「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)
安水稔和の「生きのびる」は新潟地震の日に見つめなおした木を描いている。された阪神大震災のとき焼けた木だ。黒こげになって、樹皮を落として、木の芯をあらわにして、そのあらわな木肌をまわりの焦げていない樹皮が包み込んで生き延びた木だ。
ここにある「詩」は、実は引用部分にはない。引用にならない部分に「詩」がある。
安水は、1行あけてつづく次の連で安水自身が思ったことを書いている。その部分は引用しない。読者がまず思ってみなければいけないことだからだ。
「ほんのすこし」も「詩」である。あるいは、その「ほんの少し」を具体的にあらわしている「1行あき」のなかに「詩」がある。「1行あき」で表現された、精神のいっときのたたずみ。こころのなかで何かを思ってみる。その時間の不思議な充実。何かを探している充実。そこに「詩」がある。
*
小池昌代の「ある映像」も新潟地震のことを書いている。車ごと土砂にのみこまれて奇跡的に助かった男の子と助からなかった母親。それを映すテレビの映像。そのときの小池の思い。
小池は「思う」のかわりに「察する」ということばをつかっている。
「思う」ことはわかることである。わかることは、ある何かを共有することである。(引用しなかった安水の最後の連を読むと、そのことがわかるだろう。)しかし、一方で「わかりたくはなかった」という共有もあるのだ。
そこから、静かな、しかしとても強い悲しみが立ち上がってくる。
「わかりたくはなかった」に深い深い「詩」がある。
一方、この小池の作品には、そうした悲しみの「詩」のほかにもう一種類の「詩」が共存している。
そして、小池が書こうとしているのは、実は今引用した方の「悲しみ」である。「思う」ことによって、自己の内部と外部が成立するのだが、自己は内部にあるのではなく、外部として存在する。
外部にあるからこそ、それを内部に取り込もうとする。ことばによって小池の内部にしようとする。
そうした精神の動きが「詩」である。
外部には「わかりたくない」ものが存在する。「わかってはいけない」ものかもしれない。だが、詩人はそういうものもことばに定着させようとする。ことばには何ができるのか、それを確認しようとする。
「わかりたくはなかった」は、ああ、こんなふうではなく、もっと違う形で外部にあるものを共有したいのだ、みんなとともに受け止めたいのだという「絶望」も含まれている。
絶望であるからこそ、「わかりたくなかったもの」が絶望の悲しみで立ち上がる。「荷物みたい」ということばしか出てこない(内部に持ち合わせがない)という絶望。そのとき、内部は打ちのめされる。打ちのめされたときは打ちのめされたと正直に語る。小池の詩の美しさは、その正直さにある。
安水稔和の「生きのびる」は新潟地震の日に見つめなおした木を描いている。された阪神大震災のとき焼けた木だ。黒こげになって、樹皮を落として、木の芯をあらわにして、そのあらわな木肌をまわりの焦げていない樹皮が包み込んで生き延びた木だ。
カルス[callus]
傷ついた受傷部分に盛り上がって生ずる癒傷組織。
ここで質問。
この九年間ずっとこの木は焦げた樹皮を落し
カルスを生じるのでしょうか。
--ほんのすこしでもいい、思ってください。
ここにある「詩」は、実は引用部分にはない。引用にならない部分に「詩」がある。
安水は、1行あけてつづく次の連で安水自身が思ったことを書いている。その部分は引用しない。読者がまず思ってみなければいけないことだからだ。
「ほんのすこし」も「詩」である。あるいは、その「ほんの少し」を具体的にあらわしている「1行あき」のなかに「詩」がある。「1行あき」で表現された、精神のいっときのたたずみ。こころのなかで何かを思ってみる。その時間の不思議な充実。何かを探している充実。そこに「詩」がある。
*
小池昌代の「ある映像」も新潟地震のことを書いている。車ごと土砂にのみこまれて奇跡的に助かった男の子と助からなかった母親。それを映すテレビの映像。そのときの小池の思い。
テレビ画面は
その後 奇跡のように助けられたという
二歳の男の子の話ばっかり
母親は死んだのか 生きているのか
そのことには まったく触れない報道で
触れないがために、母親は死んだのだな、と
わたしは察したが、わかりたくはなかった
小池は「思う」のかわりに「察する」ということばをつかっている。
「思う」ことはわかることである。わかることは、ある何かを共有することである。(引用しなかった安水の最後の連を読むと、そのことがわかるだろう。)しかし、一方で「わかりたくはなかった」という共有もあるのだ。
そこから、静かな、しかしとても強い悲しみが立ち上がってくる。
「わかりたくはなかった」に深い深い「詩」がある。
一方、この小池の作品には、そうした悲しみの「詩」のほかにもう一種類の「詩」が共存している。
閉じられたこころには もう誰も入ってこられないよ
わたしのなかには いつのころからか
完璧な一台のテレビが入ってる
そう思ったとき わたしのそとに
一台のテレビが ありありと残った
そして、小池が書こうとしているのは、実は今引用した方の「悲しみ」である。「思う」ことによって、自己の内部と外部が成立するのだが、自己は内部にあるのではなく、外部として存在する。
外部にあるからこそ、それを内部に取り込もうとする。ことばによって小池の内部にしようとする。
そうした精神の動きが「詩」である。
外部には「わかりたくない」ものが存在する。「わかってはいけない」ものかもしれない。だが、詩人はそういうものもことばに定着させようとする。ことばには何ができるのか、それを確認しようとする。
でもわたしは見たよ 忘れられない
誰も触れなかった 母親のこと
板にしばりつけられ 青いビニールシートでぐるぐるくるまれて
ヘリコプターで運ばれていく途中
それは回ったんだ
板みたいにね
「わかりたくはなかった」は、ああ、こんなふうではなく、もっと違う形で外部にあるものを共有したいのだ、みんなとともに受け止めたいのだという「絶望」も含まれている。
絶望であるからこそ、「わかりたくなかったもの」が絶望の悲しみで立ち上がる。「荷物みたい」ということばしか出てこない(内部に持ち合わせがない)という絶望。そのとき、内部は打ちのめされる。打ちのめされたときは打ちのめされたと正直に語る。小池の詩の美しさは、その正直さにある。