詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(98)

2005-12-31 14:23:16 | 詩集
「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 存在と非在のあわい、そこに立ち上がるもの。そうしたものへの視線は、木坂涼の詩にも描かれている。「一個のたまごのように」。そこにも吉田、中村につうじるものがある。

通りで
幼児のてぶくろを拾った
落とさないよう無くさないよう
右と左が肩にわたす毛糸で結ばれていた

とたんに
今はもうない
私のむかしのてぶくろについて
静かな口調で遠い記憶が語りかけてきて

 今、ここにないものが「語りかけてくる」とは、今ここにないものが「立ち上がってくる」ことと同義である。そしてその瞬間、それは「過去」ではなく「現在」にかわる。その瞬間、過去と現在が一体となる。吉田の「花」、中村の「ツワブキ」、木坂の「てぶくろ」は、その意味で同じ運動、同じ精神の奇跡の象徴である。
 木坂の特長は、そうした哲学にとどまらず、そこから日常へ引き返してくる動きにある。

とたんに
今はもうない
私のむかしのてぶくろについて
静かな口調で遠い記憶が語りかけてきて

それと歩調をとりながら家の階段を上がり
ドアをあけた
昨日も今日も嵌(は)めているてぶくろからは
誘導できないこの
物的なまでの非物的なからくり

無くしものが解いて放つ記憶の流儀
日記へ

一個のたまごのように置こう

 「たまご」。不安定なまるみ。重心が定まらず、少しのはずみで転がりそうなもの。落ちれば割れてしまう、か弱いもの。木坂の感性は、そうしたやわらかなものに寄り添っているようだ。
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詩はどこにあるか(97)

2005-12-31 13:57:07 | 詩集
 「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)
 
 通い合う感性。たとえば吉田文憲「幽火」と中村稔「冬の到来する日に」。

それ以来、なんにちもなんにちも雨の日が続きました。雨がわたしを罰しているのでしょうか。いっときの夕暮れに、井戸のそばに白くひかるものが立っていました。あれはなにかの花だったかもしれません。  (吉田)
*
----あ、ツワブキが一輪、凛としてその黄の花を立てている。  (中村)

 花が立っている(立てている)。この通い合う感覚に、私は立ち止まる。私は「花が立っている」とは書かない。花が咲いている、と書く。しかし「立っている」が理解できないわけではない。むしろ、そのことばに託されたものが、それこそすっくと立ち上がってくるように感じ、はっとし、立ち止まるのだ。
 そして、そこに「日本語の歴史」も感じてしまう。

いまの私が存在することはない。
いま、と私が感じたその瞬間、
いまはもう過去になっている。私とは
茫々たる過去の堆積からなる幻にすぎない。  (中村)

 こうした哲学は、ある詩人に共通のものだと思う。
 意識のなかから屹立するものがある。それを「立っている」と表現する日本語の歴史がある。
 「現代詩」もまた「歴史」を生きている、と思う。
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