逃亡者で、ジェラード刑事を好演し、オスカー助演男優賞を受賞、最近ではコーヒー缶のコマーシャルで知られるトミリー・ジョーンズが、ダグラ・スマッカーサーを演じることで話題になっている、映画「終戦のエンペラー」が近日公開される。
原題は[EMPEROR](天皇)で、岡本嗣郎の「陛下をお救いなさえまし」である。クリスチャン河井道とボナ・フェラーズの交流を描いたものである。つまり、この映画は天皇の処分を思いとどませるように、マッカーサーに進言した男、ボナ・フェラーズのお話である。
終戦直後から国内では、国体護持(天皇制の維持)を最大の命題として、旧軍部や政府が奔走していた。天皇の戦争責任が問われないための理由付けを探していた。こうした国内の国体護持を至上命題とする一派を、彼は取り込むことになった。
確かに昭和天皇は、第一次世界大戦のヨーロッパを最もつぶさに見た日本人である。戦争の恐ろしさを見ることで、彼自身が反戦思想を持っていた事実はある。
しかし、軍部は天皇制を最大に利用した。天皇の国家、天皇の軍隊、天皇を中心といた神の国と教育も社会体制も全てが天皇の国家へ動き、軍国主義の頂点に天皇を頂いた。
「天皇万歳」と散華を称賛し、戦陣訓で徹底した軍国主義の集約の頂点に天皇は存在していた。その中で戦争責任がないはずがない。天皇自身も終戦直後は、自らの戦争責任を語っている。
天皇の戦争責任を刑罰としてどのようにするか、皇族の存廃はどうするかは、別の問題である。天皇の戦争責任を全く問わなかったことが、あらゆる面で戦後この国の弊害として、官僚体制の中に国家の中枢に残ってしまっている。
天皇を神聖にして侵すべからざるものと、たとえクリスチャンでも反戦主義者であっても、彼を擁護に回るのはおかしい。個人的な親近感や、人間性に依拠する論議は軽薄である。道とフェラーズの視点である。
かつて軍国少年であって、鬼畜米英に立ち向かった先輩の話であるが、友人の債務を請け負って印鑑を押したばっかりに多額の金額を返済することになった。こうしたことを引き合いにして、天皇の戦争責任逃れを厳しく追及していた。
私の父は南方で散華した。お国のために志願して、戦陣訓に従い自害したのである。父は天皇を中心とした神の国の存続の礎になったと思って、自害した。戦後彼が人間天皇になるなど思ってもみなかったであろう。
今回の映画は、原作に忠実であるとすれば、国体を守ってもらいたかった、国粋主義者や右翼に賞賛されることになるであろう。それは同時に無責任にこの国を統治してきた歴史でもあるのだ。