詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(90)

2005-12-21 23:26:36 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「25」「26」。勝利と敗北、あるいは入れ代わり。

遠く 小さく へいつくばる兄さん
俺が頼み込んで 取り換えたのは
取り戻したのは こんなものだったのですか
ついた手を上げてください 兄さん  (「25」、57ページ)



もっと遠く もっと低く しまいは
視界から 失われてしまうこと
この脱力感 この無力感の快さ
わからぬ者には ついにわかるまい  (「26」、59ページ)

 この対になった詩のおもしろさは、「26」に集約されている。「脱力感、無力感の快さ」。否定的価値とともに語られることの多いもののなかにある官能。新しい発見。そこに「詩」がある。
 見逃してはならないのは、「脱力感、無力感の快さ」のなかで、「兄」がなおかつ、「わからぬ者には ついにわかるまい」と勝利宣言していることだ。

 敗北しながらの勝利宣言。これこそ、真の入れ代わりである。単に兄と弟の地位の入れ代わりではなく、概念の入れ代わり、概念の下克上である。



 この敗者の勝利宣言は、多くのマイナーポエトリーの勝利宣言でもあるだろう。高橋はマイナーポエトリーの勝利宣言を代弁しているともいえる。
 高橋の詩自体には私はマイナーな印象を持たない。むしろメジャーであると感じている。今回の「神話」めぐりの詩は、その構想力においてメジャーなものである。
 しかし、高橋が好んでいる詩(評価している詩)にはマイナーな要素が多分にある。
 高橋の心理の奥には、どこかでマイナーポエトリーへの憧れがあるのかもしれない。マイナーな詩を書きたいという気持ちがあるのかもしれない。
コメント
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