高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)
「17」。
それは「絶対的存在」であるからだが、絶対的存在は単に自己から独立したどこかに存在するのではない。
絶対的存在を把握しようとする精神の運動とともにある。
「書き換えても 書き換えても」という運動があってはじめて「消すことができない」のである。「書き換え」ようとする運動がなければ「消す」以前に存在し得ないのである。
ここに「詩」がある。
「書き換え」は生成の別の名前である。繰り返される生成の中、その場(無)のなかに、形にならずに、しかも形を誘うように存在するものとしての「絶対的存在」。
「17」。
書き換えても 書き換えても
消すことのできないのが私の名 (41ページ)
それは「絶対的存在」であるからだが、絶対的存在は単に自己から独立したどこかに存在するのではない。
絶対的存在を把握しようとする精神の運動とともにある。
「書き換えても 書き換えても」という運動があってはじめて「消すことができない」のである。「書き換え」ようとする運動がなければ「消す」以前に存在し得ないのである。
ここに「詩」がある。
「書き換え」は生成の別の名前である。繰り返される生成の中、その場(無)のなかに、形にならずに、しかも形を誘うように存在するものとしての「絶対的存在」。