「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)
わずか9行の作品の、2行目に出てくる「ナカザワさん」。ここに「詩」がある。
読者には、この「ナカザワさん」がどういう人物なのかわからない。わからないことが「詩」である。わからないものが実在し、そのとき世界が存在することが「詩」である。
このわからない人物、説明されない人物をとおして世界が立ち上がるとき、しかし、ふしぎなことに、わからないはずの「ナカザワさん」の人間性が立ち上がってくる。そしてそれは筆者、佐々木幹郎の人間性でもある。
人間とは無関係に、人間の感情、精神とは無関係に世界は存在する。だからこそ、その世界で人間は手を取り合う。自分にできることをする。
「ナカザワさん」はどしゃぶりの雨のなかを走る。佐々木幹郎はその姿を詩に書き留める。そのとき世界は人間の精神の意味性を拒絶するけれど、その拒絶のなかで人間の精神はいっそう輝く。
*
瀬尾育生の「外地の歌」にも固有名詞が出てくる。
佐々木の「ナカザワさん」に比べると、この固有名詞は存在を確かめることができるし、読者のなかにはその存在になじみがあるかもしれない。こういう固有名詞は自然とは向き合わない。時間と向き合う。時間とは歴史であり、未来のことだ。
そのとき、人間は固有名詞を失う。「あなた」がこの作品ではある歌手のことであるらしいことは推測できる。(ライブのパンフレットに書かれた作品である。)しかし、けっして固有名詞では書かれない。読者のなかの私以外の誰か、「あなた」になって人間が立ち現れる。
そこにはやはり時間が、歴史がある。
浅間山 佐々木幹郎
どしゃぶりの雨のなかを
床屋のナカザワさんが走っていく
わずか9行の作品の、2行目に出てくる「ナカザワさん」。ここに「詩」がある。
読者には、この「ナカザワさん」がどういう人物なのかわからない。わからないことが「詩」である。わからないものが実在し、そのとき世界が存在することが「詩」である。
このわからない人物、説明されない人物をとおして世界が立ち上がるとき、しかし、ふしぎなことに、わからないはずの「ナカザワさん」の人間性が立ち上がってくる。そしてそれは筆者、佐々木幹郎の人間性でもある。
人間とは無関係に、人間の感情、精神とは無関係に世界は存在する。だからこそ、その世界で人間は手を取り合う。自分にできることをする。
「ナカザワさん」はどしゃぶりの雨のなかを走る。佐々木幹郎はその姿を詩に書き留める。そのとき世界は人間の精神の意味性を拒絶するけれど、その拒絶のなかで人間の精神はいっそう輝く。
浅間山 佐々木幹郎
どしゃぶりの雨のなかを
床屋のナカザワさんが走っていく
山で雉子が鳴いたから
噴火が始まる
美しい山はきまぐれだから
村の宴会場まで知らせに行くのだ
煙はますます青くなっている
人間には暗黒だけれど
肺は風下に向かって平等に降るんだ
*
瀬尾育生の「外地の歌」にも固有名詞が出てくる。
錆びついた横浜正金銀行の
階段づたいに下りてくる。
佐々木の「ナカザワさん」に比べると、この固有名詞は存在を確かめることができるし、読者のなかにはその存在になじみがあるかもしれない。こういう固有名詞は自然とは向き合わない。時間と向き合う。時間とは歴史であり、未来のことだ。
錆びついた横浜正金銀行の
階段づたいに下りてくる。
裸足で国家が泣いている。
あおむらさきに夜が死ぬ。
いまもあなたを呼ぶ声がする。
そのとき、人間は固有名詞を失う。「あなた」がこの作品ではある歌手のことであるらしいことは推測できる。(ライブのパンフレットに書かれた作品である。)しかし、けっして固有名詞では書かれない。読者のなかの私以外の誰か、「あなた」になって人間が立ち現れる。
そこにはやはり時間が、歴史がある。