監督・脚本 クリストフ・バラティエ 出演 ジェラール・ジュニョ、カド・メラッド、クロヴィス・コルニアック
パリの下町の劇場。人気の出し物がなく、つぶれる。それを復興する。その劇場関係者の人間模様。
いいシーンが1か所だけある。「海へ行こう」(だったかな?)のシーン。舞台を映画で撮影している--という設定だが、ここだけ、実は舞台を超越している。舞台を写しているのではなく、舞台をみている観客の想像力を写している。そして、ここだけが、映画になっている。
それまでもいくつも舞台のシーンは出てくるが、そのとき、カメラは劇場の中、観客席にある。あるいは、舞台のそで、舞台裏にある。あくまで、舞台を写している。
ことろが「海へ行こう」では、舞台は劇場から飛び出してしまっている。それは「現実」の田舎道や海へ飛び出しているというのではない。あくまで、装置のなかで役者たちは演じているのだが、そのひとつひとつのシーンが「舞台」をはみだしている。簡単に言うと、映画のセットのなかで演じられる。客席からは絶対に見ることのできない天井(真上)からの俯瞰シーンが象徴的だが、それはセットでありながら、舞台のセットを超えている。その映像は、実際の(というのも、変だけれど、劇場の)舞台そのものではなく、映画向きのセットのなかでの映像である。役者たちは、映画のスタジオで、舞台と同じ演技をしている。
そして、その映像は、映画のセットのなかでの映像にもかかわらず、観客の想像力の中の映像とぴったり重なる。
芝居をみるとき、観客は不完全な(?)書き割りを、昇華(?)させるかたちで、リアルな状況に置き換え、そのなかで人間が生きていると想像しながらみる。そのときの「脳内」の映像は、舞台のまわりの「劇場」を完全に消してしまっている。カーテンもなければ、オーケストラもない。ただ、役者がいて、そのまわりの装置も必要なものだけが目に入る。照明などは完全に消えている。
「海へ行こう」は、そういう映像である。
役者たちは、車に乗り、自転車に乗り、浜辺にいて、また海の中にもいる。そういうシーンが地つづきではなく、カットカットでとらえられる。別なことばで言うと、「舞台」なのだが、それは「長まわし」によって撮影されていない。「舞台」というのはカメラなし「長まわし」なのだが(つまり、役者の演技はアナログにつづいているのだが)、映画では役者の演技はつづいていなくいい。歌がつづいていれば、車に乗っていたはずの人間が、次の瞬間に自転車に乗っていてもいい。浜辺にいたはずなのに、次の瞬間には海の真ん中にいてもいい。
「肉体」は常に時間と場所にしばられるが、想像力は時間と場所にしばられない。
映画は、舞台か、時間と場所の制約をとりはらったものだが、それは人間の想像力のありかたに非常に近い。「海へ行こう」のシーンは、「舞台」というよりも、それをみている観客の「脳内」の映像と音を再現しているのだ。
映画そのものはありきたりだが、「海へ行こう」によって、映画と芝居の違いとは何か、人間の想像力とはどんなふうに動くか--そういうことを考察するには、なかなかいいテキスト(?)だと思った。
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