3人制バレー

部員ギリギリ・辰巳ジャンプ。今日もたった6人で練習。

最近は、このギリギリの人数の子どもたちを“ギリギリとしぼるように”練習してもしょうがないという気持ちになっている井上です。

子どもなりの自由な発想を生かせるように、6人そろったら3人対3人のゲーム練習ばかりやらせようと思っています。この人数でやると、ラリー中に自然と相手の弱点を探すように訓練されるので良いのです。その成果あって、サウスポーエースはこれまで苦手だったコースへのスパイクの打ち方を自然に身につけてしまいました。このスパイクの打ち方は独特ではいやらしい。大会でもきっとかなりの得点を期待できるでしょう。

すごく楽しく練習している子どもたちは、いつも私が指摘している「具体的な指示の声を出せ」という課題も簡単にクリアしていきましたし、何よりも「先生、もっとゲームをしていいですか?」と前向き。やっぱり自発的でポジティブな気持ちの中に創造性も育まれていくのだと再確認しました。


最近、「辰巳ジャンプの掲示板過去ログ」をこのブログ内に再アップする作業を続けているのですが、発掘された私の文章の中に貴重な気づきがたくさんあります。

例えば・・・



『なんで○○なんだ!よりも、○○したのはなんで?』(2004年12月27日)

白石豊先生から学んだ言葉かけ手法をひとつ。

私たち未熟者が指導をしていると、どうしても出てしまう言葉があります。それは「なんで」という嫌な言葉です。私自身、言いたくないのにどうしても出てしまう言葉です。この「なんで」も使いようで、言葉の先頭に「なんで」を持ってくるのではなく、最後に「なんで」を持ってくると選手は救われるというのが白石先生の理論です。

「なんで○○しないんだ!」「なんで○○するんだ!」と言うと、選手は追い込まれてしまう。答えようがない。答える余地を許さない。これが枕詞の「なんで!?」です。

「○○したのは、なんで?」と言葉の後ろに持ってくると、選手は自分で答えを考えるようになる。客観的に自分を見ることができるようになる。自然にやる気が育つというわけで、私も納得しています。

こんな些細な違いでも、指導者は自分の感情に振り回されて言葉を発しているか、自分の感情をコントロールしながら効果的に指導しているか差が出るのですから、言葉とは恐ろしいものです。




このころのチームは、私も子どもたちも「全国大会出場」を目標に練習していた。私自身はバレーボールにすべてをかけて必死に学んでいたのです。時が流れるのは恐ろしいもので、たった3年半前に考えていたことをずっと忘れていました。

記録しておいたから思い出せたわけで、やっぱり自分の信念である「思想は逃がすな!」という行動は大事です。

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半分教師 第10話 「あなたが一番わかっていない」

養護学校は若い。若いがために先輩からは遠慮ない指導がたくさん入った。先輩といっても年齢は10歳も違わない。今思い起こしてみると、大学のサークル活動をしているような感じだった。

どの教員も皆、一生懸命だった。ほっておけば死んでしまう子ども達を相手に仕事をしているので、心身ともにハードなわけだが、なんだかみんな楽しそうだった。


3年目の文化祭の時、学級は重度重複障害児を受け持っている先生の意見で、徹底的な話し合い活動をした。話し合いといっても話をできる子が半分以下。話題は友達ということや自分って何?ということなどを話し合った。

ところがこの話題に私はついていけなかった。ついていけなかったから、ここでも言葉にすることができない。文化祭での取り組みは「光を求めて」という劇なのだが、徹底的な表現活動というか、セリフはひとつもない。音楽と光と色と遊び場を設定して、自由に動くという想像もできない取り組みを行なった。

ものすごい違和感があった。今でこそ何とか理解できるが、それでも文字では説明ができない。ビデオを残してあるが、それを見てくださいとしか言いようがない。

こんな状態で文化祭を迎えたから、私は先輩の女性教師に最後に言われた。
「あなたが一番分かっていないよ。子どもたちの方が分かっている。みっちゃん先生は不器用だから、自分の考えを柔軟に変えられないのよ。」

言葉を越えた世界の教育は難しい。
難しかったがゆえに、言葉の通じる子どもたちへの教育は、どんな子どもでも何とかなるだろうと楽観的には見ることができる。

(続く)

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半分教師 第9話 「教職員集団作りマニュアル」

新任で養護学校に赴任したからこそ学べたことがたくさんある。

養護学校は小学校から高校まで同じ校舎にいるので、教職員の数が半端じゃない。100人を越えていた。話をしたことのない教員がいるほどだ。そんな集団をどうまとめていくのか?これが養護学校の大きな課題であった。

私が赴任した学校には、大変に先見の明がある先生がいた。その先生のリーダーシップによって「教職員集団作りマニュアル」というものが、教員全員の意見の元に作成された。これができた時に私はどうしてこんなものが必要なのかを全く理解できなかった。しかし、教員経験を年々重ねるごとに、このマニュアルの示していたものが光を放ってきた。

・教員の仕事はリーダーとフォロワーが機能して初めて良いものができる。
・リーダーは独りよがりではいけない。
・リーダーは全員の意見を生かせるように考えることが大事だ。
・フォロワーはリーダーと同じ方向を見るように努力し、リーダーに足りない面を補助していく。
・フォロワーは仕事をリーダー任せにせず、積極的にリーダーを補佐すること。
・フォロワーがしっかりしている組織は発展する。
・教職員は常に共通理解をしながら進んでいかなくてはならない。
・何も役目のない人が、役目のある人以上に働いた時に大きな仕事ができる。

当たり前と言えば誠に当たり前の内容かもしれない。
しかし、こういうことが明文化されることはあまりない。
そんなことは常識だと片付けられるであろう。

でも、学校の教員室で、こうした内容のマニュアルが誕生したことは本当に珍しいことだと私は思っている。

そして新任の時代に刻み込まれたこの考え方、「フォロワーの精神」は私の体の中に染み付いている。

(続く)

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半分教師 第8話 「くまさんマン」

養護学校には、いろんなキャラクターが登場する。

席に座って鉛筆持ってという授業ではなく、感覚遊びとか素材遊び、身体表現遊びなどをしながら、「生きていることを感じていく」ような授業・・・簡単に言えば、「笑顔を引き出す授業」がたくさん行われていた。

そのために「キャラクター」が必要になる。
NHK教育の番組でも「ストレッチマン」が登場してくるように、ある登場パターンを持っているキャラクターを教員が演じていた。

私が演じたのは秋の文化祭のオープニングとフィナーレに登場する「くまさんマン」であった。文字通りクマの着ぐるみに入って、会場にいる子ども達を喜ばせる係であった。
「新任の登竜門だ」
そんなことを言われて素直に中に入っていた。

これが暑いのなんの!
たった30分間入っているだけで汗だく。
大変なんて言葉を通り越して、「死ぬ・・・」と思った。

こんな経験をしているので、普通小学校に転勤した後も、運動会では必ず“自主的に”キャラクターを演じていた。その中のひとつに、当時流行っていた「たまごっち」を文字って作った「たまごっちの親せきの“いのっち”」で登場したことがある。それがイノッチ先生という名の誕生秘話である。決してジャニーズのマネをしているのではなく、ジャニーズのイノッチは私よりもあとだということを書き残しておく(苦笑)

前任校に転勤したその年の運動会。
父母競技に出場しているお父さんの中に、「サルの着ぐるみ」を着ている集団があった。「私と同じ人種がここにはいるぞ!」と嬉しくなったことを鮮明に記憶している。

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半分教師 第7話 「学年主任と進路対策委員長」

養護学校で3年目。当時、若干24才の私がなんたることか重要なポジションに就くことになった。

「学年主任」
「進路対策委員長」

今考えると「よく受けたもんだ」と赤面するが、このころの私は「自分には教育界で果たすべき使命がある!」と意気込んでいたので、重要な仕事であっても絶対にやりきってみせる!と受けてしまった。

学年主任と言ったって、小学校とはまったくちがったメンバー構成であり、全部で8人の教員集団をまとめるのだから、どうして私が学年主任になったのか不思議に思われるだろう。それには理由がある。同じ学年の先生たちは、私よりも重要な役目を学校で担っていたからである。
「進路指導主任」「授業グループ主任」「次期教頭候補者」などなど。
そうなると消去法で私が学年主任をやるしかなくなる。この貴重な経験が私の財産となっている。

それ以上に宝となっているのが「進路対策委員長」の仕事である。
子ども達の進路指導をしていく教員は「進路指導主任」がいる。それとは別に、進路先の施設を作る運動に協力したり、新しい進路先の情報を仕入れたりと、一歩学校の外に出た活動をしていくのが進路対策委員会であった。
この活動を通して身につけたことが、前回の文章で書いた「進路は生きる道筋」という哲学である。

若き日の猛進とも言える失敗を恐れないチャレンジは、若い時にしかできないからこそ財産となる。
同じことを今の私がしたら、非常識な人だと批判されかねない。

若いということはそれだけで財産だ。

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半分教師 第6話 「進路は生きるみちすじ」

もし小学校教師がスタート地点だったら、こういう価値観を学ぶことすらなかっただろう。障害児教育が教育の原点だということを本当に理解したのは、たった3人の受け持ちの子へ毎週出し続けた「グループ通信」に書くための情報を仕入れていった研鑚の最中であった。

「進路は生きる道筋」

とかく進路というと、ゴール地点をイメージしてしまうが、そうではない。施設に入ることが生きる目的になってはいけない。家族も子どもも含めて、『どんな生き方をしていくのか』ということが進路である。

障害が重いと周りの人間が進路を決めてしまうケースが多い。しかし自己主張ができない重度重複障害の子であっても、人間として生まれたからには基本的人権がある。健康で文化的な社会生活を送っていく権利があると憲法に定められている。法律で定められていなくても、充実した人生を選んでいける権利は当然あるはずである。

進路を考えるに当たって大事なことは、「生き方」「生き様」を学ぶことである。自分はどんな生き方をしていきたいのかを徹底的に考えることである。

大学に受かることが人生の目的ではない。
会社に入ることが人生の目的ではない。
教員になることが人生の目的ではない。

自分の進んで道でどのような生き様を見せていくか、自分が納得のいく道のりをどう歩んでいくかが「進路」なのである。そう考えれば、人間の一生が進路を求めていくための道程である。

自分が進んで道で、どう社会に貢献していくのか。
この世界をどうやってより良く変えていくのか。
こうした出発点から進路を考えていくことで、深い節目を心に刻んでいけるものである。

最後に「節目」という言葉について説明すると、人生を竹に例えると、竹は節目があるから真っ直ぐに強い成長を遂げていくことから、人間の人生も節目をしっかり刻んでいくことで、強い人間になれるという例えである。

(続く)

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半分教師 第5話 「障害者スポーツ大会」

私のスポーツ指導熱は生まれついたものなのかもしれない。
最重度障害の養護学校に赴任したにもかかわらず、なんとかスポーツ指導をしたいといつも考えていた。

そこに入った情報が「東京都障害者スポーツ大会」の存在である。これは毎年秋に、駒沢オリンピック公園を使って開かれている大会である。その存在を知った私はさっそく受け持ちの子ども達を鍛えに鍛えた。

とは言え、障害の重さははんぱじゃないぞ・・・・・

出場させることにしたのは2人。一人は脳性まひで右手右足が使えない子。もう一人も脳性まひで、座位も取ることのできない子。移動は電動車椅子にひもで身体をしばりつるようにして動く。

片まひの子は「卓球」に出した。
車椅子の子は「電動車椅子スラローム」という種目に出した。これは数ヶ所に置いたコーンをジグザグに回りながらタイムを競うという健常者競技には見られない種目である。

障害者スポーツは、健常者以上に身体の個性に差があるので、障害の程度に応じて種目レベルがある。卓球の場合は、手も足もまひがある両片まひの部に出場させた。

卓球は私の専門であり、私の得意なサーブで勝負をさせることにした。必殺サーブをひとつ身につければ、障害者大会では絶対に勝てると確信した。養護学校はスクールバスで通学しているので、放課後の練習はできない。なので休み時間に練習。ラリーなどどうでもいい。サーブ練習とスマッシュ練習あるのみ。

「電動車椅子スラローム」はF1と同じである。
いかに性能の良い電動車椅子に乗っているかで勝負が決まる。幸いなことに、私の教え子の電動車椅子は業者が電圧調整を間違えたのか、ものすごくスピードがあり、笑い話だが校内では「電動暴走族」と言われて衝突を恐れられていた。(本当は絶対に衝突しないから安全です)
あとは0コンマ1秒でも早く操作できるかどうかである。

この二人を擁して、障害者スポーツ大会は卓球で銅メダル、電動スラロームで金メダルを獲得した。

私が卓球の現役時代に夢の夢だった東京都大会のメダルを二人の教え子が手にすることができた。指導者冥利に尽きる経験であった。


今、北京でパラリンピックが行われているが、障害児学校にずっと勤務していたとしたら、もしかしたらパラリンピック選手を育てていたかもしれませんね。
(つづく)

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半分教師 第4話 「はちゃめちゃ」

教育実習中に家庭訪問までする学生がいったいどのくらいいるだろうか?
私は思い込んだら前進するタイプなので、教育実習の1ヶ月間で本当に子ども達の心に残るような実習生になるぞ!と心に決めて取り組んでいた。

私が実習した小学校は全校児童が200人強という小規模校だったので、1ヶ月で学校の子ども達全員に近い名前を覚えた。6年生クラスでの実習であったにもかかわらず、実習後には2年生の子との交流が続いた。ご家族とも仲良くなり、その後数年、定期的に家庭訪問をした。おみやげのお菓子を持って。

実習中もクラスの子が連合運動会を風邪で休んでしまったので、家庭訪問をして励ましの置手紙を残してきた。

これははっきり言って、余計な行動である。学校にとっては迷惑な行動である。
担当の先生はよく注意をしなかったものだと、その器の大きさに感謝している。
ばれなかったのかなぁ?(笑)

こうした傾向は教員になってからも直ることはなく、自分勝手に家庭訪問をするので、学年の先生に厳しく叱られたこともあるほどだ。
「あなたは本当に不器用な教師だね。」
飲み会の席上でそう言われたことが懐かしい。

今の若手教師に失敗を恐れずチャレンジ精神で突き進んでいく者がどのくらいいるだろうか?
私はそういう人を応援したい。

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半分教師 第3話 「平均年齢20代」

たぶん今でもそうなのではないか思うが、養護学校の教員の平均年齢は異様に若い。私が学年を組んでいた集団は平均年齢29歳であった。一番上が34歳。本当に若い。

若いと大学のような雰囲気になる。勉強もよくしたが、毎日のように教員スポーツで楽しんでいた。おもに野球とテニス。合宿もやり、大会にも出場した。

遠足に行く時は楽しかった。なぜなら同期のかわいい女性教員が、私の分の弁当まで作ってきてくれるからだ。「自分の分だけ作るよりもたくさん作った方が作りやすいから、みっちゃん先生(当時そう呼ばれていた)の分も作ってきてあげる。」ということで、お言葉に甘えますとお願いした。

こんな雰囲気の学校だから、私は「4年間は大学院に入ったつもりで頑張ろう。小学校はそれからでも遅くない。」とぬるま湯につかることにした。

学校には同期が13人もいて、87年入社を文字って「はなの会」という同期会を作った。たぶん今でも同期会を開いているのだと思うが、大卒ですぐに採用され、一番年齢が低かった私はちょっとその雰囲気になじめず、疎遠になってしまっている。いけないことであった。

(続く)

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半分教師 第2回 「目を開かれた新任時代」

半分教師とは、教員生活の半分を終えた自分のことを振り返る意味と、まだまだ半分くらいしか実力がついていないぞという自分への戒めの意味をこめた題名である。


そのころの教員試験は非常に厳しいものであった。
そんな時代に教員になった。

大学の同期が次々と落ち、3月中に赴任先が決まらない友人がほとんどであった中、私は幸いなことに4月1日から教員としての一歩を踏み出すことができた。しかしそこは予想もしていなかった学校・・・肢体不自由養護学校・・・であり、教員免許もないのに高等部担任となった。 (こういう特例は認められる)


見たこともない世界だった。

目の前にいる生徒は18歳なのに体重が13kgとか、筋ジストロフィーで寝たきり状態の子。脳性まひ、心臓病、中途障害で片麻痺になった子、知恵遅れ、蒙古症、二分脊椎、ネフローゼ、モヤモヤ病、頻発性のてんかん。
もっとショックだったことは、こうした先天性の障害児をかかえた家族は、遺伝の影響か兄弟そろって障害をかかえているケースが少なくないということだ。

健康で五体満足であること。それがどれほど幸せなことなのか。私は自殺をしていく子ども達に強く言いたい。「自殺することすら自分の力ではできない子ども達がいるのだ」ということを。

こういう生徒を目の前にして、私は1学期間、悩みに悩んだ。
「いったい自分に何ができるというのか?いったい何が教育だというのか?」
新任研修で「障害児教育は教育の原点」という言葉を教えてもらった。しかしそれがどうしてなのか、一向に実感がわかなかった。

むさぼるように本を読んだ。昼も夜もなく勉強し、障害者施設の職員勉強会にも自主的に参加した。生徒の卒業後の受け皿になる施設作り運動にも先頭を切って参加した。組合運動で東京都庁への交渉にもついていった。でも、そんな勉強では何も分からなかった。


ある日、休み時間に生徒達とゆったりとしている時、ふと視線が気になった。最重度障害の女の子の視線である。言葉がしゃべれないし、意志も私にはまったく理解できない子だった。その子が指先をちょっと動かしている。「もしかしたら呼んでいるのかな?」と感じた私は、名前を呼びながらそっと寄り添った。するとその子はふだんあまり見せないような笑顔を見せてくれた。
「自分はこの子たちに育てられている!!!」
なぜか瞬間にそう思った。

生命は永遠である。
人間一人の生命と考えると分かりにくいが、最新の天文学、物理学、哲学、宗教学、心理学、社会学をフル動員して宇宙単位で考えていくと、生命は永遠であると考えないと宇宙は成り立たなくなる。
感応妙という言葉がある。
言葉を越えた生命と生命の響き合いという世界である。

養護学校で私が学んだ最大のことは、

「教師の生命が躍動していて、いつも前進の気概にあふれていれば、その躍動に響き合って、どれだけ障害が重い子ども達でも可能性を開いていくことができる。もし今のこの身体での一生で解決できなくても、次に生まれてくるときには五体満足で人のために働くことのできる体と心を持って生まれてくる。」

自分で勝手に思ったことだが、哲学というのは誰がなんと言おうとそうなんだという確信であるから、これが私の教育哲学として23歳の時に確立された。養護学校にいたからこそ実感として焼き付けられた哲学である。

(続く)
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ザ・ベストハウス123 「すごい脳」 【視聴マインドマップ】

「ザ・ベストハウス123」の話題は「スゴイ脳」
茂木健一郎先生のブログで番組の紹介があったので、子どもたちにも紹介して「興味ある人は見るといいよ。」と呼びかけておいた。呼びかけたからには自分でも視聴しないといけないだろうから、見ながらマインドマップにしていった。

「サヴァン症候群」
サヴァンとは賢者という意味だということだが、いやいやすごいすごい!コンピューターを超える記憶力を人間の脳は持つことができるのだ。そのパワーを発揮するためのキーワードは「リミッターを外す」ということ。これは私がクラスの子どもたちや職場の先生方にいつもうったえていることだ。

「リミッターを外す」
とても難しいことだが、これまた訓練をしていくとある程度は外すことができるようになってくる。自分なりの外し方を試行錯誤しながら編み出していくことをお薦めする。
子どもたちがマインドマップをかいている時に生まれる「集中力」・・・フローの状態も、自然にリミッターが外れて、加速度的に能力を発揮している状態になっていると思えてならない。

「無償の親(または親に等しい人)の愛情」
今回の番組内容の中で、最も大きなテーマはこれだったのではないだろうか。
紹介されたサヴァン症候群の方々は皆、重度の自閉症で社会生活を送ることが難しい。それでも人間社会の中で幸せに精一杯生きていってほしいという親の愛情が、子どもの秘めた能力を発見することにつながり、才能を開花させることができたベスト3の事例だったのではないだろうか。

きっと日本にも、こうした方々がいらっしゃることだろう。私が初任の頃に勤務していた養護学校の卒業生にも、切り絵でものすごい作品を作り出す才能を発揮している卒業生の方がいた。その絵を初めて見せてもらった時、「こんなにすごい切り絵はどうやっても自分にはかけないな。すごすぎる!」と私の心に完全にリミッターがかかったことを強く記憶している。もしかしたら今ならかけるかな?(笑)



さて、これまで民放番組を見ながらマインドマップをかくことはあまりなかったので、ちょっと気がついたことがある。途中でCMが入るので、その時間に番組内容で心に残ったことを書き加えしていく余裕が生まれるということだ。
「放送中にかいて、CM中に書き加え、終了後にまとめる」という三段階でかいていくと、記憶にも頭の整理にも良い感じがする。

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半分教師 第1回 「小学生バレーボールとの出会い」

私が小学生バレーボールの指導を始めて14年になる。本職の卓球が選手時代とコーチ時代を含めて10年しかやっていないのだから、12年も良く続いたと思う。

小学生バレーとの出会いは教育実習時代にさかのぼる。
大学4年の9月に実習に行った小学校にけっこう強い小学生バレーチームがあった。練習は水曜日の放課後と土日。水曜日は監督さんが来れないので、学校の先生が練習を見ていた。そこに私も参加させていただいた。たちまち小学生バレーの虜になった私は、教育実習が終った後も数ヶ月間バレーの練習に通ったほど夢中になった。
教師になったら小学生バレーの指導をしてみたいなと感じ始めたのがこの時期であった。

しかし、新任で赴任したのは小学校ではなく、障害が最も重い肢体不自由児の養護学校であった。

(続く)
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恩師に本にしていただいた「ぼくの日記」

まずは写真を見てください。

小学5~6年生の頃に書いた日記を担任の細川泰子先生が大事に製本してくださったものです。このころから私は文章を書くことが好きになりました。自分が書いた文章を誰かが読んで心を動かしてくれることが楽しかったのです。どんなささいなことでも良いから認めてもらえることが少年の自信になったわけです。

細川先生は30代のお笑い芸人のような先生でした。(先生、失礼しました。ゴメンナサイ。)

黒縁メガネをかけていて、いっつもジョークを飛ばしては子どもたちに笑われ・・・いえ、笑わせてくれて、教室が楽しくて楽しくてなりませんでした。

国語の日記指導、算数では「わかる算数」を副教材に使って「ブラックボックス」を解いていく比例問題で私が解き方を考えついた時には、「いのビー方式」(私の小学生の頃のニックネームは『いのビー』と言われていました。)という名前をつけて褒めていただきました。

男女がとても仲良くて、神社でいっしょに遊んだり、目黒区の自然教育園に先生と一緒にクラスのみんなで行ったことも記憶に残っています。

細川先生は私たちを卒業させると同時に若くして教員を退職されました。私が通った小学校に転勤してきてすぐ、5年生の私たちを担任し、そして6年生として卒業させたら辞められた。私たちを教えた2年間しか学校にいなかったのです。

先生のすごいところは、その後中学1年生になった私たちの家庭教師をしてくれたことです。男子グループ2箇所、女子グループ1箇所の合計3箇所、週に2回ずつ全部で6日間。ほぼ無償に近いような金額で家庭教師をしてくださいました。中学に進学してどうやって英語を勉強していったらいいのか、数学も難しいという時に、学び方を教えてくださり、学習のリズムを作ってくださいました。

ある意味、私たち細川学級の最終卒業生は、先生にすべてをかけて、手塩にかけて育てていただいた教え子なのではないかと今では思っています。


私は小学生の担任をするようになって以来、ずっとこの細川先生の後姿を追いかけているような気がしてなりません。けっこういろいろな実践を積み上げてきましたが、まだまだ細川先生の足元にも及ばないと思っています。

「青は藍より出でて藍より青し」という言葉がありますが、恩師の与えてくれた魂をどれだけ広げていけるかどうかが卒業生としての役目だと思っています。

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新たなコーナーを立ち上げます

思い立ったら即行動。あまり考えずに動き出す井上です。

掲示板の過去ログをアップする作業をしていて気がつきました。過去を公開するなら徹底的にやってみようかな・・・・・ということで、なんとなんと自分の小学生時代の日記を公開することにしました(笑)

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5年の4月21日 「『夏みかん』について思ったこと」
朝子と一夫は親思いだと思った。

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えっ???たったこれだけぇ?!
1行しか書いていないじゃん!


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4月23日(水)曇り
「巨人対大洋戦を見に行ったこと」
去年の6月16日(日)に、ぼくは巨人対大洋の試合を見に行った。試合は巨人があっとうてきにリードし、12対4で勝った。この試合で王はホームランを打ったが、長島は打たなかった。試合を見ていて気がついたことは、打ったボールが見えなくなることに気がついた。
あんまり面白い試合ではなかった。

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野球少年ではあったわけで、品川ドジャースというけっこう強いチームに入っていました。


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4月29日 晴れときどき曇り
「野球の試合をやったこと」
今日、ハヤブサと試合をやって、ぼくたちのチームが2対1で勝った。これでぼくたちのチームは11連勝になった。

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5年生しかいないチームで6年生に勝っていたのですな。今思えば、監督さんは4年計画で東京都優勝を目指していたんですね。



こんな感じで少年・井上の日記を公開していきます。

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アーカイブ発見「私とマインドマップとの出会い」

今、ブログ日記を始める前に、BBS運営をしていた頃のアーカイブをこのブログ内にアップする作業に取り組んでいる。何しろ6年分もあるので大変な作業。しかし、自分が過去に何を考えていたのか振り返ることもでき、懐かしんだり反省したりしている。

そんな中で、とうとう発見した。自分とマインドマップの出会いを。

それがこれだ!


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2004年10月29日(金)

今日の辰巳小は午後の授業をカットして、教員はみんな近隣小学校の研究発表会に研修に行きました。体育の研究発表でした。

私は当然のごとく6年生「ソフトバレーボール」の授業を見せてもらいました。会場に入ってすぐに「あれ?」と思ったのがボールでした。大人用のソフトバレーボールを使っている。たしかに6年生だとビーチボールでは物足りないという考えもありますが、それは技術的にある程度鍛えられた上での話。案の定、私が懸念した通りにラリーが続きません。残念ながら私にとっては、体育でのバレー教材導入はまだまだこの程度のレベルだなぁということを確認するための発表会となってしまいました。

今日は研修のはしごだった私です。
授業後に急いで目黒の研修センターに出発。「メンタルトレーニング研修会」に参加。こちらは前回の続きで『白石豊』先生の講演です。初回が目からウロコだったので、今回も非常に楽しみにしていました。そして期待通りの研修会でした。
くわしく書いていると膨大な量になりますので、今回はキーワードだけ書いておきます。
「心身調律プログラム」「ミュージックメンタルビデオ」「メンタル日記」「内観」「マインドマップ」「動物的勘」「呼吸法」「ストレス・セルフ・チェック法」「塩谷式正心調息法」
これらの話をたった90分間にお聞きしました。

すぐにチーム練習に導入しようと思います。

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何気ない日記ですが、これが遠因になって私のマインドマップ道が開かれている。
けっこう記念すべき日記を発掘しました。

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