「言葉」とは何であるのか。言語としての文学的な意味合いもさることながら、言葉とは人の伝達方式、手段そして思いだけではないのである。
言葉とは教養であり思想であり、何よりも知性そのものである。それはどんな言語でも同じである。日本語でも英語でも中国語でも、それらが背負う歴史が異なるだけであって、言葉は伝達としての意味合いだけではない。
その言葉を、この国の宰相は正確に表現できないのである。国家の最高権力者は、言葉を正確に理解できない人物である。
マンガは、それなりの意味合いや存在意義は決して少なくないものがある。マンガは、言葉のように点としての表現ではなく、面としての表現能力を持つ。文字よりも、単純化された画面から伝えるものが少なからずある、表現方式であると言える。
麻生首相が、マンガが好きなのは一向に構わないが、言葉としての重みや意味合いを軽視する結果になるのは、自身のマンガ好きに起因している。政治家とはある意味言葉である。言葉に責任をもってこそ、政治家であると言える。
マンガにはそのような、言葉としての正確さを要求されない。感情が先行しストーリーの展開を 早める非現実世界を表現可能にするのである。それは、マンガにとって大きな武器であり、強い意味合いを持つ。しかし、政治の世界には、マンガが持つ有利な伝達手段・表現方法が多くの場合対峙関係にある。非現実性や言葉以外の表現を重んじるからである。
麻生首相は、言葉をしばしば読み違えると伝えるがそれは違う。この男は言葉を知らないのである。読み違えているのではない。要するに、教養人としての基本的な資質が欠如しているのである。政治家以前の問題である。
国会では、頼りにしている官僚が事前にルビをふったりして、読み方を練習しているとのことである。演説の内容ではない。読み方である。ダボス会議ではその時間がなかった。外国との思いもあったのかもしれない。財務大臣の中川オボッチャマも漢字を読めないらしい。アル中との噂もある。
繰り返すが、言葉とは知性であり教養そのものである。単なる、伝達道具ではない。この国の首相は言葉を知らない。何とも評論の仕様もない低レベルの人物である。