詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

蜂飼耳「愛書探訪 梶井基次郎『檸檬』」

2009-09-12 17:30:26 | その他(音楽、小説etc)
蜂飼耳「愛書探訪 梶井基次郎『檸檬』」(「読売新聞」2009年09月12日夕刊)

 蜂飼耳「愛書探訪 梶井基次郎『檸檬』」の最後の部分に引き込まれた。

 読んでいるうちに「私」が買った一つの檸檬は存在感を増していく。作品のなかで、視線を集める。同時に、消えていく。まるで天体の誕生(たんじょう)と消滅(しょうめつ)を思わせる。だれにとっても、ある日の、そんなものがあるだろう。「私」にとっての檸檬のような存在が。つまり、気もちが切り替(か)わる軸(じく)になるもの。思いがけず心の角度を変化させるもの。今日の檸檬と出会いたい。計画なしで、ふらりと、確かに。

 「作品のなかで、視線を集める。同時に、消えていく。」この矛盾した指摘がとてもいい。
 矛盾なので、そのあと、何度も何度も、それをいいかえる。
 「天体の誕生と消滅」ということばはかっこいいが、そういうものを具体的に見た人はいない。「頭」で、「知識」として知っているだけ。だから、また、それを言い直す。「檸檬」にもどり、「気もち」という誰もが日常的に知っていることばで。でも、やはり宇宙に関係づけて言いたい。だから、宇宙よりも身近な(たぶん)地球を引き合いに出して、「軸」ということばをつかう。地球の軸、地軸の「軸」。
 そしてまた、檸檬。
 最後に、作品の分析(?)ではなく、蜂飼自身の欲望。
 この、行ったり来たりの変化、うごめき――そこが、とてもおもしろい。




食うものは食われる夜
蜂飼 耳
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(84)

2009-09-12 06:52:43 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『近代の寓話』には「さんざし」と「ささげる」ということばが頻繁に出てくる。きのう読んだ「冬の日」にも両方出てくる。そのあと「梨」「山●の実」(谷内注、漢字が表記できないので●にした。木偏に虎冠、儿の部分が且)「人間の記念として」とつづいている。「さんざし」の表記、「ささげる」の表記はちがっているが……。真っ赤な林檎のような実とみどりの対比が好きだったのだろうか。

 「梨」という作品。そこに、不思議な不思議な1行がある。

めぐって来た百姓の生垣の薄明に
とつた山査子の実にギリシャの女神
の哀愁をおぼえるのだ
三十年前にいたロンドンの北部の
坂のある町に老人と一緒に住んだ時の
ことなど忘れた釘のように
脳髄を衝き刺すのだ 

 「ことなど忘れた釘のように」は「ことなど忘れた/(はずだが、だが、その思い出が)釘のように」という「意味」だと思うが、この文脈のはげしいショートカットに、とても驚く。
 忘れていたが、山査子の実を見て、ふいに思い出した。
 そう、つげて、この詩はそれから老人との思い出になっていく。そこに「ささげる」が出てくる。

この老人は朝早くから晩おそくまで
トトナム・コート・ロウドの暗い事務所でなにか
商売をしている野羊のような人間
この家の裏に細ながい庭があつて
秋のかすみのなかで黄色い梨がなつた
毎日でたらめにピアノをひいて老人
が帰るのを待つていた
或夜古本でボオドレルの伝記を買つて
来てくれたが手あかで真黒くなつて
いたので指先でところどころひろげた。
このシャイロックのような老人に
不幸な女の涙と野ばらの実を捧げ
たいのだ

 「野ばらの実」と書いているが、さんざしはバラ科の木なので、さんざしの実のことを「野ばらの実」と書いているのかもしれない。
 なぜ、ささげたいのか。
 老人は商売人である。その老人が、ボードレールの伝記を買って来てくれた。その「落差」に、西脇は人間の哀愁を感じたのだ。生きていて、その暮らしのなかで、うまく「形」にすることができないまま、生きている「いのち」。その「いのち」に触れたことを、西脇は忘れたくない。
 長い間、忘れていたが、忘れたくない。
 「ささげたい」は、一緒に「思い出したい」ということなのだ。

 恋人に花をささげるのは、花を見て、私を思い出してくださいという意味だ。神に供物をささげるのは、神に私のことを思ってくださいという意味だ。

 老人に「野ばらの実」(さんざしの実)をささげるのは、私はさんざしの実をみてあなたと一緒に過ごした時間を思い出します。だから、あなたも、私のことを思い出してほしい、と願うからだ。
 なぜ、思い出してほしいのか。
 それは「なぜ」ではなく、何を思い出してほしいのかを考えた方がいいかもしれない。
 老人はボードレールの伝記を買ってきてくれた。商人のような老人がボードレールとつながっているということに、西脇はこころを動かされたのだ。商人とボードレールは不似合いかもしれない。そこに断絶があるかもしれない。その断絶を越えて、商人とボードレールが結びつく。そこに、詩、がある
 西脇は、詩、が存在した瞬間を、老人に思い出してほしいと願っている。その詩を、いま、ここに、呼び出すために、供物のようにさんざしをささげるのだ。
     
 手垢で黒くなった古本。ボードレールの伝記。ボードレールと手垢で黒くなった本の断絶と、断絶を越えて結びつく何か。手垢で黒くなったという「不潔」と、それほどまでに愛読されたという証拠、「純粋」の結びつき。本は愛読すればするほど、手垢で汚れる。この、純粋と不潔の、矛盾の、不思議な結びつき--のようなものを、西脇は、とても愛しているのだ。
 詩が、矛盾のなかにあることを思い出すために、西脇は、さんざしをささげる。あるいは、ことばをささげる。

 「山●の実」(さんざしの実、と読んでください)にも、さんざしを「ささげる」ということばが出てくる。

十月の末のマジエンダ色の実のあの
山●の実を摘みとつて
蒼白い恋人と秋の夜に捧げる
だけのことだ。
なぜ生垣の樹々になる実が
あれ程心をひくものか神々を貫通
する光線のようなものだ。
心を分解すればする程心は寂光
の無にむいてしまうのだ。
梨色になるイバラの実も
山●の実もあれ程Romantiqued なものはない。
これほど夢のような現実はない。
これほど人間から遠いものはない。
人間でないものを愛する人間の
秋の髪をかすかに吹きあげる風は
音もなく流れ去つてしまう。

 ここに、西脇の考えていることが、端的に書かれている。
 「あれ程心をひくものか神々を貫通/する光線のようなものだ。」は何度もみてきた西脇独特のつまずき、ショートカット、である。「あれ程心をひくものか/(まるで)神々を貫通する光線のようなものだ。」としてしまえば、教科書国語の文法になる。だが、教科書国語では「心をひく」と「神々を貫通」することが並列されてしまう。それでは直列のエネルギーにならない。並列のエネルギーのままでは、次の「心を分解すればする程心は寂光/の無にむいてしまうのだ。」という哲学へ突き進むことはできない。
 直列の文脈でエネルギーを巨大にし、ふつうのことばではたどりつけない「こと」を書いてしまう。心は分解すればさびしい(淋しいではなく、西脇は、ここでは寂しいをつかっている)光、無になる。それは、いいことか、悪いことか。わからないけれど、そういう一種の「矛盾」に到達する。そういう寂しい光、無のなかで、山●の実はロマンチックなものになる。
 その、ロルンチック、とは何?
 西脇は「夢のような現実」と定義し、すぐに「これほど人間から遠いものはない。」と定義している。
 ロルンチックが人間から遠い?
 これは、心を分解し、それが寂しい光になって、無になって、はじめてリアルになるものがロルンチックであるという意味である。寂しい光、無--それはふつうにいう「人間」からはとても遠い人間である。ふつうの人間から遠くはなれたところまでいける人間だけがロマンチックに触れることができる--そういう意味である。
 「人間でないものを愛する人間」とは、たとえば、さんざしの赤い実を愛する人間のことである。さんざしの赤い実に、寂しい人間だけが発見できる美--それを愛する人間である。
 そういう「美」のありようを思い出すために、秋の夜にさんざしの実を西脇は「ささげる」。
 人間のさびしい美しさを思い出すために、さんざしの実をささげる。
 「思い出す」を、いま、ここに呼び出す、と言い換えると、ささげるの意味はもっとはっきりするかもしれない。

 詩が、いま、ここには存在しないものを呼び出すためのことばであるように、すべてはいま、ここにないものを実在させるために西脇のことばは動く。




Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター

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柿沼徹『ぼんやりと白い卵』

2009-09-12 00:46:02 | 詩集
柿沼徹『ぼんやりと白い卵』(書肆山田、2009年08月31日発行)

 柿沼徹『ぼんやりと白い卵』はタイトルになっている1行がある「コバヤシの内部」が非常におもしろい。ただ、そのおもしろさを、きちんと説明できるかどうか、私にはよくわからない。でも、書いてみたい。「コバヤシの内部」について書きたい--という気持ちにさせられる。

眠りから放り出されると
昨夜の会話の足跡のように
食器が散在している
明け方の食卓

その上に
一個の卵がある
傷ひとつなくそこにあることが
うすくらい光のなかで
私に向き合っている
それ以外は夜明け
底知れない夜明けだ

ぼんやりと白い卵
せめて呼びかけてみたい
例えば…
コバヤシ、と呼んでみる
と、それは
見たことのない一個にみえる
手のひらのうえの
コバヤシの固さ
やわらかな重さ

 「呼んでみる」。ここに、「思想」を感じる。何かを「呼んでみる」。それは、ここで取り上げられている「卵」だけのことではないのだ。
 たとえば1連目。
 食器が散らかっている食卓。そのありようを「昨夜の会話の足跡のように」と、柿沼は「呼んでみる」。ほかの言い方もできるのだが「昨夜の会話の足跡のように」とことばにしてみる。
 何かを、呼んでみる。ひとの呼ばない名前(ひとのつかわない言い方)で、ことばにしてみる。ことばにした瞬間から、何かが違ってしまうのだ。
 1行目。
 「目が覚めると」と書くこともできるかもしれない。しかし、柿沼は「眠りから放り出されると」と書く。そのときから、柿沼は、柿沼の「内部」と向き合っている。「眠りから放り出されると」ということばはなじみやすい。「昨夜の会話の足跡のように」というのは少し変わっているけれど、それでもなんとなくわかる。きっとその会話は楽しいというよりも、少し棘がある会話かもしれない。そのときの「ぎすぎす」した感じが、食器が散らばっている感じと重なり合う--というのは、もちろん、私だけの想像かもしれないけれど、そういう想像を誘うことば、柿沼の「内部」に何かが起きていると感じさせることばである。

 「ことば」は、それを発したひとの「内部」を感じさせる。「目が覚めると」という表現では「内部」はほとんど感じられないが、「眠りから放り出されると」では「内部」を感じてしまう。自分から目覚めたのではなく、何かに放り出された--そこに「他者」の力が働いている、他者の影響がある、と感じさせる。「昨夜の会話」の相手が「他者」かもしれない。
 そんな、あれやこれやを、ともかく感じさせる。その「あれやこれや」を私は勝手に「内部」と呼んでいる。

 そんなあれやこれやを抱えた「内部」としての柿沼が、卵と向き合う。
 おもしろいのは、そのことを、柿沼(私)は卵と向き合うといわずに、「私に向き合っている」と書いていることである。「卵」が主体なのだ。私が向き合うのではなく、たまごが向き合う。しかも、卵というよりも、正確にいえば、「そこにある」ということが向き合っている。
 「そこにある・こと」。つまり「こと」が向き合っている。「もの」ではなく「こと」が。

 それが「もの」ではなく「こと」であるからこそ、「コバヤシ、と呼んでみる」ということが可能なのだ。「そこにある・もの」は「ぼんやりした白い卵」であるこけど、「そこにある・こと」は「卵」ではない。
 「もの」と「こと」は厳密に区別するのはむずかしいのだが……。
 一個の卵。それは「固さ」であり、「重さ」である。そして、その「固さ」「重さ」というのは、卵にとって「もの」なのか。それとも「こと」なのか。私には「こと」に思える。「固さ」は「固いという・こと」。「重さ」は「重いという・こと」。「やわらかな」ということばも出てくるが、「やわらかな」とは「やわらかいという・こと」

 「もの」もこわれるが「こと」もこわれる。

コバヤシを床に落とす
コバヤシは落花のさなか、ま下に
今を見すえる

耳のなかで
かすかに列車の音がひびく
コバヤシが
床に乱れているコバヤシの内部が
朝方の光をうけている…

 「卵・コバヤシ」が落下する。そのとき、「卵・コバヤシ」は「今を見すえる・という・こと」をする。「今を見すえる・という・もの」になるのではなく、「見すえる・という・こと」をするのだ。
 そして、その結果、こわれるのは「内部」という「もの」ではなく、「内部」という「こと」である。「かすかに列車の音がひびく」という「こと」。そんな音を想像している柿沼--そのこころでおきている・ことが散らばり、朝の光を受けるのだ。

 「内部」は「もの」ではなく「こと」でできている。
 1連目に戻る。
 「眠りから放り出される」と書くとき、「眠りから放り出される」という「こと」が柿沼の「内部」で起きている。「昨夜の会話の足跡のように」とことばが動くとき、後片付けのすんでいない食器という「もの」が、「昨夜の会話」、話しあった「こと」になっている。そしてその話し合いがこころに残した「もの」ではなく、話し合いがこころにのこした「こと」がいま、柿沼を動かしている。
 そういう「こと」へ向けて、柿沼は「コバヤシ、と呼んでみる」という「こと」をするのである。

 「こと」と「こと」が触れ合う。「こと」はこわれながら「こと」になる。「明け方の光をうけている」という「こと」。
 それが「こと」だから、なんとなく、まだ、再生が可能--というような、希望のようなものがある。とりかえしがつかない、というのではなく、まだまだ「こと」を繰り返してゆける、というような「こと」を感じてしまう。

 唐突かもしれないが。

 「こと」というものに、「いのち」を感じた。だから、「こと」を中心に動く柿沼のことばを「思想」と呼びたくなったのだと思う。




みたことのある朝
柿沼 徹
詩学社

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