詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(94)

2005-12-27 14:36:58 | 詩集
「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

零度の犬  建畠皙
 俺たちの恥を彩る零度の犬。その半ばは庭の罪であり、半ばは灰色の少女の政治であると聞かされた。それゆえこそ彩りとなるのだと。コイケさんもそのことを知っているはずだ。共に進もう、と俺は言った。良い光景を見つけるために共に進んで行こう。さらに低い犬、低い生け垣、低い庭がどこかにあるはずだ。

 この作品にも固有名詞が出てくる。「コイケさん」。しかし、この固有名詞が指し示すものは佐々木の作品の「ナカザワさん」とも瀬尾の「横浜正金銀行」とも違う。抽象的な存在のままだ。他の抽象的存在「零度の犬」「少女の政治」などと同じである。というより、「零度の犬」「少女の政治」といった抽象を現実へ引き戻すための虚構と言った方がいいかもしれない。
 虚構のなかで精神の運動は自由気ままである。運動を制限するものは何もない。しかし、それでは精神は暴走さえしない。つまり、方向性がないままでは、方向性を失うことさえできない。何かしら運動を抑圧するものが必要である。抑圧があって、その抑圧と戦う方向性が出てくる。運動の軌跡が鮮明になる。「詩」とは精神の運動であり、運動には軌跡がなければ、その時空間は成立しない。
 これは「少女の政治」ではなく「詩の政治」である。言語の運動の政治である。

 ことばはどこまで自由に動けるか。精神はことばの運動に乗ってどこまで「低い」、つまりゼロに近い、あるいは、細小なものを描き出すことができるか。しまっては意味がない。「ゼロ」を超えないための抑圧としての「コイケさん」である。
 ことばは、ゼロを超えてしまっては意味がない。本当は意味がないわけではないが、建畠がこの作品で試みていることは「ゼロ」を突き抜けることではない。限りなく「ゼロ」に接近することである。
 「ゼロ」を超えないための抑圧としての「コイケさん」である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする