有働薫『ジャンヌの涙』(水仁舎)
この詩集には「詩」の定義がそのまま書かれている。
思いの深いもつれに
分け入らなければならない
言葉で 「残夏考」(16ページ)
「詩」はことばにならない。ならないことを自覚するとき「詩」が見える。自覚の切なさが「詩」そのものである。
ことばにならないけれど、ならないことを確かめるために詩は書かれなければならない。
「南へのバラード」はそうした切実な思いに貫かれた美しい作品だ。
夕方になると
のどの奥がふるえはじめる
じぶんのものではなかった旋律
あまくもかなしくもなく しつこく (23ページ)
有働ののどの奥でうごめく旋律は弟のバイオリンが奏でた旋律だ。それは有働が愛していた旋律ではない。何の思いも寄せなかった旋律である。だから「あまくもかなしくもなく」、ただ「しつこい」。
この「しつこさ」が「詩」である。
有働は「しつこい」としかことばにできない。「しつこい」という領域にまでしか分け入ることができなかった。しかし、本当は「しつこい」の向こう側、たどり着けないところでその旋律は生きていて、しかも有働の肉体(のど)に直接働きかけてくる。
「あまくせつない」と言えたらどんなにいいだろう。ことばが、そんなふうに自分の思いを掬い取ってくれたらどんなにいいだろう。
しかし、ことばはそんなことを許してくれない。あるいは有働はそんなことばの動きに妥協できない。
有働が詩人であるゆえんはここにある。