詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(79)

2005-12-06 14:37:32 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「15」。30の連作の中間。作品が微妙に変化する。その変化は、一時的なものか、永続的なものか。しばらくは判断しない。今までと同様に、ただ感想を書き続けることにする。
「俺は八十人いる」で始まる作品は次のように終わる。

成長物語は怠惰
苛(いじ)ましい者を英雄に
誇りやかな者を敵にしたがる
敵になってやるとも
八百 八千 八万に殖えて
八方からの休みない飛ぶ矢に  (37ページ)

 これまで読み続けた作品には悲しみが流れていた。この作品にも悲しみが流れているが性質が微妙に違う。「誇り」ということばが出てくる。不幸を誇る精神が輝いている。不幸になれる精神(感情)は不幸に耐えうる精神(感情)だけである。
 これは高橋の「詩人宣言」としても読むことができるだろう。

 この作品の「詩」は最終行の「休みない」にある。(ここにも「ない」、つまり「無」が関係している。)
 「休みない」は運動の持続を意味する。

 「無」(混沌)の現場での精神の運動は休みないことが条件である。運動している瞬間にだけ、形はあらわれる。あらわれながら、変化することで消えていく。運動がとまれば形そのものが混沌の一要素になってしまう。
 「休みない」の「ない」は混沌としての「無」のなかにあって、「無」の存在意義を照らし出す「鏡」の役割を果たしている。

 「詩」はいつでもことばの重層性の内部にある。
コメント
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