで、これは、創業者がブラジルに住んでいた時の住居がドトール○○○通りにあったので借用したと言うことだが、英語で言うdoctorである。
   面白いのは、実際に博士号を持っている人を差すのではなくて、大卒やそれ相応の豊かな人に使う敬語のようなもので、名前の前に着けて呼ぶのである。
   私などは恥ずかしくて困ったので、博士ではなく修士だからと秘書に釘を刺したのだが、立派な米国製MBAであり社長なのだから当然ですと言って譲らず、外部への対応で、ドトール・ナカムラで押し通していた。

   ところで、ブラジルの宗教は、カソリックで、人口の85%がそうだと言う。
   しかし、沢山の移民が混在しており、特に、アフリカ移民の土俗宗教と結びついたマクンバ、カンドンブレ、ウンバンバと言ったアフロ・ブラジリアン信仰の影響も色濃くブラジル文化文明に息づいていると言う。
   私は、宗教的な知識が乏しいので、本件への深入りは避けて、ローターが、カルビニズムと比較しながら論じているので、この点にだけ触れてみたい。

   カソリック教とマクンバ、そして、その影響の強い考え方が支配的なので、ブラジル人には、カルビニズムやその価値観や心情は皆無である。
   したがって、ブラジル人は、カルビニズムのように禁欲的なモラリストではないので、利益や富は、暴利と利己心のダブル罪業の成果であって、徳行でも奉仕や犠牲的行為への報酬でもないと考えている。
   あらゆる罪は、祈りを捧げたりお供え物をしたりして悔恨の情を示し、聖職者に告白さえすれば許される。
   こう言う意識だから、罪を犯しては赦罪、罪を犯しては赦罪の繰り返しで、ブラジルで、チコ・バルクの歌「Sin Doesn't Exist Below the Equator」がカーニバルで歌われ続けるのも当然であろう。
   これが、この章のタイトルでもあり、ブラジル人の典型的な罪業と赦しの哲学であり人生観だと言うのである。

   謝罪や赦しと言う感覚は、ブラジル人が、自分たちの国民性の中でも最もポジティブな特質だとする寛容性toleranceと密接に関係している。
   この考え方は、他人の欠点や特異体質に対してではなく、法律に対する違反や妨害に向けた寛容だと言うである。
   ポップスターやサッカー選手が、スピード違反を犯して、スポーツカーで道の露天商や子供を轢き殺しても、すぐに釈放されて、ジェイル入りなどあり得ないし、政治家が汚職をしても、そんなことはすぐに忘れられて次の選挙で返り咲くと言うのである。
   これは、仮定の話ではなく真実で、ニクソンの場合には永久に政治生命を断たれたが、1992年に弾劾されたフェルナンド・コロール・デ・メーロ Fernando Collor de Mello大統領などは、2006年には、国会議員に復活したが、ブラジルには、こんな汚職国会議員は他にもいると言う。

   アメリカには、第二章はなく一回限りだと、ローターは言うのだが、徹頭徹尾アングロサクソン流の思想の持ち主である著者の視点から見れば、このブラジル流の罪と赦しの考え方は、全く相容れないであろうし、コモンローで培われたヨーロッパの成熟社会の価値観から言っても、遅れた社会だと言う烙印は、免れないであろう。
   しかし、このラテン的な思想や哲学、或いは、人生観と言うのは、形を多少変えながら何らかの形で、南欧のラテン諸国にも残っており、現在、支配的な文化文明の価値観を基準にして判断して黒白をつけることが正しいのかどうか、大きな長い人類の歴史の潮流に照らして考えた場合には、公平を欠くのではないかと言う気がしなくもない。
   例えば、中国の外交政策について、ならず者国家との積極的なアプローチについて批判があるが、これは、ある意味では、アメリカが覇権を握って築き上げた支配的な世界観・価値観を基準として論じているので、そうなるのだが、果たしてアメリカの外交なり国際政治が正しかったのかどうかは、今、北アフリカや中東の動乱で危機と試練に立っているように、大いに?マークを付けて考えなければならない問題なのである。
   何となく、この章では、ローター説に引っ張られてブラジル社会の後進性(?)を強調してしまった印象だが、ある意味では、そんな自由奔放で楽天的なラテン気質であるが故に素晴らしい音楽や芸術、ファッション、文化などの素晴らしい遺産が生まれ出るのだと言えるのではなかろうかとも思っている。
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