詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「捨てたい」

2009-09-05 18:30:18 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「捨てたい」(「朝日新聞」2009年09月05日夕刊)

 谷川俊太郎「捨てたい」を読んだ。2連目が印象的だ。

私はネックレスを捨てたい
好きな本を捨てたい
携帯を捨てたい
お母さんと弟を捨てたい
家を捨てたい
何もかも捨てて
私は私だけになりたい

すごく寂しいだろう
心と体は捨てられないから
怖いだろう 迷うだろう
でも私はひとりで決めたい
いちばんほしいものはなんなのか
いちばん大事なひとは誰なのか
一番星のような気持ちで

 「すごく寂しいだろう」は、どう読むのだろう。独立した行なのだろうか。それとも、次の「心と体は捨てられないから」にかかることばなのだろうか。
 逆に書いてみようか。「心と体は捨てられないから」はどちらの行にかかるのだろう。「すごく寂しいだろう」か、「怖いだろう 迷うだろう」だろうか。教科書国語では「心と体は捨てられないから怖いだろう 迷うだろう」になるのだと思うが、私はなぜか、「すごく寂しいだろう/心と体は捨てられないから」と読みたい。倒置法で書かれた行だと読みたい。
 もし、心と体を捨てられたれ、「寂しい」と思わずにすむ。心と体があるからこそ、「寂しい」と思うのだ。
 そして、その理不尽な(詩とは理不尽なものである)寂しさを実感した後、その寂しさを他の感情が追い掛けてくる。「怖いだろう 迷うだろう」。
 詩のことばは、作為的に並べ替えられた結果――ではない。効果を狙って、たとえば「倒置法」が選ばれているのではない。こころが動いた通りに、ことばが追い掛けるのだ。
 すべて捨てたら、「すごく寂しいだろう」。なぜなら「心と体は捨てられないから」。つまり、「心と体」だけが存在することになってしまうから。ほかに何もない――無の中に、「心と体」だけがぽつんと存在することになるから。そして、その「寂しい」気持ちを十分に味わった後、「怖いだろう 迷うだろう」とこころがやってくるのだ。
 このことばの動きに、まず、ひきつけられる。
 そのあとも、また、とてもいい。

いちばんほしいものはなんなのか
いちばん大事なひとは誰なのか
一番星のような気持ちで

 この「一番星」はその前の繰り返される「いちばん」に誘われて出てきたことばである。ことばがことばを誘う。その誘いにのって、ことばが自律的に動いていく。ことばに誘われて、そのとき、「こころ」が誕生する。「こころ」が言葉を発見するのではなく、ことばが「こころ」を発見し、命を与える。誕生させるのだ。
 一番星のように。
 一番星は、夜空にはじめて生まれてきた星。それは、なにもかも捨て去って誕生した星。たった一人で、宇宙と向き合っている。自分のまわりにあるものを捨てるのは、宇宙と向き合うことなのだ。

 何から書き始めても、宇宙につながってしまう――それが谷川俊太郎なのかもしれない。




これが私の優しさです―谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
集英社

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誰も書かなかった西脇順三郎(77) 

2009-09-05 12:40:27 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「冬の日」。後半が好きだ。

メグロ駅の方へ冬の祭りを見に走つた。
駅の近くのスキピオとかいう家
でおばあさんが笛を吹いて
酒もりをしている。
紫紺に染め草色のうらをつけた
我がマントをうしろからひつぱる少年がいた。
『さんまも栗も終つたが是非
おたちよりを願いたいとだんなが
いつていやはります
ソクラテスはんも来てやはる』
これはプラトンの「共和国」
の初めだ。

 なぜ、メグロ(目黒、だろう)にスキピオが出てきたり、プラトンが出てきたりするのか、その飛躍は、まあ、単なる飛躍だ。そういうことは考えても仕方がない、と私は考える。そういう飛躍に、私は、詩を感じない。
 しかし、キスピオの行に関して言えば、その行の独立のさせ方に詩を感じる。

駅の近くのスキピオとかいう家
でおばあさんが笛を吹いて

という行の展開は、教科書国語ではありえない展開である。「で」という助詞は単独では存在し得ない。「家+で」という形でつかわれるのが一般的である。ところが、西脇は、この「で」を切り離し、次の行の冒頭におく。あるべき「で」を欠くことで、「スキピオとかいう家」が独立する。その独立のさせ方に、詩がある。

 詩とは、ことばの独立である。

 西脇は、もしかするとどこかでそんなことを書いているかもしれない。書いていないかもしれない。不勉強な私にはよくわからないが、西脇が、詩をことばの独立と考えていたことは、その行からだけでもわかる。
 そして、詩とは、ことばの独立であるからこそ、

いつていやはります

 という行が、また1行として書かれもするのだ。少年のことばは、教科書国語では「さんまも栗も終つたが/是非おたちよりを願いたいと/だんながいつていやはります」になるが、そういう「文法」破壊し、西脇はことばを独立させる。
 「文法」を破壊することで「意味」の「通り」を寸断し、「意味」を宙ぶらりんにする。「意味」を「脱臼」させるといってもいいかもしれない。そたでは「意味」は動かず、ただことばが、音として、その形をみせる。

いつていやはります

 京都弁か、あるいはその近辺の関西弁か。よくわからないが、標準語ではない。「メグロ」の近くで話されていることばではない。
 その「音」の独立。
 西脇が「意味」を書きたいのなら、わざわざ、「いつていやはります」とは書かないだろう。
 音が独立し、そして、その独立して存在することが、また「スキピオ」や「プラトン」ともつながるのである。「目黒」が「メグロ」という音になってしまったとき、それは「目黒」という東京の「場」を超越して、祝祭の「場」になる。それは「スキピオ」の時代につながり、京都に重なり、プラトンとも交流する。
 こんなでたらめ(?)は詩の特権である。
 独立したことばは、「いま」「ここ」にしばられない。自由に時間、空間を超越して、音として互いに響きあう。
 こんな例えが適切であるかどうかわからないが、それはピアノとバイオリンとフルートが、「ド・レ・ミ」の和音をつくるように、響きあう。
 西脇の「和音」を聞きとるためには、たぶん、いろいろな文学素養が必要なのだろう。(そういう解説書はたぶんたくさん書かれているだろう。)けれど、たとえ文学的素養がなくても、耳をすませば、その音楽は聞こえる。
 音にはいろんな層がある。哲学的言語。文学的言語。そういうものばかりではなく、東京弁。京都弁。商人のことば。やくざのことば。少年のことば。女の声。男のなげき。そういうものを、西脇はさまざまに響かせる。
 どんなことばも、音として響きあうのだ。

ソクラテスはんも来てやはる

 「ソクラテス」と京都弁も響きあうのだ。「は」という音は、日本語本来の音としては文頭以外では「わ」というふうに発音される。例外は「はは」くらいで、外は助詞の「は」が「わ」であるのと同じように、「わ」。「やはた」は「やわた」。けれども、「いつていやはります」「ソクラテスはん」「来てやはる」の「は」は「は」のまま。日本語としては標準語より京都弁(関西弁)の方が古いはず(と私は勝手に思っている)だが、その古いはずのことばが「は」を「わ」と発音しない。まるで、外国語である。--と、西脇が感じたかどうかはしらないが、この行が、標準語ではなく京都弁として書かれているのは、そこに書かれているのが「意味」だけではないことの証拠になるだろう。西脇はいつでも音のことを考えていた証拠になるだろうと思う。



西脇順三郎変容の伝統 (1979年)
新倉 俊一
花曜社

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佐藤文香「陽気」

2009-09-05 00:23:46 | その他(音楽、小説etc)
佐藤文香「陽気」(「ふらんすどう通信」121 、2009年07月25日発行)

 佐藤文香は宗左近俳句大賞を受賞した俳人である。その受賞作を私は知らないし、他の作品も知らない。たまたま「ふらんすどう通信」にのっている「陽気」という近作を読んだ。
 冒頭の一句がとてもいい。

初恋や氷の中の鯛の鱗

 今はなかなかそういう売られ方をしないが、魚屋の店先に、砕いた氷があって、そのうえに魚が並んでいる。誰かが鯛を買っていったあと、その空白というか、鯛がいままでいた場所に、名残のように鱗が一枚落ちている。--そんな小さな風景は、ふつうは見えないかもしれない。そういうふつうは見えない風景を見てしまうのが初恋なのだと、ふと思ったのである。
 初恋。恋にさらわれていったこころ。そのこころのかけらのように、いまここにある鱗。初恋だから、いつの日か、かけらと本体が入れ替わってしまうかもしれない。そういうことも、感じている作者。
 あ、初恋は、ほんとうは初恋ではなく、初恋であってほしいと思う気持ちが呼び寄せる何かなのだ。--ほんとうの初恋のときは、それが「初」であるかどうかなど、わかりはしないのだから。「初」には、遠い、遠い、遠い、願いがこめられている。
 もしかすると、「鱗」は、初恋以前の恋、この恋を「初恋」にするための、こころのかけらかもしれない。

新しいかき氷機もまた機械

僕らのコンクリートの倉庫夏休み

 この2句の、明るく、透明な、哀しい響きもとても気持ちがいい。



句集 海藻漂本
佐藤 文香
ふらんす堂

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