監督 トニー・スコット 出演 デンゼル・ワシントン、ジョン・トラボルタ
ニューヨークの地下鉄が乗っ取られる。運行指令室と犯人のやりとりが中心の映画だ。指令室も地下鉄も「密室」。そして、その「密室」が離れている。交錯するのは、ことばだけ。あ、私はにがてだなあ、こういう映画。映画を見ている気がしない。
デンゼル・ワシントン、ジョン・トラボルタも一生懸命演じているけれど、演技というのは基本的に相手の反応があって成り立つ。たとえ、あのシーン、このシーンとばらばらに撮影し、編集することで構成されるものであっても。この映画では、その肝心の人間と人間が、相手の反応をみながら動くというシーンが、最後の 最後の瞬間しかない。
それはそれでいいのかもしれないが。
でもねえ。英語がわからない私には、ことばのなかで動いている「情」のようなものが、2人が一緒にいないと、よくわからない。画面の切り替えでは、「空気」が違ってしまう。だから、なんとも歯がゆい。デンゼル・ワシントンとジョン・トラボルタのやりとりが、どんなに緊迫してきても、それがぴんと来ない。
一方、たとえばジョン・タトゥーロが指令室に乗り込んできて、「今からは私が犯人と交渉する」と言ったときの、デンゼル・ワシントンの顔の変化が、指令室の「空気」を変える。デンゼル・ワシントンはことばと同時に「顔」でも訴える。それがジョン・タトゥーロにもわかる。そして、そのわかったことが「空気」になる。これが映画。「空気」を写し取って見せることが。アップのときは、濃密に、ミドルのときは、他の人への「空気」の伝播の仕方がわかる。デンゼル・ワシントンが外されたときの、上司の対応、同僚の反応などが、指令室の「空気」を微妙に変えていく。その微妙さが、スクリーンから劇場内にあふれ、まるで「司令室」にいる気分にさせる。
もうひとつ、たとえば。身代金1000万ドル。ニューヨーク市長のジェームズ・ガンドルフィーニが「なぜ1000万ドル?」と問うと、側近が「ニューヨーク市長が議会(だったかな)の決裁を受けずに動かせる限度額だから」とこたえる。市長「私も知らないことをなぜ知っている?」。この、ちょっと間の抜けたやりとりが、市長と官吏の違いを浮き彫りにし、その場の「空気」をかきまぜる。
こういう何でもないような「空気」を丁寧に写し取ると、映画は映画らしくなる。映画はわからないが、「顔」の動きが「空気」を伝えてくれる。それがないと、映画はダメ。
インターネット・チャットとか、株の値下がりに反比例するように金相場があがるとか、現代風の味付けは工夫されているのだけれど、肝心の「空気」が欠落した映画だった。
デンゼル・ワシントンの知的な演技が評判になっているようだけれど、「知的」なのではなく、そこにジョン・タラボルタがいないということで「空気」が冷たくなっているだけ。ジョン・トラボルタのいる「地下鉄」にしても、デンゼル・ワシントンが同じ車内にいないから、「狂気」があふれださない。「狂気」はそばにいる誰かが必死になっておさえこむときあふれるものだ。「正気」のひとがいないのに「狂気」をあふれださせるには、もっと異質なキャラクターがひつようだろうな、と思った。
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