詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クリストフ・バラティエ監督・脚本「幸せはシャンソニア劇場から」(★★)

2009-09-15 22:54:50 | 映画


監督・脚本 クリストフ・バラティエ 出演 ジェラール・ジュニョ、カド・メラッド、クロヴィス・コルニアック

 パリの下町の劇場。人気の出し物がなく、つぶれる。それを復興する。その劇場関係者の人間模様。
 いいシーンが1か所だけある。「海へ行こう」(だったかな?)のシーン。舞台を映画で撮影している--という設定だが、ここだけ、実は舞台を超越している。舞台を写しているのではなく、舞台をみている観客の想像力を写している。そして、ここだけが、映画になっている。
 それまでもいくつも舞台のシーンは出てくるが、そのとき、カメラは劇場の中、観客席にある。あるいは、舞台のそで、舞台裏にある。あくまで、舞台を写している。
 ことろが「海へ行こう」では、舞台は劇場から飛び出してしまっている。それは「現実」の田舎道や海へ飛び出しているというのではない。あくまで、装置のなかで役者たちは演じているのだが、そのひとつひとつのシーンが「舞台」をはみだしている。簡単に言うと、映画のセットのなかで演じられる。客席からは絶対に見ることのできない天井(真上)からの俯瞰シーンが象徴的だが、それはセットでありながら、舞台のセットを超えている。その映像は、実際の(というのも、変だけれど、劇場の)舞台そのものではなく、映画向きのセットのなかでの映像である。役者たちは、映画のスタジオで、舞台と同じ演技をしている。
 そして、その映像は、映画のセットのなかでの映像にもかかわらず、観客の想像力の中の映像とぴったり重なる。
 芝居をみるとき、観客は不完全な(?)書き割りを、昇華(?)させるかたちで、リアルな状況に置き換え、そのなかで人間が生きていると想像しながらみる。そのときの「脳内」の映像は、舞台のまわりの「劇場」を完全に消してしまっている。カーテンもなければ、オーケストラもない。ただ、役者がいて、そのまわりの装置も必要なものだけが目に入る。照明などは完全に消えている。
 「海へ行こう」は、そういう映像である。
 役者たちは、車に乗り、自転車に乗り、浜辺にいて、また海の中にもいる。そういうシーンが地つづきではなく、カットカットでとらえられる。別なことばで言うと、「舞台」なのだが、それは「長まわし」によって撮影されていない。「舞台」というのはカメラなし「長まわし」なのだが(つまり、役者の演技はアナログにつづいているのだが)、映画では役者の演技はつづいていなくいい。歌がつづいていれば、車に乗っていたはずの人間が、次の瞬間に自転車に乗っていてもいい。浜辺にいたはずなのに、次の瞬間には海の真ん中にいてもいい。
 「肉体」は常に時間と場所にしばられるが、想像力は時間と場所にしばられない。
 映画は、舞台か、時間と場所の制約をとりはらったものだが、それは人間の想像力のありかたに非常に近い。「海へ行こう」のシーンは、「舞台」というよりも、それをみている観客の「脳内」の映像と音を再現しているのだ。

 映画そのものはありきたりだが、「海へ行こう」によって、映画と芝居の違いとは何か、人間の想像力とはどんなふうに動くか--そういうことを考察するには、なかなかいいテキスト(?)だと思った。



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角川ヘラルド・ピクチャーズ

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誰も書かなかった西脇順三郎(87)

2009-09-15 07:19:04 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「午後の訪問」のつづき。

梅の古木(こぼく)が暗い農家の庭から
くもの巣だらけの枝を道の上にさしのべて
旅人(たびびと)の額(ひたい)をたたくのだ。
その実はまだびろーどのように柔(やわらか)い。
野原の祖年に一つもいで人間を祝福した。
あの白いいばらの花もこひるがほの花も
人間の悲劇を飾るものだ。
この辺には昔(むかし)、オセアニアという
理想国があつたかも知れない。
この盆地を初めて耕(たがや)した者は
春に薔薇を摘み秋には林檎を摘んだのだ。
この短い旅のはて、ようやくお湯屋へ
たどりついたが、友は留守……
『ではさようなら』……
世田ヶ谷で古い茶釜を買つて帰つて来た。

 きのう読んだ部分には「悲しみ」ということばがあった。最後の部分には「悲劇」ということばがある。どちらも、「よそぞめ」とか「いばら」「こひるがほ」の花とか、自然が出てくる。
 非情、あるいは非人情としての自然。
 そういうものと向き合いながら、人間は孤独を知る。それを「旅」という。「旅人」とは、野を歩き、自然の非人情を知り、その非人情によってあらわれていく人間の淋しさをことばにする人のことだ。

 そういう「旅」をしたあと、「旅人」はもう、「友」にあう必要はない。もう、ことばはつかってしまった。自然のなかで、つかってしまった。
 ことばにしてしまえば、もう、友に語る必要はないのである。

 ここから、きのう読んだ部分のおもしろさが、ふっと、浮かび上がってくる。
 西脇は友人とは会話しなかった。だから、その会話の記録は、この作品にはない。けれど、西脇は、老人と話をした。草木の名前を聞いた。そして、そのことはきちんとことばとして書かれている。
 老人のことば--きのう、その特質について書かなかったが、そのことばは、西脇に西脇の知らないことをつげる。単に「よそぞめ」という名前だけではなく、その花を暮らしのなかでどんなふうにつかっている。どんなふうに、その花とむきあっているか、をつげる。それは、西脇にとっては「他人」のことばである。「他人」のことばにふれて、西脇は、また「他人」になる。「他人」として生まれ変わる。ここにも、「旅」の要素がある。いままでの自分をふりすて、新しいもののなかで生まれ変わるのが「旅」である。
 そして、「他人」と「他人」は、まるで友人以上に親密な何かに触れる。花、自然を自然のまま愛する「いのち」として。
 老人と西脇が会話するとき、その会話は「こんな草むらにもれきく、キリギリスの/ような会話」と書かれていた。老人がキリギリス、西脇が草むらか、あるいは老人が草むら、西脇がキリギリスか。どちらがどちらであってもいい。草と昆虫という別個のものが「共存する」。その「共存」が、草とキリギリスを、同時に分け隔てる。
 この共存と分離--共存と分離しながら、「会話」をして生きていく--ということのなかに、「淋しさ」がある。「悲しみ」がある。「悲劇」がある。
 説明はできないけれど、私は、そう感じる。





最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

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安水稔和「ゆらゆら」

2009-09-15 00:04:21 | 詩(雑誌・同人誌)
安水稔和「ゆらゆら」(「火曜日」99、2009年08月31日発行)

 きのう読んだ詩群のつづき。やはり病院での生活を描いているのだろう。「ゆらゆら」の全行。

ゆらゆらと
ものの影
あらわれて
ゆっくりと
近づく気配
細くなり
太くなり
伸びて
震えて
また繋がり
かげろうみたい
にげみずみたい
みたいな
あれは
ひとか
ゆっくりと
近づき
ゆらゆら
わたしも
ゆら

 「眼の事情」というタイトルのうちの1章。安水の入院は「眼」の手術か何かなのかもしれない。

かげろうみたい
にげみずみたい
みたいな
あれは
ひとか

 の部分の、「あれは」と言いなおす呼吸が、意識の動きをていねいに伝えている。ぼんやりしたものを、即座に「○○」と言ってしまうのではなく、一度「脳」のなかで反芻して、(あるいは、こころのなかで反芻して)、自分に言い聞かせる。自分を納得させようとしている。
 その前の部分に「また繋がり」ということばが出てくるが、「脳」は繋いでいるのである。意識は繋いでいるのである。眼にみえる何かを、記憶にある何かと。私の外にあるものと私の内部を繋ぐ--その働きをするのが「眼」(ほかの肉体もそうだけれど)。そして、その働きを確認する(繋がり具合を確かめる)のが「脳」であると言いなおすべきか。
 「私」と「私の外部のもの(存在)」を繋ぐとは、私のなかに「もの」が入ってくることである。意識が「一体」になる。そのとき、「私」は「もの」に影響される。あるときは、「もの」そのものになる。

ゆらゆら
わたしも
ゆら

 外部の「もの」が揺れている間は、「私」も揺れる。「私」だけが揺れるのではなく、「もの」も揺れる。この一体感が、不安である。


安水稔和全詩集
安水 稔和
沖積舎

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