高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)
「14」。否定としての「無」。
この「ない」は不思議だ。否定する主体としての「ぼく」はどこにいるのか。男の「理想」(夢)のなかだろうか。
その、形にならない混沌のなかに「無」のすべてがある、と言ってしまうのは簡単なことである。いままで私が書いてきたことにつづけるなら、当然、そうなる。しかし、ここではそういう「定義」をしたくない。
この「ない」のなかには、なにかとてつもなく潔いものがある。それが何か私にはもあだわからない。だからいまはそれについては具体的には書かないことにする。こころと頭のなかにとどめておく。抱いておく。
実は私はこういう時間が一番好きである。
何か私にはわからない美しいものがある。それがわかるまで、それをただ抱きしめているという時間が。永久にわからないかもしれない。忘れてしまうかもしれない。運がよければ、ある瞬間、別なかたち、別なことばで、高橋の書いた「ない」とは違うものに出会い、そこで考えたこと、感じたことが、偶然、高橋の「ない」と重なる。しかし、重なったことに気がつかずにおわる。
たぶん、そうしたことばの出会い方が美しいのかもしれない。
この最終行の美しさには涙が流れる。
見てはいけないものを見てしまったときのように震えてしまう。
「14」。否定としての「無」。
やがて生まれる息子は
ぼくではない (34ページ)
この「ない」は不思議だ。否定する主体としての「ぼく」はどこにいるのか。男の「理想」(夢)のなかだろうか。
その、形にならない混沌のなかに「無」のすべてがある、と言ってしまうのは簡単なことである。いままで私が書いてきたことにつづけるなら、当然、そうなる。しかし、ここではそういう「定義」をしたくない。
この「ない」のなかには、なにかとてつもなく潔いものがある。それが何か私にはもあだわからない。だからいまはそれについては具体的には書かないことにする。こころと頭のなかにとどめておく。抱いておく。
実は私はこういう時間が一番好きである。
何か私にはわからない美しいものがある。それがわかるまで、それをただ抱きしめているという時間が。永久にわからないかもしれない。忘れてしまうかもしれない。運がよければ、ある瞬間、別なかたち、別なことばで、高橋の書いた「ない」とは違うものに出会い、そこで考えたこと、感じたことが、偶然、高橋の「ない」と重なる。しかし、重なったことに気がつかずにおわる。
たぶん、そうしたことばの出会い方が美しいのかもしれない。
ぼくの名は永遠の不在 (35ページ)
この最終行の美しさには涙が流れる。
見てはいけないものを見てしまったときのように震えてしまう。