詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(89)

2005-12-20 12:11:10 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「23」。感応について。

囲む男たちは勃起を匿さず
喝采を惜しまない
男たちの興奮が
いつか 太陽を奮い立たせる
私は踊る赤裸
叫ぶ粘膜  (53ページ)

 女の姿に男が反応し、その反応に太陽が反応し、ふたつの融合に、女が反応する。そのとき女は「叫ぶ粘膜」になる。
 「叫ぶ」は、今ある状態を逸脱し、超越する。

 「感応」は「官能」と一つになる。この瞬間に「詩」がある。



 「24」。再び、「一つ」。

うつくしさはみにくさに同じ
しあわせはふしあわせと一つ
私たちは二人に見えて 一人  (55ページ)

 これは、これまでの復習。相反するものの融合を語っている。このあとに、高橋独自の思想が書かれる。

私たちは二人に見えて 一人
むりに引き裂かれると
二人が二人とも 息絶えてしまう
私を愛するという人は
愛を口実に 私たちを殺す人
愛という身勝手な論理を
私たちは はげしく拒む  (55ページ)

 真の「融合」、あるいは超越的生成というべきだろうか。それは「愛」ではない。矛盾し、運動し続けることだ。

 「一つ」は実は「一」ではなく、「二つ(二人)」、つまり対立する存在、相反する存在、まったく別個な存在が同時に存在してこと可能なのである。
 それは、たとえば「神」と「ひと」。たとえば男と女。たとえば天と地(海)。

 高橋がこの詩集で明らかにしようとしているのは、そうしたことがらである。

 矛盾するものが「一つ」になる。その生成、生成の繰り返しが「詩」である。
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