詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(92)

2005-12-23 14:55:35 | 詩集
高橋睦郎語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「29」。統合・融合。

だから われら 三人という一人  (65ページ)

 複数の存在が「一人(ひとつ)」になる。それは一人になることが三人である証でもある。
 こうした言い方は矛盾だろうか。

 一人(ひとつ)になる運動のなかにすべては統合され、融合され、新しい生成となる。運動のエネルギーそのものがひとつになるということである。

*

 「***」。(本文は、*マークが上に二つ、下中央に一つ。逆三角形の形をしている。ここでは表記できないので、*並べて代用しておく。)

 本文中、かっこに囲まれた部分が何か所か出てくる。

幸行(いで)ましき。(すなわち、幸行まさざりき。)  (66ページ)

 先行することばを必ず否定する。そして、それが「すなわち」によって結ばれる。相対立することがらが「すなわち」によって結ばれる。ただし、「すなわち」という表現は最初の一回と最後の一回限りで、あとは省略される。
 すべては実在のことがらではなく、精神の内部のことがらである。「幸行」はあろうがなかろうが、同等なのである。というより、あることによって、ないことを意識しない限り、あることにはならない。

御陵(みはか)は畝火の山の北の方の白檮(かし)の尾(を)の上にあり。(あらず。故、創作(つくら)えし始祖王(はじめのすめらおほきみ)、朕(あ)が事蹟(いさをし)及(また)陵墓(みささぎ)は、創作えし皇統譜(すめらみちすじ)の上(へ)にのみ在り、すなわち在らざるなり。)

 創作とは精神の運動である。

 この運動を統合する力が「すなわち」である。
 この「すなわち」は「一即多」の「即」である。
 「すなわち(即)」がこの詩集の「詩」のすべてであると思う。「すなわち」の運動の場として「無(混沌)」がある。あらゆる生成が、生まれ、消えて、また生まれる。それを記録することばが「詩」である。

コメント
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