合祀について
ニの一 富田メモの問題点:
いわゆる富田メモについては次の三点が問題になる。
二の一の一 信憑性、受け手の日ごろの願望と一致:
メモの信憑性が疑わしいのは一瞥明瞭であるが、信憑性があると主張する専門家、マスコミが多い。理解に苦しむところである。拙稿 富田メモ演習シリーズ、富田未亡人国会参考人招致シリーズで縷説。
メモの受け手の日ごろの思想、信念、願望と一致するが故に信じるようだ。保阪正康なる文士などは昭和天皇の遺書だと血迷ったことを言うが、あれが、遺書の体裁をとっているか。遺書というのは死を前にしておこなう厳粛なものだ。あんな得体の知れない殴り書きが遺書とは、一般人の場合でも認められまい。裁判所で遺書として検認を受けることなど思いもよらない体裁である。第一、シンカン(自筆)ではない。
二の一のニ 世論誘導、合祀問題の論じ方:
あのメモをもとに菊の御紋を振りかざす如く世論を誘導しようとしている。最初からそれが目的で仕組んだように思われる。それも、日ごろ天皇制を批判している連中が菊の権威を大衆に振りかざす。墳飯ものである。あるいは加藤紘一のように日ごろから中国の意向を受けて平気で天皇の政治利用を行ってきた前科のある連中が格好のものが手に入ったと浮かれている。
二の一の三 公務員の倫理基準
明らかに公務員の守秘義務に違反する。最近の警察官による内部情報流出の風土を作り出した元凶といえる(拙稿「警察不祥事の風土」参照)。遺族の取り扱いも訴追の対象となる。諸君10月号に出た上坂冬子氏の訪問記によると、富田未亡人は確信犯的で活動的であり、積極的に自己の正当性を主張するエネルギッシュな人物らしい。
81歳でも手の指にブルーのマニュキュアをしているという。きっと人前に出て公の場で喋ることが好きな人物であろう。十分に国会の証人喚問に耐えうる健康状態と判断する。特定のマスコミを選んでゴチャゴチャと都合のいい記事を書かせるのではなく、国会で、国民の前で主張すべきである。
二のニ 戦前の合祀基準、手続き
戦前の靖国神社の規則には「国事に斃れたものを祀る」とある。幕末15年間に死亡してまつられた人物のなかには戦死したものはいない。いずれも、刑死、獄死、自刃、誅殺、活動中の事故死である(諸君10月号 小堀桂一郎氏 天皇のお言葉とはなにか)。
二の三 戦後の合祀基準、手続き:
昭和28年第十六国会で全会一致で、戦争犯罪裁判での刑死者と獄死者は公務死とみなす決議を採択した。これがA級戦犯合祀の根拠であると上述の論文で小堀氏はいう。この間の事情はもう少し精査する必要がある。決議の目的は軍人恩給の支給を可能にすることであると思われるが、当然のこととして靖国合祀が含意されていたのか。あるいは決議に明瞭にその旨記されているのか、確認する必要がある。この決議はA級のみならず、B、C級戦犯も含めての話であると思われるが、ABCを区別した議論があったのか、など。こういうことがデータとして示されないと、にわかには判断しがたい。
二の四 国会決議、厚生省の合祀名簿作成、提出:
上記決議後、靖国合祀までにかなりの経緯がある。この間、合祀問題がマスコミ、国会で話題になったことがあるのか。なければ、そこに何らかの合意が存在していたのか。その後の経緯は次の通り。
1953年(すなわち昭和28年) 公務死とみなす国会決議
1959年 厚生省が戦犯裁判での公務死亡者も靖国神社への合祀対象となる通達を出す(上記小堀氏の論文による)
1966年 厚生省がA級戦犯の「祭神名票」を靖国神社に送付
筑波宮司は合祀を実施せず(預かり)
1978年 松平宮司が合祀する
その間、国会、言論界、マスコミでこの問題に対する議論があったのか。なければ暗黙の、合祀するというコンセンサスがあったとも言える。
それでは遅滞は何を意味するか。
1953年から1959年までの6年間の遅滞
1959年から1966年までの7年間の遅滞
1966年から1978年までの12年間の遅滞
何らかの政治力学的な要素が存在したのか。これらを明確にしないかぎりこの問題に対する十全な議論は期待しえない。この辺をあきらかにするのはマスコミ、論者の責任であろう。