詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(81)

2005-12-07 14:08:55 | 詩集

有働薫『ジャンヌの涙』(水仁舎)

 この詩集には「詩」の定義がそのまま書かれている。

思いの深いもつれに
分け入らなければならない
言葉で  「残夏考」(16ページ)

 「詩」はことばにならない。ならないことを自覚するとき「詩」が見える。自覚の切なさが「詩」そのものである。
 ことばにならないけれど、ならないことを確かめるために詩は書かれなければならない。

 「南へのバラード」はそうした切実な思いに貫かれた美しい作品だ。

夕方になると
のどの奥がふるえはじめる
じぶんのものではなかった旋律
あまくもかなしくもなく しつこく  (23ページ)

 有働ののどの奥でうごめく旋律は弟のバイオリンが奏でた旋律だ。それは有働が愛していた旋律ではない。何の思いも寄せなかった旋律である。だから「あまくもかなしくもなく」、ただ「しつこい」。
 この「しつこさ」が「詩」である。

 有働は「しつこい」としかことばにできない。「しつこい」という領域にまでしか分け入ることができなかった。しかし、本当は「しつこい」の向こう側、たどり着けないところでその旋律は生きていて、しかも有働の肉体(のど)に直接働きかけてくる。
 「あまくせつない」と言えたらどんなにいいだろう。ことばが、そんなふうに自分の思いを掬い取ってくれたらどんなにいいだろう。

 しかし、ことばはそんなことを許してくれない。あるいは有働はそんなことばの動きに妥協できない。
 有働が詩人であるゆえんはここにある。


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詩はどこにあるか(80)

2005-12-07 13:43:44 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「16」。暴力とは何だろう。何かしら人間を魅了する力がある。

一匹が無数に勝った と 雀躍(こおど)りした
その時だ 無数が一匹に襲いかかったのは
赤裸(あかはだか)の俺を 通りかかった多数が笑った  (39ページ)

 ウサギとサメの戦いにも増して暴力的なのは「多数」の「笑い」である。
 これは「混沌」へ引きずり込む魔の力である。これがあるからこそ「詩」が生まれうる。それまでの「努力」というか「精魂」をかたむけて生成した何かを一気に破壊し、無に引き戻す何か。そうしたものを片目で見つめながら生成は輝きを奥に蓄える。生成もまた暴力であるがゆえに暴力によって(ただし異質の暴力----ウサギとサメの競い合いは同質の、つまりゴールが同じところに設定された暴力であるのに対し、という意味である)破壊される。

後れて来た一人が憐れんで 涙を流した  (39ページ)

 この「涙」がセンチメンタルではなく「詩」でありうるのは、生成の苦悩と暴力がつねに異質なものによって破壊されることを認識しているからである。
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