一昨日の沢田研二には、多数のコメントが寄せられた。是非コメントを開いて読んでください。9条に対する認識が深いことを感じました。コメントの中で、格差社会であっても良いとする意見がありました。格差社会とは、能力の高い人がたくさんの収入がって当然と、の意向がここにあるように思えます。
競争社会も容認されるべきだとは思いますが、その場合にあっても条件が同じでなければ成立しない論理でしょう。それでも社会的に欠かすことのできないものは評価されるべきである。
ところがこれらのことは、個人レベルの格差社会の容認でしかない。深刻な格差は、地域間で生じています。農村と都会は、あまりにも大きな格差を強いられています。その理由も不合理なものでしかないように思われます。
農村(僻地と田舎と同義語である)は、都会に人にとって欠かすことのできない新鮮な空気や水を提供しています。食料も提供しています。それらの評価が競争社会では、極端に低く抑えられています。
経済成長は金額評価です。一般商品は技術開発や経費を上乗せしてでも、順調に成長を遂げることが可能です。農業生産はそのようなわけにはいきません。単位当たりの生産量(面積や頭数)は、それほど伸びないからです。穀物など長年にわたる窒素肥料重視の生産は、地力の限界で生産が落ちるか、環境問題を引き起こす結果になっています。
農家は、労働当たりの面積や頭数を増やすことで、収入を上げてきました。それは、農業生産が上がったのではなく、地球規模でみると生産量の限界を知るだけの結果になっているといえます。
オーストラリアなどへ、大量の車などを売り込むことで貿易収支がアンバランスになり、小麦や牛肉を引き換えに輸入するように交渉されます。日本の農産物がおとりになっているのです。
格差社会は個人レベルの格差ではなく、地域間の格差や産業間の格差の方が大きく深刻なのです。本来なら、失業した臨時職員等は田舎に来ればいいのです。仕事はたんまりあります。農業の現状をみると、明らかに成長産業でもあります。そうした動きがないのは、農村の賃金、農民の所得が抑えられているからです。
市場経済優先の競争社会は、過疎地域に何の恵みももたらしません。農村は不要な存在であり、経済効率からは外された存在なのです。もうひとつ、経済活動をしない老人やハンディキャップの人たちも厄介者なのです。経済効率優先の競争社会と福祉社会は対極にあるといえる。