詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トニー・スコット監督「サブウェイ123」(★★)

2009-09-14 20:23:14 | 映画


監督 トニー・スコット 出演 デンゼル・ワシントン、ジョン・トラボルタ

 ニューヨークの地下鉄が乗っ取られる。運行指令室と犯人のやりとりが中心の映画だ。指令室も地下鉄も「密室」。そして、その「密室」が離れている。交錯するのは、ことばだけ。あ、私はにがてだなあ、こういう映画。映画を見ている気がしない。
 デンゼル・ワシントン、ジョン・トラボルタも一生懸命演じているけれど、演技というのは基本的に相手の反応があって成り立つ。たとえ、あのシーン、このシーンとばらばらに撮影し、編集することで構成されるものであっても。この映画では、その肝心の人間と人間が、相手の反応をみながら動くというシーンが、最後の 最後の瞬間しかない。
 それはそれでいいのかもしれないが。
 でもねえ。英語がわからない私には、ことばのなかで動いている「情」のようなものが、2人が一緒にいないと、よくわからない。画面の切り替えでは、「空気」が違ってしまう。だから、なんとも歯がゆい。デンゼル・ワシントンとジョン・トラボルタのやりとりが、どんなに緊迫してきても、それがぴんと来ない。
 一方、たとえばジョン・タトゥーロが指令室に乗り込んできて、「今からは私が犯人と交渉する」と言ったときの、デンゼル・ワシントンの顔の変化が、指令室の「空気」を変える。デンゼル・ワシントンはことばと同時に「顔」でも訴える。それがジョン・タトゥーロにもわかる。そして、そのわかったことが「空気」になる。これが映画。「空気」を写し取って見せることが。アップのときは、濃密に、ミドルのときは、他の人への「空気」の伝播の仕方がわかる。デンゼル・ワシントンが外されたときの、上司の対応、同僚の反応などが、指令室の「空気」を微妙に変えていく。その微妙さが、スクリーンから劇場内にあふれ、まるで「司令室」にいる気分にさせる。
 もうひとつ、たとえば。身代金1000万ドル。ニューヨーク市長のジェームズ・ガンドルフィーニが「なぜ1000万ドル?」と問うと、側近が「ニューヨーク市長が議会(だったかな)の決裁を受けずに動かせる限度額だから」とこたえる。市長「私も知らないことをなぜ知っている?」。この、ちょっと間の抜けたやりとりが、市長と官吏の違いを浮き彫りにし、その場の「空気」をかきまぜる。
 こういう何でもないような「空気」を丁寧に写し取ると、映画は映画らしくなる。映画はわからないが、「顔」の動きが「空気」を伝えてくれる。それがないと、映画はダメ。
 インターネット・チャットとか、株の値下がりに反比例するように金相場があがるとか、現代風の味付けは工夫されているのだけれど、肝心の「空気」が欠落した映画だった。
 デンゼル・ワシントンの知的な演技が評判になっているようだけれど、「知的」なのではなく、そこにジョン・タラボルタがいないということで「空気」が冷たくなっているだけ。ジョン・トラボルタのいる「地下鉄」にしても、デンゼル・ワシントンが同じ車内にいないから、「狂気」があふれださない。「狂気」はそばにいる誰かが必死になっておさえこむときあふれるものだ。「正気」のひとがいないのに「狂気」をあふれださせるには、もっと異質なキャラクターがひつようだろうな、と思った。



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イチロー・インタビュー

2009-09-14 19:19:10 | その他(音楽、小説etc)
イチロー・インタビュー(asahi.com 2009年09月14日)

 イチローが大リーグで9年連続200安打を達成した。その後のインタビューがasahi.comに載っていた。面白い部分があった。

――記録を狙う上で大事なことは。
 大事だと思って、それを大切にしているわけではないが、結果的に野球が大好きだ、ということがそれに当てはまると思う。僕には相反する考え方が共存している。打撃に関して、これという最後の形はない。これでよしという形は絶対にない。でも今の自分の形が最高だ、という形を常につくっている。この矛盾した考え方が共存していることが、僕の大きな助けになっていると感じている。

 「矛盾した考え方が共存していること」。これは、すべての分野の、すぐれた部分に共通することだと思う。矛盾を意識できるというのが、存在を活性化する。存在を進化させる。矛盾のないところに思想はない。
 イチローはバッターだが、ことばの達人でもある。考えをきちんとことばにできる。そのことばに、哲学がある。
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誰も書かなかった西脇順三郎(86)

2009-09-14 07:28:40 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「午後の訪問」のつづき。
 引き剥がされた現実--それは現実を描写していても、すぐに現実を超えてことばが動くということだ。

菫(すみれ)の色は衰えタンポポは老いた。
だがあの真白い毛冠とあの苦い根は
人生の夢だ。

 春から夏へかわるとき、菫の季節はすぎ、タンポポの季節もすぎる。それは現実の描写である。けれど、それは同時に自然そのものからは引き剥がされている。そこには西脇の想像力、精神の力が作用している。だから

人生の夢だ。

 というようなことばが、ふいに入り込むのだ。そこから、また、西脇は自然へ、現実へ引き返す。というより、これは、往復するといった方がいいのかもしれない。そして、ことばが動くたびに、自然は、とてつもなく美しくなる。

絶望の人は路ばたにころがる石の
あどけなさに、生垣のどうだんの木に
極みない情(なさけ)をおぼえる。
せめて草木の名前でも知りたい。
畑のわきで溝(みぞ)を掘っている老人に
「この細(こまか)い花の咲く木は何といいますか」
ときいてみる。
「それはなんです、よそぞめとかいいまして
秋になると赤い実がなり、この辺では
十五夜に、すすきと一緒にかざるのです」
こんな草むらにもれきく、キリギリスの
ような会話にも旅の悲しみはますものだ。

 ことばは、「人生の夢」から「絶望」へと飛躍し、その隙間に、小石が転がり込む。
 「ころがる石の/あどけなさ」。
 石があどけない、と私は思ったことがない。けれど、西脇は、そう書いている。そして、この「あどけなさ」はどうだんによって補足される。どうだんのように、あどけないのだ。あの、ピンクのすじの入ったかわいらしい花のように。
 「絶望の人」は、そこに「情をおぼえる」。
 自然は、人の絶望などは気にもかけず、非情のまま、かわいらしく咲く。あどけなく、存在する。それが非情であるからこそ、人は「情」というものが人間にあるのを知る。
 文法的には、絶望の人は、小石のあどけなさ、どうだんの(かわいい--というのは、私の感想だが、そのかわいい)花に、情をおぼえるのだが、それはその石や花に情があるからではない。人間にこそ、情がある。その情を人間は、石や花に託して感じるだけなのだ。
 この「情」を西脇は誰かと共有したいと思い、畑で働くひとに声をかけている。「どうだん」を、老人は何と呼ぶか、それを知りたいと思って。
 ものに名前をつける--たぶん、これが人間の「情」というものなのだ。「情」があるからこそ、それに名前をつける。「情」のわかないものには名前などいらない。
 (老人の答えた「よそぞめ」がどんな花なのか知らないので、私は、それをどうだんの花だと思っているのだが、違っているかもしれない。私の書いていることは、いつものように、完全な誤読かもしれない。)
 この会話のあとの、2行が、とても不思議で、とても楽しい。

こんな草むらにもれきく、キリギリスの
ような会話にも旅の悲しみはますものだ。

 西脇は、西脇と老人の会話を「キリギリスの/ような会話」と読んでいる。草の間にないているキリギリスのかわす会話のようだと。それは、たぶん、人間の生活とは無縁、という意味だろう。ある意味で「非情」なのだ。そして、そこに美しさがある。いつでも、「非情」なものだけが、清潔で美しい。それはいつでも「情」を呼び覚ますからだ。「非情」だけが、引き剥がされた「情」だけが、人間の内部に「情」を呼び起こす。
 「情」のあるものが「情」を呼び起こすのではなく、「非情」が「情」の思い出させる。「情」を揺さぶる。
 この感覚を、西脇は「淋しい」と呼んでいる、と私は思っている。
 ここでは「淋しい」のかわりに「悲しみ」ということばがつかわれているが。

 「悲しみ」とは「淋しさ」。それは、現実から引き剥がされ、孤立した純粋な存在のことである。
 「孤立したもの」を別の「孤立したもの」に「ささげる」。
 十五夜には、月に「よそぞめ」やすすきをささげる。それは、月に、宇宙に、「よそぞめ」を愛している人間が存在することを思い出してもらうためだ。月に、宇宙に、そんなことを思い出してもらっても何にもならないかもしれない。しかし、その何にもならないことに、純粋の美、現実から引き剥がされた美がある。
 人は、現実から引き剥がされた美、絶対的な孤独の美に触れないことには、たぶん生きている意味がないのだ。





西脇順三郎詩集 (現代詩文庫 第 2期16)
西脇 順三郎
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安水稔和「棒」ほか

2009-09-14 00:00:11 | 詩(雑誌・同人誌)
安水稔和「棒」ほか(「火曜日」99、2009年08月31日発行)

 安水稔和「棒」は入院生活のことでも書いているのだろうか。病気のときの(たぶん)不安が書かれている。

棒がある
棒をもつ

棒がわたし
わたしが棒

倒さないように
倒れないように

そっと
そおっと。

 棒につかまって立つ。そのとき私は棒になる。棒と一体になる。最終連の「そっと/そおっと。」という似たことば、けれども違うことばの繰り返し。繰り返しのなかに、しずかにまぎれこんだ「お」の音。「お」を意識することで、動きがていねいになる。
 ていねい、とは意識することなのだ。
 ここには、ていねいに生きる意識が書かれている。入院して、いきることにとって「ていねい」がどれだけたいせつであるかを感じている詩である。

 「袋」という作品。

ふくろがある
わたしもふくろである。

ふくろにふくろが繋がる
手首と管で繋がる。

こころのどこかと
しっかり。

ふくろを意識する
ふくろであるわたしを意識する。

こころのどこかで
ぼんやりと。

ふくろがある
わたしもふくろである。

 「ふくろ」は点滴の袋かもしれない。そうすると「棒」は点滴をつるした棒だったかもしれない。
 「ふくろ」は「わたし」がつながるとき、「ふくろ」は外部にあって外部にない。外部のままでは、治療にならない。「ふくろ」の内部が「わたし」のなかに入ってきて、「わたし」が「ふくろ」になる。
 一体になる。
 そういうことを「意識」する。「意識」ということばを安水はきちんとつかっている。「こころ」と呼んで、「意識」といいなおし、もういちど「こころ」と言いなおす。
 生きる、というのは意識の領分ではなく、こころの領分である、と安水は考えている。だからだろう、「箱」という作品には、「意識」という表現はなく、ただ、「こころ」だけがつかわれている。

小さな箱ふたつ
首から紐でつるす。
胸とコードで繋ぐ。

ひとつの箱は
こころの形を写しだす
くっきりと。

もうひとつの箱は
こころの姿を蓄える
とぎれなく。

はく息 すう息
寝たまも寝息
うかがっている。

 心電図を記録する装置だろうか。「こころ」とは「心臓」である。病気の原因、というか、治療の対象が内臓なのだろうか。「こころ」と「心臓」がひとつになっている。「意識」は、たぶん、「心臓」ではなく「脳」につながっているのだろう。
 「意識」も大切だが、いまは「こころ」を大切にしたいと願っている。
 そして、「こころ」は「寝たま」(寝た間--という意味だろうか)も、からだのことをうかがっている。うかがう箱がこころ。「意識」は「うかがう」という静かな感じではなく、もっと、ちがったことばで動くのだろう。

 そういうことを考えた。




安水稔和詩集 (1969年) (現代詩文庫〈21〉)
安水 稔和
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