熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂:高原の神舞 「祓川神楽」 ~神楽舞う能舞台~

2018年10月12日 | 能・狂言
   今年も、国立能楽堂で、宮崎の神楽が上演された。
   今年は、「高原の神舞 国重要無形民俗文化財「祓川神楽」 ~神楽舞う能舞台~」であった。
   「たかはるのかんめ」と言うようだが、これまで観た他の宮崎の神楽とは、地理的にもそれ程離れていないにも関わらず、趣も雰囲気も非常に違っていて面白いと思った。
   舞台正面に金屏風が立てられて、その前に祭壇が儲けられてあり、舞台正面天上に「八咫之盤(ヤタンバン)と呼ぶ天蓋が吊られて、その下で神楽を舞う。本来、ヤタンバンには、天神地衹12神の神札や彫り物、八咫の鏡が取り付けられている。
   
  
   地謡座には、奥から、鐘、笛、太鼓の3人の囃子方が陣取って音曲を担当し、揚幕から演者が登場する時には、鏡の間の太鼓が、幕あけを先導する。
   

   HPから引用すると、
   祓川神楽の概要
古くより天孫降臨の地とされる霧島連山・高千穂峰。その裾野に広がる高原町に鎮座する霧島東神社で「祓川神楽」は伝承されており、国指定重要無形民俗文化財「高原の神舞」を構成しています。以前は旧暦の11月16日の夕刻から翌朝にかけて、神楽宿とした民家の庭先に舞庭(御神屋)を設けて行われましたが、現在は12月第2土曜日に、祓川神楽殿で行われています。「神舞」とは、江戸時代の旧薩摩藩内における神楽の名称で、この名は宮崎県内では高原町などに伝えられています。四方四門を持つ舞庭の他、真剣や長刀など武具を使用した舞が多く、修験道の影響を受けていることなどが特徴です。かつて旧薩摩藩内では、大人数で真剣を持っての舞はよく見られましたが、「十二人剱」に見られるように現在残っているのは祓川のみとなり、その存在は非常に貴重なものとなっています。

   冒頭、宮崎県知事の挨拶があり、その後、基調講演として、
   葛西聖司氏の【神々の里-高原 祓川 そして 高千穂峰-】
   小川直之教授の【高原神舞・祓川神楽の特色】
   
   
   

   実演された神楽は、順に写真を示すと次の通り。
   写真ばかり撮っていたのではないので、不出来だが、雰囲気は分かると思う。

   神随
   素面の四人舞で、夫々は神歌を謡う、祓川神楽で最も重要な舞で、神楽の中心メンバー舞い手となると言う。
   
   
   

   田の神
   古着・襷・赤帯・まん袋を着用し、竪杵・錫杖・飯がい・しゃもじを持った田の神の滑稽な面舞。
   着物や持ち物の由来を薩摩弁で語っているのだが、殆ど分からないが、観客は笑っている。
   
   
   
   
   

   十二人劔
   素面12人の真剣の輪舞。白刃をもっての激しい舞で、左手に左隣の切っ先を握り、「岩潜り」を行う。
   その後、二人が真剣二振をもって舞い揚げる。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   長刀
   長刀を手渡された舞い手が、長刀を豪快に振り回して舞い続ける。
   観客の拍手が多い。
   
   
   
   
   
   宇治 
   鬼神の一人舞。右手に扇子、左手に高幣を持ち舞いつづけるのだが、ここの神楽は、面をつけてもぼさぼさの長髪なので、面が良く見えない。
   
   
   
   

   劔  
   最初は、素面の二人舞なのだが、真剣舞の途中で、緑の狩衣を着用し、藤の鞭を2本持った子供が登場して、3人が舞う。
   子供が真ん中に入り、両脇から差し出されて真剣の切っ先を握って、回転したり器用に舞う。
   
   
   
   
   
   

   花舞
   献饌された餅を盆の上に乗せて舞う。
   舞いながら落とした餅を客が拾う趣向だが、今回は、100個限定だと言って、客席を回って配っていた。
   とにかく、33曲中、今回の上演は、7曲だったが、ほぼ、3時間の熱演で、人口僅かの田舎で、このような凄い神楽が、900年伝承されているのは驚きである。
   
   
   
   
   
   土地勘がないので、何処が何処だかよく分からないのだが、えびの高原や霧島方面には、3回行っており、宿泊もしたし、熊本へ向かう高速道路に乗るために東へタクシーで走っているので、この秡川神楽の故郷を多少かすめたのではないかと思っている。
   大学の時、友人たちと九州を一周した時に、皆は都井の岬へ野性馬を見に行ったが、私だけ、韓国岳の中腹まで登ったり、その後、鵜戸神宮を回ったりと、宮崎で少し沈没していたが、当時は、迂闊にも、宮崎の国境に、このような素晴らしい宗教色の濃い芸術性の高い古典芸能が息づいていることを知らなかった。
  
(追記)写真を撮った座席は、確か、正面席の7か6列の20&21、カメラは、CANON G9X、絞り開放、非常に良いカメラである。
  
  
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映画・・・「散り椿」

2018年10月10日 | 映画
   久しぶりの映画である。
   隣の藤沢の辻堂であるから、観劇に東京に行くより、楽なので助かる。

   瓜生新兵衛(岡田准一)は、藩の不祥事を追及し故郷を逐われ妻の篠(麻生久美子)と出奔して、地蔵院に身を寄せていたが、病気の篠は、故郷の散り椿がもう一度見たいと呟きながら、亡くなった後、榊原采女(西島秀俊)を助けるために夫に故郷に戻ってほしいと頼んで逝く。妻の言う通り18年ぶりで故郷の扇野藩に戻ったところから、家老石田玄蕃(奥田瑛二)たちの悪事の真相が明らかになり始めて、藩内では再び抗争が巻き起こる。友人だった榊原采女と新兵衛は対決するも、真実を知り、家老と対決する。

   この映画は、時代劇映画にしては、オールロケで、素晴らしい日本の国土自然を舞台にして撮った映画だと言う。
   監督にインタビューで、「美しい時代劇を作りたい」と言っていましたねと聞かれて、「「美しい時代劇」というのは、単に映像が綺麗という意味ではないんです。人の心の美しさも表現したいと思いました。確かに映像的な狙いもあります。」と応えている。
   「背景に残雪の日本アルプスを見せたいと思って撮影時期を考えました。坂下家の庭先に見える竹藪も自生しているものの他に竹を足して、より美しい風景を狙っています。」とも言っているのだが、美しいだけではなく、風景が息づいていて、自然のかすかな鼓動さえ聞こえてくるのだが、丁度、中国人が愛でる13夜の月のように、紅葉にしろ錦に輝く秋色ではなく何処かくすんだ風景で、たまらなく感興をそそる。

   それに、作品の柱がラブロマンスだと言うのだが、冒頭の新兵衛が縁側に足を開いて座ったところに、結核で死期を迎えた妻の篠がもたれかかって最期の願いを吐露するシーンや、家の前の竹藪で剣の稽古を終えて井戸端に来ると、里美(黒木華)が手ぬぐいを絞って、汗を拭こうとする新兵衛に手渡すシーンや、去って行く新兵衛を万感胸に秘めて里美が見送るラストシーンなど、詩情豊かで感動的であり、麻生久美子も黒木華も実に魅力的で美しい。
   伏線として、篠が、采女と篠の婚姻話を采女の義母榊原滋野(富司純子)が反対して破談となり、新兵衛の妻になったことによる両者の思いと心のねじれが、二人を対決させるのだが、采女と篠の交わした手紙で真相が明かされて、篠の思いと真実が見えてくる。

   葉室 麟の原作「散り椿」が素晴らしいのであろうが、実に感動的な凄い映画である。

   キャストは次の通りだが、非常に適役で、素晴らしい演技を披露している。
瓜生新兵衛 - 岡田准一
榊原采女 - 西島秀俊
坂下里美 - 黒木華
坂下藤吾 - 池松壮亮
瓜生篠 - 麻生久美子
篠原三右衛門 - 緒形直人
宇野十蔵 - 新井浩文
平山十五郎 - 柳楽優弥
篠原美鈴 - 芳根京子
坂下源之進 - 駿河太郎
千賀谷政家 - 渡辺大
田中屋惣兵衛 - 石橋蓮司
榊原滋野 - 富司純子
石田玄蕃 - 奥田瑛二
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都響の定期公演チケット振替制度

2018年10月09日 | 生活随想・趣味
   東京都交響楽団の公演チケットは、シーズンメンバー・チケット、すなわち、一年通しの定期公演チケットの保持者である定期会員は、1~2回、チケットを交換できる。
   A,B,C,プロムナードと4種類のシリーズがあって、シリーズを越えて聴きたい公演チケットに振り替えると言うファンもあるのであろうが、私の場合には、行けなくなって、他の日の公演チケットに振り替えてもらうのが使用目的であり、これまで、結構助かっている。
   勿論、空いている日と席を選ぶことになるので、公演内容や席のグレードアップなどによって、チケット差額を支払うことにはなるのだが、かなり、融通が利くので不便はない。

   最初は、NHK交響楽団、そして、小澤征爾を聴きたくて新日本フィル、その後、この10年くらいは、都響の定期会員なので、他の交響楽団のチケットに振替制度があるかどうかは、分からないが、ファン思いの良い制度だと思う。
   定期公演のチケットは、お仕着せのプログラム編成で、好き嫌いは別問題だが、もう、半世紀の鑑賞キャリアともなれば、何でも楽しめるようになった。
   シーズン・メンバー・チケットの取得は、フィラデルフィア管弦楽團に始って、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(当時は、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団)、そして、ロンドン交響楽団であった。
   外地生活でもあり、当時は、それ程高いとは思はなかったし、とにかく、前2者などは、先祖代々孫子まで席を維持すると言うファンが多くて、市場に出るチケットは極めて少なくて、定期公演を押さえておかないと、トップ指揮者や目当ての奏者が出演するチケットなど、取るのは至難の業となるので、1回や2回行けなくても、十二分に元が取れたのである。

   何故、行けなくなるのか。
   私の場合には、急用など私的都合が大半だが、今回は、手帳に都響の予定の記入をミスって、能・狂言のチケットを予約してしまって、ダブルブッキングしたので、止む負えず振替ざるを得なかったのである。
   別に、交換しなくても、誰かに代わって行ってもらっても良いのだが、我が家族親戚でも、喜んで代わりに行ってくれる者はいないし、ロンドンの時にも、ロイヤル・オペラやロストロポーヴィチや小澤征爾指揮ロンドン響と言ったチケットさえ喜んで貰ってくれる同僚もスタッフもいなかったような状態で、結構、クラシックや古典芸能、芝居、などと言った趣味人は限られていると言うか、至って特殊な人々であって、普通の人には、猫に小判どころか、迷惑がられるのが落ちなのである。
   前には、趣味のある友人知人に、連絡してチケットを渡していたが、煩わしいだけなので止めてしまって、ダメな時には、自分さえ諦めればよいので、没にしている。

   いずれにしろ、チケットの先送りだが、この都響のチケット振替制度には助かっているのである。

   問題は、この振替だが、電話でも可能だが、とにかく、輻輳して繋がらないので、インターネットで手続きを行なえば、簡単である。
   しかし、問題があって、東京都の都響ともある団体が、HPから、「都響WEBチケット」をクリックしても、Microsoft Edgeに対応していなくて、Adobe FLASH PLAYER9をダウンロードしろと、前に進まず、何回試みても、埒が明かないのである。
   結局、マイクロソフト年間サポートの助けを得て、古いInternet Explorerに切り替えてやったら、事なきを得たのだが、元々、Windows 10には、Adobe FLASH PLAYERは収容済みであって全く問題はなく、都響のHPの方が、新しいMicrosoft Edgeに対応していなかっただけなのである。
   昨年、定期更改の時もそうだったので、相当数の人が、Microsoft Edgeに変わっている筈なので、よくビジネスが持っているなあと不思議に思っている。
  
   いずれにしろ、芸術鑑賞チケット取得には、夫々、それなりに苦労していると言うことである。
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イアン・ブレマー著「対立の世紀 グローバリズムの破綻」(2)

2018年10月08日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本の結論の章で、アメリカ資本主義の現状について、トランプ現象を通して論じており、傾聴に値する。

   冒頭から、アメリカが安全で繁栄しているから、トランプに投票した有権者はいない、と言う。
   失業者の一人に職探しさえしない無職者が3人もおり、失業中の男性の半数が日々鎮痛剤を服用している状況の国では、多くの人が、「変化」を求めている。不快で嘘つきで無能なトランプのようなポピュリストを非難するのはたやすいが、政治家や主要メディア、ビジネスエリート、銀行家、知識人階級に欺かれ、総てが自分たちの都合の良いように仕組まれたと思っている国民による「われわれと彼ら」の構図が、トランプを生み出した。
   アメリカのインフラはぼろぼろで、教育システムの成果は見劣りし、医療システムは問題だらけで、刑罰制度は機能せず、多くの兵士が戦い死んでいった戦争は何の成果もなく、最後まで十分な説明もない、アメリカの権力構造全体の失敗が、「われわれ」を、格差拡大と貧困に追いやり窮地に立たせた。と思っている。

   最近10年くらいアメリカに行っていないので、現状はよく分からないのだが、フィラデルフィアの郊外の工場地帯の廃墟と化した衰退ぶりや、貧民街の悲惨さ、それに、インフラの悪化など、当時でも、最高の富裕国であった筈のアメリカの暗部を見て惨憺たる思いをしたことがある。
   それ以降は、リーマンショックで経済が暗礁に乗り上げ、益々、富裕層や権力者に富と権力が集中して、経済格差の拡大が極限状態に達した結果が、思いもしなかったトランプ現象のアメリカ支配であるから、アメリカの民主主義と資本主義が、深刻な危機状態にあることは推測がつく。

   トランプは、自分の支持者が政府やメディアに対して、さらに悪感情を抱くように仕向けている。また、緊密な関係にある同盟国に対して永続的なダメッジを与え、世界の前で、アメリカに恥をかかせた。最悪なのは、政治的利益のために、意図的にアメリカ人同士を戦わせていることで、世論調査で示されているように、選挙民の二極化を浮き彫りにし、アメリカ国民を分断してしまった。と言うのである。
   しかし、批判をトランプに集中するだけに止まって、彼をホワイトハウスに送り込んだ根本的な緊急事態に目を向けなければ、アメリカの「われわれ対彼ら」の問題は悪化の一途を辿るだけであり、壁を建設するのは簡単になり、最も助けを求めている人々を援助することが難しくなるだけで、何の解決にもならない。
   トランプを嘲笑し、その乱行を罵り、その支持者たちを馬鹿にする方が、ずっと楽だが、自分たちには未来がなく、そのことを他のアメリカ人はどうでもよいと思っていると多くの人々に信じさせてしまった諸問題の解決に努力しなければ、大変ことになる。
   欧米の民主主義自体が劣化し危機に瀕している今日、難民流入問題に対するヨーロッパ人の対応も同じで、人々の生活の在り方を決める決定の益々多くが、選挙で選ばれないブラッセルの官僚によって行われるようになり、一般国民の生活を統制する決まりごとの数が増えると、ル・ペンのような政治的扇動者の台頭を招く。彼らポピュリスト扇動者に頼ろうとする人々の希望と不安を受け止めないと、「われわれ対彼ら」の問題は悪化し、左翼と右翼の両方が受け入れられる方法での社会契約の書き直しは、更に難しくなる。と説いて、民主主義の堕劣化・堕落に警鐘を鳴らす。

   トランプは、アメリカにとって、途轍もない不幸な大統領だが、批判するだけではダメで、それを選ばざるを得なかった「われわれ対彼ら」の対立構造を生み出した、ラストベルトの教育水準の低い白人労働者階層をはじめとした「忘れられた人々」の希望や不安を、真正面から受け止めて、真面に、窮地に立っているアメリカの政治経済構造を改革し、われわれを結び付けている社会契約を再生させなければならないと、ブレマーは説いており、市民、政治関係者、そして、民間部門を奮い立たせるべく、いくらか問題提起をしている。
   結果的には、かなり、迫力を欠いた根本的な改革に至らない提言なので、実現を目指しても、歴史の逆転は無理であろうと思う。

   先日も書いたが、何故、日本は欧米のように、政治経済社会の悪化と亀裂に対して激しい抵抗もなく、ポピュリズムが台頭する気配もなく、殆ど変革の可能性を期待できないような状態に止まっているのかと言うことだが、
   御立尚資氏が、解説で、自民党の長期政権、懲罰的なほどの所得への累進課税、3代経つと何もなくなると言われる相続税、、そして、一極集中での東京での税収を地方へ分配する税と公共事業の仕組み、これらの存在が、「貧困」はあっても、「格差」が相対的に少ない国と言う印象を与えていることにある、と説いている。
   それに、移民・難民の流入が非常に少なく、また、人手不足でAIやロボットが雇用代替への大きな不安に繋がらないと言った特殊要因の存在などを上げており、その他にも色々な日本社会の特殊事情が加わってのことであろう。

   しかし、貧困層の異常な増加など深刻な状況が生じているにも拘らず、問題は、民主党政権が国民の期待を裏切った後、弱小野党が、犬の遠吠え程度の掛け声だけで、何の改革力もなくパンチ力もない上に、太平天国にドップリト浸かって平和ボケの大衆の中から、強力な意気に燃えた高潔なオルガナイザーなりリーダーが出現しないことであろうと思う。
   私の学生時代は、「安保闘争」の最盛期で、大挙して河原町デモに繰り出したが、日本全土が革命騒ぎの騒乱状態であった。
   それは、無理としても、沖縄知事選挙くらいの盛り上がりは、必要だろうと思うが、良いのか悪いのか、眠ったままである。

   尤も、御立氏も、日本では、「対立の構図」の顕在化が遅れただけで、そのリスクは、非常に高いと言っている。
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「読書習慣はない」日本人は6割  と言うのだが

2018年10月07日 | 生活随想・趣味
   インターネットを叩いていたら、リアルライブの記事「「読書習慣はない」日本人は6割 ある発想の転換で、誰しも本好きになる?」に気が付いた。
   読書好きの私にとっては、見逃せない記事なので、読んでみたが、記者自身が、読書人ではないようで、本にどのように対峙しているのか、その姿勢さえ見えない。
   結語が、「いずれにしろ固定概念を外し、本を“娯楽の1つ”と感じることが大切だということだろう。柳沢氏が言うように漫画でも攻略本でも、まずは本を手に取ってみれば新しい世界が広がるのではないだろうか。」と言う一事からも、その軽さを感じざるを得ない。
   読書を娯楽と取ることについては、娯楽が何を意味するのかにもよるのだが、まず、本に対する問題意識の欠如と言うべきであろう。
   いずれにしろ、漫画でもゲーム本でもどんな本でも良いから、本を手に取る機会があれば、世界が広がると言うのだが、ダンテの「神曲」やトインビーの「歴史の研究」に、どうして挑戦できるのであろうか。

   開成中学・高校の柳沢幸雄校長の言を引用して、大切なのは「楽しんで読んでいるのか」ということであり、きっかけは文学作品でなくとも「漫画だって、ゲームの攻略本だって立派な読書」だと持論を述べている。つまり、漫画の読者も立派に読書をしているということである。と言っているのだが、これは、あくまできっかけであって、その後に、読書習慣がつくかどうかが問題なのである。
   また、出口治明氏が、「基本的にベストセラーはトンデモ本」「5年後に書店に残っている本はほとんどない」という点と、「どう考えても全部嘘」という実用書が多い点を挙げ、だからこそ“売れる”のだと語ったと言っているのだが、どんな本のことを言っているのか、私の読んでいる経済学や経営学の専門書に関する限り、そんなことは殆ど有り得ないので、暴言も甚だしい。
   
   何千冊もの本に挑戦して、読書については、このブログで随分書いてきたので、蛇足は避けるが、確かに、読書が私の人生そのものだと言えども、私にとっても、読書は娯楽であったかも知れないと思うこともある。 
   しかし、読書は、私自身では、到底到達し得ないような代理経験の手段であって、真実を知りたい、何が善なのか知りたい、美しいものに巡り合いたい、そんな思いで、一冊一冊本に対峙してきた。
   それは、何も読書には限ることはなく、あっちこっち旅することであっても、劇場やオペラハウスで観劇することであっても、先達の素晴らしい話を聞くことでも、人を愛することであっても、何でもよいと思うのだが、人生の喜びの一つは、真善美の追求であって、少しでも、その素晴らしさに触れる機会を得て、幸せを感じることが出来れば、これ程幸運なことはないと思っており、読書は、そのための貴重な手段の一つなのである。

   私自身は、読書習慣をつけるためには、鉄は熱いうちに鍛えろで、小中学校で、カリキュラムに組み込んで、しっかりと教育訓練することだと思っている。
   イギリスでは、スピーチ能力の涵養が重要だと考えられていて、しっかりと授業に組み込まれているのだが、あの要領である。
   調査結果で、「読書習慣はない」と回答したのは60.6%とかで、その理由として、「忙しい」が40.7%、「読みたいと思う本がない」が22.4%、「他の趣味の方が面白い」21.2%と言うことだが、子供の時に読書習慣を身に着け、その魅力を感じさせれば、確実に読書量は増える筈で、たとえ、xyや文法などの授業時間を割いてでも、はるかに、教育効果はアップすると思う。
  
   以前に、ジェフリー・サックスが、「世界を救う処方箋」の「注意散漫な社会」と言う章で、現代人の読書離れが、無知の蔓延の元凶だと、痛烈に批判している。のを紹介した。
   若者の間では、読書を楽しむ習慣が消え、書籍の購入は10年ほど前から急速に減り始め、アメリカ人が読書をしなくなり始めて、基礎的な知識を持たない人が増えてきた。特に気候変動のような政治論争の的になっているような問題について、科学的な事実を知らない人が多すぎる。読書力も急激に落ち込んでいる。新たな「情報の時代」と言われる今、実は国家の重大事と言う時に、市民として私たちも危機に直面している時に、国民の間で、基礎知識の崩壊が起こっている。と言うのである。

   また、このブログで「本を読まない日本の大人、特に四国人」と言う記事で、月に一冊も本を読まない大人が、全国平均38%もいて、四国は最悪でダントツに悪く、60%もの人が本とは全く縁がないと言うことを書いた。
   グーテンベルグの偉業によって読書文化が、一気に人知をレベルアップして人類の歴史をアウフヘーベンしたが、今に至って、日本人の読書離れは、間違いなく、民度の低下を惹起して、大袈裟に言えば、政治経済社会の健全性を根底から揺さぶる筈である。
   ネットショッピングで、百貨店をはじめリアルショップが危機的な状態に陥っているのだが、インターネットで、e-bookを読めばよいと言う次元の話とは違うと思っているのだが、どうであろうか。
  
   
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イアン・ブレマー著「対立の世紀 グローバリズムの破綻」(1)

2018年10月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ブレマーは、発想が豊かなので、論文も含めて読むことが多いのだが、この新著「対立の世紀 グローバリズムの破綻」も非常に面白い。
   タイトルは、「Us vs. Them: The Failure of Globalism」で、主題はグローバリズムの破綻と言うことだが、あのウォール街を占拠せよで脚光を浴びた「We are the 99%!」で象徴されるように、あるいは、トランプがアメリカを分断しているように、US我々とTHEM彼らと言う対立軸を浮き彫りにして論じているところが興味深い。
   グローバリズムの破綻と言うのは言い過ぎで、暗礁に乗り上げていると言うのが現状だと思うが、フリードマンの「フラット化した世界」と同様に、紆余曲折を経ながらの推移であって、不可逆的な大きな歴史の潮流で制止は不可能だと思っている。

   本書を読んでいて、最初に感じたのは、デジタル革命が大きくグローバル世界の構造変化を強いているのは、AIとIOTの進展によって、先進国と後発の発展途上国や貧困国との格差拡大、溝が、益々深くなると言うことである。
   世紀末から21世紀にかけては、ICT革命とグローバリズムの恩恵を受けて、新興国が、一気に経済成長を遂げて快進撃して、先進国にキャッチアップして、貧困層の減少を伴った経済格差縮小へと導いたが、これは、中国の大国化への軌跡を見ればよく分かる。
   しかし、この前世紀に賃金の安い新興国や発展途上国を目指して海外脱出していた先進国企業の動きが逆転して、国内へ回帰するのみならず、経済的に余裕のない発展途上国などは、AIと自動化の波に乗れず、置き去りにされてしまうと言うのである。
   
   その前に、アメリカでさえ、2017年の空間経済分析研究所の発表によると、次世代の自動化によって、2030年までに、職場での技術革新が、すべての主要都市で既存の職業の半数がロボットに置き換えられ、存続が危ぶまれる職業の殆どが管理、販売、調理およびサービス部門に属しており、先端技術によって、診療所、弁護士事務所や学校・大学で働く人々も機械に取って代わられるであろう。と言われている。

   もっと危機的な状況は、発展途上国へのテクノロジー革命の影響で、2016年11月に、国連が、新興国とそのより脆い制度的枠組・組織にかってない圧力となって、発展途上国のすべての雇用機会の3分の2が危険に晒されると警告している。
   自動化と機械学習の革新が、アメリカの職業の47%を脅かすのに対して、人口1.4億人のナイジェリアは65%、13億人のインドは69%、14億の中国は77%におよび、多くの人々の生活をひっくり返す激動が起きると言うのである。
   
   これまでの経済発展によって新興国や発展途上国では、田舎から都市部への人口移動によって、インフラ整備が追い付かず急速な都市化によって脆弱化し撓み始めており、統治能力に欠ける国家では、犯罪や汚職の巣窟になり、国民の怒りと抗議活動を惹起することになる。
   一方、経済的にも余裕があって、政府が有能で改革志向の国であれば、買ったものであれ、発明したものであれ、盗んだものであれ、新しい技術が労働者一人一人の生産性を高め、付加価値の高い洗練された財・サービスの提供に繋がり、賃金がさらに上がって、低コストに始まった大転換が真の中産階級の誕生を生み出し、経済発展を望めるのだが、殆どの国は、その能力がない。

   しかし、中進国の罠を脱却できなければ、これまで有利に働いていた低賃金など労働条件の優位性が低下して、世界中で展開されているロボット工学とAIの潮流に飲み込まれてしまう。
   
   さて、問題のテクノロジー革命が、先進国よりも新興国に対して大きな打撃となる理由について考えたい。
   先進国では、子供たちはおもちゃや学校を通じてデジタル技術に触れて生活しており、労働者に変化に即応するための教育訓練に投資する資金を持っており、大学は最先端のテクノロジーを取り入れる機会に恵まれており、企業そのものがテクノロジーの変化を推進する技術革新を生み出しているなど、政治経済社会全体が、デジタル時代に対応して進化して行く。
   そして、何よりも重要なことは、経済的に豊かな先進国程、ロボットとAI革命に最も必要な学問技術情報を生み出し提供して、必要な学者や技術者を教育訓練し、国家全体や国民を、新時代の潮流に対応できる環境を創り出せるのだが、悲しいかな、貧しい新興国には、これに対応する能力がなく、時流について行けなくなって、益々、後れを取る。

   このように、高い技術を必要とする21世紀の成長を担う政治経済社会環境が、先進国が優位に立つ流れを創り出す好循環を生み出すので、近年やっと長年の貧困から抜け出した10億以上の人々を置き去りにする。
   更に、先進国の豊かさは、国民を守る福利厚生に恵まれたセーフティネットが張られていて、適応する能力も回復する能力も、発展途上国よりもはるかに高く、レジリエンスが高い。

   もう一つ、ブレマーは、政治上でも重要な違いを指摘している。
   発展途上は、先進国よりはるかに衝撃に弱く、民主的な選挙によって選ばれていない場合は勿論、国民から見た政府の正当性が低く、三権など政治組織や統治機構が確立されておらず、権力者に有効な制約を課すなど脆弱であり、権力を集中させて経済を硬直化させ、・・・
   とにかく、プーチン・ロシアなどは、サイバー攻撃やハッキングなどには熱心だが、AIとIOT時代に即応した経済戦略を持ち合わせていないような感じがするのだが、新興国には似たり寄ったりの国が多い。

   ずっと以前に、条件さえ許せば、ICT、デジタル革命とグローバリゼーションによって、新興国が、技術テクノロジータダ乗りで、経済成長を図れる時代になったとすると、ロストウの経済発展段階説を見直さなければならないのではないかと書いたことがあるが、確かに、前世紀までは、中国が、国家資本主義政策を取って、ショートカットの経済発展を遂げて、中進国の罠を突破してきたのだが、今日、あまりにもデジタル革命の進化が激しくなって、前述したように、ロボットとAI革命が、新興国や発展途上国の経済的テイクオフの道を閉ざそうとしている。
   驚異的な時代の流れであるが、こうなると、貧しい発展途上国は、極端な政治を行っても、中国のような国家資本主義的な成長発展政策を推進しない限り、テイクオフは不可能なような気がし始めている。
   
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国立劇場・・・十月歌舞伎「平家女護島」

2018年10月05日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   開幕した国立劇場の歌舞伎は、近松門左衛門の「平家女護島」の通し狂言。
   芝翫が俊寛と清盛の二役を演じ、東蔵が後白河法皇、孝太郎が俊寛妻・東屋を演じているのだが、海女千鳥(坂東新悟)、俊寛郎等有王丸(中村福之助)、丹左衛門尉基康(中村橋之助)、丹波少将成経(中村松江)など、若手役者が清新な舞台を務めているものの、非常に意欲的な舞台ながらも、もう一つ舞台が盛り上がらず、惜しくも、空席が目立つ。

   「平家女護島」と言えば、普段は、二幕目の俊寛僧都が島に取り残される「鬼界ヶ島の場」のみが、「俊寛」として上演されるのだが、今回は、冒頭に、俊寛の妻・東屋が俊寛に迫られての自害を描いた序幕「六波羅清盛館」が演じられるので、俊寛が、自分の乗船を諦めて、その権利を、丹波少将成経の新妻・海女千鳥に譲って、島に残る心情がよく分かって面白い。
   平清盛が、東屋を、わがものにしようと迫るのだが、自分は常盤御前とは違うと毅然たる態度で清盛の邪恋をはねつけ、能登守教経(中村橋之助)の情けある言葉を聞いて自害して果てるので、それを、上使・瀬尾太郎兼康(中村亀鶴)に聞いた俊寛は、最愛の妻を失って帰京の夢断たれて絶望するのである。
   
   残念ながら、いつもの遅刻癖が災いして、冒頭の俊寛が、縛り上げられた東屋を前にして、俊寛を島から戻すかどうかは東屋の返事次第と言い放つ決定的な次のシーン(HPより借用)をミスって、ただ一人取り越された東屋が蹲る場面から見ざるを得なかった。
   大体、歌舞伎の舞台は、ninagawa歌舞伎など特殊な舞台を除けば、冒頭の10分くらいは、どうでもよい舞台展開なのだが、今回は、冒頭から核心的シーンが展開されていたのである。
  

   三幕目「敷名の浦磯辺の場 御座船の場」で、
   清盛は、厳島への御幸は、後白河法皇(中村東蔵)抹殺が目的だったと、法皇に入水を迫った挙句、海に突き落とす。それを見た千鳥が、泳ぎ着いて法皇を救い、有王に都へと託すのだが、怒った俊寛は、千鳥を海から引き揚げて殺害し、海に蹴落とす。
   天下を掌にした巨悪の権化然とした清盛は、御座船の舳先に立って海を睥睨して、不敵に高笑いするのだが、あたりが暗くなって二つの人魂が飛び交い、忽然と、御座船の舳先に東屋と千鳥の怨霊が現れる。
   驕る平家は久しからず、悪行の報いが清盛の身に迫ってくる予感であろうか。

   この「敷名の浦の段」は、昨年2月の文楽で観ており、多少記憶が残っているのだが、その時のブログをそのまま引用すると、
   備後の敷名に赦免船が到着すると、丁度、厳島に参詣の途中の清盛に遭遇するのだが、平家追討の院宣を出されてはかなわないと、同道した後白河法皇を海中に突き落とすのを、俊寛の身代わりに船に乗って都へ向かう成経の妻千鳥が助けたので、清盛は熊手で千鳥を引き上げて頭を踏み砕く。俊寛を迎えに来ていた有王が、清盛の軍平を蹴散らして、千鳥から法皇を受け取って逃げ去る。千鳥の死骸から怨念の業火が上がって清盛の頭上にとりつくので、恐れをなした清盛は都へ逃げ帰る。

   浄瑠璃なので、文楽の方が近松の原作に近いと思うのだが、手持ちの近松門左衛門の浄瑠璃全集には、「平家女護島」が入っていないので、まだ、読む機会を得ていない。
   今回の舞台で、取って付けたような感じの有王の派手な立ち回りも、これなら、よく分かるし、ラストの東屋と千鳥の怨霊の登場なども、歌舞伎としての舞台の見せて魅せる演出だと言うことが分かって面白い。
   「鬼界ヶ島の場」の舞台設定は、やや、貧弱な感じであったが、三幕目の舞台に設えられた御座船は、豪華で立派に出来上がっていて、素晴らしかった。
   

   芝翫の俊寛は、どうしても、見慣れている幸四郎や吉右衛門と比較してしまうので、多少老成さと言うか芸に円熟味が不足気味で、むしろ、芸の風格から言っても、清盛の方が、適役のような感じがして観ていた。
   東蔵は、ベテランの味、孝太郎は、やはり、毅然たる風格を示して好感。
   松江の芸の確かさ、亀鶴の偉丈夫、中堅の手堅さで舞台を支え、
   今回、芝翫の子息橋之助と福之助、そして、千鳥を演じた新悟の活躍が目立ったが、無難にフレッシュな舞台を見せていた。

   鬼界ヶ島の「俊寛」の舞台を観ているだけでも、興味深いが、やはり、今回のように通しで観る「平家女護島」の方が、はるかに面白い。
   
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文楽・六代豊竹呂太夫:五感のかなたへ

2018年10月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   英太夫が、呂太夫を襲名披露した頃に出版されたが、まだ、読んでいなかったので、昨年の襲名披露公演記念のNHKの番組を観ながら、遅ればせながら読んでみたが、結構面白かった。

   昨年5月の国立小劇場での呂太夫の襲名披露狂言は、「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」であった。
   その前の「寺入りの段」は、義太夫を呂勢太夫と三味線を清治、「寺子屋の段」は、前を呂太夫と清介、切を咲太夫と燕三であった。
   松王丸を玉男、千代を勘十郎、武部源蔵を和生、戸浪を勘壽が遣い、感動的な舞台であった。

   ところで、文楽の太夫の修業や人形遣いの途轍もない苦労話など、芸にのめり込む執念の凄さなどは、これまでに、住大夫や初代玉男や簑助などの履歴書や書物をかなり読んで知っているので、呂太夫のその方面には、殆ど関心はなかった。
   大阪弁での語り口がそうさせるのか、実際そうなのかはよく分からないのだが、悪く言えば、ちゃらんぽらんと言うか行き当たりばったり、良く言えば、幸運なり偶然が、呂太夫の人生を決定してきたような気がして、非常に面白かった。

   まず、クリスチャンになった切っ掛けだが、母がミッション出であったり日曜学校に通っていたとしても、中学時代の番長仲間のM君に誘われて、教会でのキリスト降誕の芝居で、一人足りない東方3博士にエキストラ出演して、その高校生クラスに、凄く可愛らしい名門の女子学院高校生がいて、清楚な感じのめちゃくちゃかわいい、好きなタイプなきれいな子で、すぐ辞めるつもりだったが、「もうちょっとだけいよか」。教会に逆戻り、これが、今の奥さんだと言う。

   小説家になる夢も劇団に入る希望も潰えて、勉強していたが、大学入試に2浪。5代目呂太夫兄さんに、「君は声が大きいから絶対に太夫になれる。東京を離れて大阪へ行って、修業みたいなもん適当にやっといて、やっぱり太夫はあきまへん、こんどはどっかへトンズラして文学の勉強したらええねん」と言われて、名案やと思って、いわば、家出の口実のために文楽に入ったんです。と言う。

   尤も、切っ掛けがどうであろうと、大変な苦労と努力奮闘、弛まぬ厳しい稽古と研鑽があってこその今日の呂太夫があるのであって、笑って済まされないと思うが、これも人生であろうと思う。
   呂太夫は、さらりと語ってはいるが、いぶし銀のような人生の軌跡を開陳しており、非常に感動的である。

   恥ずかしながら、自分自身を振り返ってみても、特に、確固たる目標や希望があって、今日まで生き抜いてきたと言うよりも、偶然の連続で生きてきたような気がしている。
   大学も、最初は法学部を目指していたが、経済の方が面白いと思って入試直前に学部を変更したり、大学に入っても、何を目指すべきか判然としていなかったし、就職先も特に選んだわけでもなく、何となく入ったと言う感じであったし、
   まあ、スタートとしては、偶々、良い大学を出て大企業に入って、アメリカ留学に派遣されて、それがトップクラスのMBA大学院であったが故に、そして、Japan as No.1の日本経済の全盛期であったことが幸いして、ロンドンパリを股にかけて、世界中を駆け回り、切った張ったの人生を歩んできた。と言うことであろう。
   世俗的には、成功しなかったが、世界の歴史の現場・故地や貴重な文化遺産や劇場や博物館・美術館などを逍遥して、真善美の追求を通じて、人間の凄さを実感してきた。幸せだったと思っている。

   もう一度繰り返せるかどうかは別として、良かれ悪しかれ、人生は、何度も十字路に直面して苦しみながらも、結果的には、偶然の連続であるような気がしている。
   
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鎌倉の住宅事情はどうなるのであろうか

2018年10月02日 | 政治・経済・社会
   先日、日経に、「首都圏に所得減のドーナツ 衰える「始発のまち」
限界都市 NIKKEI Investigation 」が掲載されていた。
   「かつて栄えたベッドタウンの衰えが際立ってきた。市区町村別に2011~16年の住民所得を調べると、首都圏の郊外でドーナツ状に減少が続いていた。団塊世代が年金生活に入り、モノづくりの空洞化で働き手も集まらないからだ。上昇に転じた都心部などとの違いは鮮明で、若い世代を呼び込む工夫が要る。」と言うのである。

   「団塊世代退職の余波」として、埼玉県久喜市を例に挙げて、都心まで1時間強だが、空き店舗や空き家が目につき、年寄りの姿も多くて、5.4万円減った。市の人口は約15万4千人で、5年前とほぼ同じだが、高度成長期にマイホームを求めて移ってきた団塊世代が退職。15~64歳の生産年齢人口は約8千人減り、65歳以上は約9千人増えた。この住民構造の変化が所得減の大きな要因だ。と言うのである。
   総務省の「市町村税課税状況等の調」をもとに、納税義務のある住民1人当たりの課税対象所得を集計。5年前と比べた。増減を地図で色分けすると所得が減っている自治体がドーナツ状に浮かんだ。沿線の始発駅があるまちが多い。として、次の地図を示している。
   

   「団塊世代退職の余波」の現実を示すために、高齢者人口増に注目すると、「2010年~15年の間に65歳以上の人口割合が5ポイント以上増えた自治体を地図にしたところ、似たドーナツがあらわれた。久喜市は5.9ポイント増加していた。取手市は6.8ポイント、飯能市は5.2ポイント増えた。」として、次の地図を表示している。
   
   
   日本経済の絶頂期に開発されたニュータウンが、課題先進国日本の最も深刻な少子高齢化とバブル崩壊後の経済低迷の影響をもろに受けて、窮地に立っているケースは、もう、四半世紀以上も前から起こっており珍しい話ではないが、地方経済の疲弊と経済格差の拡大以上に、首都圏・大都市圏の直近の郊外諸都市の疲弊は、日本にとって深刻な問題を投げかける。
   このベッドタウン頼みのまちが取り残されるドーナツ現象は、何も首都圏だけの話だけではなく、関西圏にもみえる。大阪市や神戸市で所得が増えるなか、兵庫県三田市や奈良県などのベッドタウンは減少し、格差が生じている。と言うのである。

   それでは、我が街鎌倉は、どうなるのであろうか。
   平成30年の公示価格では、鎌倉駅から長谷にかけての中心街は上昇しているが、それ以外は、隣の藤沢市も含めて、ほぼ低下、よければ横ばい程度で、上がってはいない。
   この現象が、幸いしているのか、どうかは分からないが、鎌倉山の西麓の急斜面と空き地に、最近19棟の戸建て住宅が完成完売し、現在、それに隣接して、10棟の戸建て住宅が建設中であり、更に、数百メートル隔てたところに6階建て157棟のマンションが建設中である。

   しかし、鎌倉は急斜面が多くて、住宅地になる空地は、非常に限られていて、このように、相次いで住宅が建設されるケースは少ない。
   現在、鎌倉では、前述の衛星都市のケースとは少し事情は違うかも知れないが、やはり、高齢化の影響であろう、空き家が多くなってきており、大きな土地には、2棟の戸建て住宅が建売されるケースが多く見られるなど、結構、新陳代謝は起こっているので、息づいているのであろう。
   
   鎌倉は、住民の平均所得が高いと言われるが、どうであろうか。
   前述の調査によると、所謂、首都圏のトカイナカ(都会田舎)が、疲弊しつつあると言うことなので、鎌倉も同様だと思うのだが、鎌倉には目ぼしい産業が何もなく税収が少なくて財政が厳しいので、産業に恵まれた経済的に豊かな隣の藤沢と比べて、社会福祉面など市民サービスが劣っていて、また、物価が高いので、庶民には住みにくいところである。
   文化観光都市鎌倉と言うのだが、さて、これから、ドーナツ化現象の波に巻き込まれるのであろうか。
   興味深いところである。
   
   
   
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